16.手負いの獣
「――オン ウカヤボダヤダルマシキビヤク ソワカッ!」
素早く印を結び九字を切った田中が、律の前に躍り出た。
「おじさん!」
律が叫んだ直後、必殺の爪が薙ぎ払うように振るわれ、金属同士を打ち鳴らしたような鈍い音が響く。
出会ったばかりの男の絶命を予感した律だが――しかし、田中は人狼の爪を左腕で受け止めていた。
律は知る由もないが、田中が使ったのは呪詛返しの術だった。
田中は戦闘の最中、対峙する人狼が呪術体に近いものであると看破していた。即ち繰り出される物理攻撃もまた呪術の一部であり、呪いや魔法を押し留め、使用者へと返す呪詛返しが有効であると咄嗟に判断したのだ。
田中の読みは当たり、身体に拮抗する力を働かせることで人狼の攻撃を押し留めることに成功したのだった。
しかし余程魔導に長けた相手が背後にいるのか、人狼には強力な魔術的プロテクトが掛けられており、呪詛返しによって存在そのものを無に還すことはできなかった。
人狼は異常ともいえる出力により、術の張り巡らされた田中の左腕に高負荷をかけ続ける。
この鍔迫り合いは、長くは保たない。そう理解した田中は、空いた右手で五芒星の描かれた護符を取り出す。
「急急如律令 呪符退魔ッ!」
そして呪文とともに人狼の胸へと護符を叩きつけた。
田中が律を抱えるようにして後方へと跳んだ瞬間、青白い光が人狼を包んだ。続いて稲妻のような衝撃が閃光とともに人狼の全身を絶え間なく襲う。
「へへっ、どうだ。こちとら勝算なしに来たわけじゃねえんだぜ」
堪らず膝をついた人狼を見遣り、田中は不敵に笑う。
陰陽術を駆使する田中の猛攻に、勝機が見えたかに思えた――しかし。
「グオォォォォォッ!」
人狼は咆哮とともに両腕を出鱈目に振り回す。鋭い爪が纏わりついた光を切り裂き、振り払った。
「なっ……!?」
光が溶けるように消え、田中は驚愕に目を見開いた。呪術は腕力で脱出できるような類の技ではない。人狼の身体そのものが呪術、或いは魔術の塊であることは先の通り予想していたが、その出力は田中の想定を凌駕していた。
田中が使った護符は、相手に直接触れなくてはならぬリスクを負う代わりに、非常に強力なものだった。数年をかけて込められた力が退魔の雷となり、邪悪な存在を焼き尽くすという田中の切り札だった。流石にノーダメージというわけではなさそうだが、途中で強引に破られるとは思いもしなかったのである。
人狼は怒りを
このままでは術の効果が切れた瞬間、田中は挽肉になるだろう。隙を見て律が石やコンクリート片を投擲するが、人狼は全く意に介さず牽制にすらならなかった。
律は少し離れた位置で控える柚那と送り犬に目を遣る。律たちが駆けつける前から人狼と交戦していた送り犬は既に満身創痍の様相だ。柚那を護ることに注力しているようで、戦力として頼れそうにない。
他になにか手はないかと、律は狂い踊る人狼を凝視する。護符の攻撃を受けた分厚い毛皮からは白煙が上がり、焼け
「律くん」
そのとき、戦いを静観していた皐月が律の背後から静かに声を掛けた。
律が振り返ると、皐月は未だに微笑みを浮かべていた。あまりに場違いな表情に声を失う律に、皐月はまるで昼食のメニューを決めるような気軽さで言った。
「いくら深夜とはいえ、これだけ大騒ぎしたら人に見られるかもしれないわ。そろそろあの
「で、できるのか!?」
皐月を意識的にも無意識のうちにも信頼している律は、驚くよりも先にその言葉に食いついた。
「負ける要素が無いわ。その理由はふたつ」
言って、皐月が二本の指を立てる。
「ひとつは〝あの女〟がいなくなったから。こっちは説明しなくてもいいわよね?」
律は浮かんだ苦々しい表情を隠すように頷く。
「もうひとつは、きみが〝戻って〟きてくれたから。律くんがあの状態から戻ってきた時点で、この戦いはもう勝ちなのよ」
「どうやって?」
そう疑問を返した律だが、皐月の言葉を疑ってはいなかった。ただ単に、勝利できるという方法がわからなかったので訊ねただけだ。
「簡単よ」
にこやかに返す皐月に、律の不安が氷解していく。
皐月ならなんとかしてくれる。皐月に頼っていれば安心だ。あの事故以来、律の心は徐々に、しかし確実に皐月への傾きを増していた。
皐月への信頼――その形は、依存と言い換えられる。律の
それを知ってか知らずか、皐月は意図的に微笑みを消し、冷たい表情で告げた。
「――〝世界を変える〟のよ」
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