第三話 狼化妄想症

1.黄昏の邂逅

 昼と夜が溶けて混ざったような夕暮れ時。

 陸上部に所属する沢村さわむら柚那ゆうなは、土曜日の練習を終え、川沿いの道を自宅に向かって歩いていた。

 肩に掛けたエナメルバッグは、汗を吸ったタオルやスパイク、水筒などでずっしりと重くなっている。ずり落ちてきた肩紐を直すために顔を傾けた柚那は、ふと、対岸の道を走る人影に目を向けた。

 柚那は短距離ランナーだ。小さな親近感を覚え、心の中で応援の言葉を掛けた柚那は、肩紐を直すと前を向いて足を進める。しかしそこで妙な違和感を覚え、再び人影へと視線を合わせた。

 別に珍しい光景ではない。車輌の侵入が禁じられているこの道は、ランニングコースとして利用者も多い。だが彼女の中の何かが人影に目を向けさせる。

 薄闇の中で柚那は目を凝らし、やがて、違和感の正体に気づいた。

「え……あれって、藍川あいかわくん!?」

 一人きりだというのに、柚那は思わず声に出して呟いていた。それほど彼女の視界に映った光景は衝撃的だった。


 藍川――藍川律は、同じ小学校から進級した同級生だった。「だった」というのは、彼がもう一年以上学校に来ていないからだ。噂によれば彼は、ずっと自宅に引きこもっているらしい。

 特段深い仲だったわけではないが、顔を合わせれば雑談に花が咲く程度には仲が良かった。林間学校や修学旅行では同じ班になったこともあった。

 本当は優しく柔らかな性格を、格好をつけたいのか、妙にぶっきらぼうな口調で隠そうとしている。柚那は律をそう評価していた。そしてそんな彼に、柚那は少なからず好感を覚えていた。もっとも、それは異性に対する好意とは違っていたが。

 だから彼が引きこもっているという噂を耳にしたとき、彼女は信じられなかった。律が、自宅に引きこもるような性格には思えなかったからだ。

 そんな彼が、家から出て、河原の道を走っている。これはなかなかの事件であった。

「何やってるんだろ……って走ってるのか。いやそうじゃなく!」

 柚那は混乱していた。律の足は決して速いとはいえないペースだが、しかしそうしているうちにも、ゆっくりと確実と華奢な背中は小さくなっていく。

 どうしようかと視線を彷徨さまよわすと、律の背中の数十メートル先にある小さな橋が目に入った。

「うん。細かいことは後にしよ」

 直情的な性格をしていた柚那は、そこで一旦、考えるのを止めた。


 *


 律は日課となったランニングを続けていた。先日の刃物男の一件で、律は己の肉体の貧弱さを痛感した。いくら達人の動きの情報があっても、それを活かすハードウェアは律自身の体なのだ。ランニングを始めとした運動でスタミナを付け、ストレッチで可動域を拡げることで、能力の幅も大きくなる。律は自分の身を守るため、そして『更生』を成し遂げるために、決してサボることなく体力づくりに勤しんでいた。


 河原の道を確かな足取りで踏みしめながら律は走る。始めた頃は数キロで呼吸困難に陥るほどバテていた律だが、少しずつ距離を延ばし、今では緩やかなペースながら十キロ近く走ることができるようになっていた。

 ランニングウェアに身を包み涼しい顔で並走する皐月に励まされながら、律は一つの定番となった河原のコースを真剣な表情で走っていた。

「藍川くん!」

「うわっ!?」

 一心不乱に前を見つめ脚を繰っていた律は、側面から突如発せられた声に、文字通り飛び上がるほど驚いた。

「ご、ごめん! 大丈夫!?」

 足がもつれかけた律を、慌てた様子で誰かが支える。制汗剤の匂いがふわりと香った。

「あ、ああ……」

 体勢を立て直した律は、ようやくそこで声の主に目を向けた。

「……さ、沢村?」

「よかった! やっぱり藍川くんだった!」

 にっこりと笑顔を向ける声の主は、かつての同級生、沢村柚那だった。突然の事態に、律は必死に思考を回す。隣の皐月に助けを求めるように目を遣れば、彼女は黙って肩を竦めた。自分で考えろ、ジェスチャーは言葉よりも優秀だった。


(そういえば、対岸を歩いている人影があった気がする。もしやあれが沢村だったのか。しかし結構前にすれ違ったはずだ。律に気づき、引き返してきたのか。確か陸上部だったか。流石に速いな。逆方向へ走っていたというのに、女子に、しかも重そうなバッグを担いだままあっさり追いつかれた。ちょっと自信無くすな……といけない、現実逃避している場合じゃない)


 雑念を振り払うように律は現状を打開するための思考を再開する。同じ町内を走っているのだ、いつかこういう事態が来ることは危惧していた。だから変装も兼ねてニットキャップとサングラスを着用していたのだが、こうもあっさりと見破られるとは。

 ランニング中に同級生に遭遇し、変装も見破られた。顔を伏せ、人違いを強硬に主張してその場を去ろうにも、陸上部相手では逃げ切れないだろう。そもそも、つい咄嗟に名前を呼んでしまったのだ、〝人違い〟でごり押しするのは無理だ。

 少しずつ状況は理解できてきた律だが、しかしどうするのが正解なのかわからない。ああ、だの、うう、だの言葉にならない唸り声を上げていた律は、遂に観念したように口を開いた。

「ええと……久しぶ、り?」

 運動による汗と冷や汗でびしょびしょになった顔に愛想笑いを張り付け、出てきた言葉がそれだった。


 柚那も、横にいた皐月も、浮かんだのが呆れの表情だったのは言うまでもない。

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