15.猛攻

 まずい。まだその時ではない。

 絶叫する律の横で、皐月の内心――律の脳の深層部は、焦りで埋め尽くされていた。

「うるさっ! え、なに? そんなに驚いたの?」

 喉を焼き切らんばかりに吠える律の咆哮に少女は耳を塞いでいる。

 だがそんなどこか滑稽な仕草をしながらも、小柄な体躯に狂暴性を無理やり押し込めたような圧力は、びりびりと空気が震わせていた。殺意と暴力の危うい均衡――その一瞬一瞬のうち、律の脳は膨大な演算を行っていた。

 『更生』を目標に据えているものの、それも命あっての物種だ。目先の危機が迫った状況下では、生命の維持に全力を注ごうとする。

 攻勢、奇襲、逃走……演算回路は最善の手段を模索するが、しかし人狼と〝あの女〟を相手取る時点でいずれも生存確率は乏しい。それでもなにか抜け道はないか、と可能性の枝を模索する皐月にとって、少女の次の行動は意外だった。

「こんな人間サイレンがいたんじゃ、いつ邪魔が入るかわかんないし」

 少女は顔を顰め、吐き捨てるように言うと、身を翻した。

「次会う時までに、まともにお話できるようになっといて……それと」

 闇へと一歩踏み出した少女は、思い出したように首を回す。

「この子は置いていくから、遊んであげてね。壊しちゃってもいいよ」

 ぽん、と人狼の背を叩いた少女は邪悪な笑みを律に向けると、首を元に戻し歩を進め――闇の中へ消えた。

「いったいなんだってんだ……」

 そう漏らす田中の声には困惑がありありと表れていたが、視線は人狼へと向けられたままだ。

「……よくわからないけれど、帰ってくれたみたいね」

 皐月が厳しい表情で応える。

 相当のプレッシャーを放っていた少女が消えたとはいえ、安心には程遠い。予想外の脅威は去ったが、もうひとつの脅威は依然として残っていた。


 少女が消えた木々の間に立ちはだかるように、人狼はその巨体を一歩前へ進めた。

 一本一本が大人の掌ほどもある大きな爪が輝き、張り詰めた緊張感が周囲を充たす。

 皐月は未だに錯乱したように喚いている律の襟首を握り、反対の手で頬を強く打った。

 小気味良い乾いた音を鳴らした律は一瞬、惚けたような表情を浮かべたものの、その瞳には徐々に光が戻ってきた。

「皐月さん? ……あ、あいつは!?」

「しっかりしなさい!」

 皐月は腕を伸ばし、ようやく口の聞けるようになった律に飛びつき、引き倒した。

 直後、かなりの距離を一瞬で詰めてきた人狼が豪腕を振るう。ぶおんという空を切る音が頭上で鳴り響き、律の意識を強制的に覚醒させた。

 追撃を警戒して転がりながら素早く起き上がった律たちだが、人狼は後方へ跳躍することで再び距離を取っていた。

 ――律や田中の攻撃を警戒したのではなく、遊ばれているのだ。そのことを律たちはすぐに思い知った。


「喰らえッ!」

 田中がなにかを唱えながら懐から護符のようなものを数枚取り出し、手裏剣のように射出する。

 真っ直ぐ飛んでいく紙片に空中で青白い炎が灯り、拳大の火の玉となって人狼へと殺到した。

 だが人狼が丸太のような腕を一振りしただけで、火の玉は全て掻き消えた。

「嘘だろおい」

 田中が絶句したその瞬間、人狼の背後から黒い巨体が唸り声を上げ飛びかかった。

 送り犬だ。がら空きとなった肩口へと鋭い牙を突き立て、喰らいかかっている。しかし人狼はよろめきもせず、まるで虫でも払うように裏拳を放った。それだけで、送り犬の巨体が冗談のように弾き飛ばされる。

 人狼の出鱈目過ぎる力に田中が一瞬怯み、送り犬も退けられた。その隙を人狼は見逃さなかった。

 脚に力を入れる人狼の視界の先には、護るもののない柚那がいた。震えて膝をつく柔らかな肉に人狼が舌なめずりをしたとき。

「こっちだ、バカ犬!」

 能力によって最適化された動きで律が投擲した小石が、人狼の頬を打った。

 ダメージを与えるには至らないものの不快にさせるには十分だったようで、目標を変えた人狼が律へと向き直る。

 次の刹那、律がいた場所に必殺の双爪が振り下ろされた。横へのステップにより紙一重で躱した律を、更に爪が襲う。

 縦、横、突き、と変則的に繰り出される爪は、一発一発に必殺の威力が込められていた。直撃すれば紙のように引き裂かれ、掠っただけでも重傷は免れないだろう。

 切り裂かれた髪が舞い、頬や手足には無数の切り傷が刻まれていく。能力による達人の見切りをもってしても、人外の速度から繰り出される苛烈な猛攻は徐々に律を蝕んでいった。

 このままではジリ貧である。それは理解していたが、律は、中学生の肉体でも有効な、回避に特化した技術を吸い上げていた。体力づくりや筋トレとともに打撃や蹴脚術も徐々に取り入れていたが、送り犬の攻撃すら有効打を与えられない相手には焼け石に水であろう。

 律が猛攻を凌ぎ続ける間、田中たちは指を咥えて見ていたわけではない。攻防の合間を縫うように護符による呪術や送り犬の爪や噛みつき、突進が繰り出されるが、いずれも有効打にはならず、僅かな硬直時間を作り出すのみに留まっている。

(どうすれば……)

 律の脳裏で徐々に焦燥感が湧き上がる。このままでは先のない律は、無意識に縋るような視線を皐月に投げていた。

 その一瞬の空白を、人狼は見逃さなかった。

「藍川くん!」

 少し離れたところから柚那の悲鳴が響く。と同時に、素早く水平に振るわれた手甲により攻撃を受け流していた律の両腕が上に払われた。

 律は万歳をするような形で腕を上げ、胴体部分ががら空きとなる。

 人狼は残虐な笑みを浮かべ、最後の一撃を繰り出すべく右腕を振りかぶった。律の命が風前の灯だった。この腕が振るわれた時、律の胴体は上下へと分断されることだろう。

 死を目前にしたそのとき、律はようやく皐月と目が合った。


 ――果たして。皐月は、微笑んでいた。

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