3.襲撃

 河原の道で律と別れてから、柚那は家路を急いでいた。

 とうに陽は落ち、街は重たくまとわりつくような夜に包まれている。

(すっかり遅くなっちゃったな)

 歩道を吹き抜ける風に汗が冷え、思わず小さく身震いをする。

 早く家に帰って熱いシャワーを浴びよう、そう思った柚那の目に暗く口を開けている裏路地が留まった。方角的に、この道を抜ければ帰り道は大幅なショートカットができそうである。女子中学生の一人歩きだ、普段なら通行を避けるような道だが、今の柚那は一刻も早く自宅へ帰りたかった。まだ陽も落ちて間もないし、さっさと通り抜ければ大丈夫だろう、そう自分に言い聞かせ、柚那は裏路地へと足を踏み入れたのだった。


(うええ……なんだか不気味)

 帰り道は元々街灯が少なく、薄暗い道が続いていた。しかし裏路地はそれにも増して薄暗く、じっとりとねめつくような空気に満ちていた。ブロック塀や家屋の裏側が道を区切り、人影は全く無い。

 早く通り抜けてしまおう、そう思った柚那は、ぴたりと足を止めた。そして、ゆっくりとした動作で背後を振り返る。

(あれえ……?)

 確かに何かの気配を感じたのだが、視界には寂れた裏路地しか映らなかった。路地の入り口まで遮るものもない。気のせいかと首を傾げた柚那は、再び前を向いて足を進めた。

 だが十メートルほど進んで、柚那は再び振り返った。背後には――やはり何もいない。しかし確かに気配を感じた。着けられているかもしれないことに気づき全身が粟立つ感覚を覚えた柚那は、踵を返し、小走りを始める。

 すると、途端に背後の気配がその存在感を大きくする。そして柚那の足音に混じり、背後の何かが路地を踏みしめる音が耳朶を打った。

(嘘っ!?)

 いつしか小走りは速度を増し、柚那は路地を駆け抜けていた。だが背後の気配は一向に消え去らない。それどころか、その威圧感は増々大きくなり、足音とともに低く喉を鳴らす唸り声のような音が届いてきた。

 恐怖に顔を引き攣らせながらも足を止めない柚那の目が、遂に路地の出口を捉えた。表通りにさえ出れば助かる、そう安堵した柚那だが、突如強く肩を掴まれた。出口が見えた気の緩みと驚愕から半ばパニックに陥った柚那は、足を縺れさせて前のめりの体勢で派手に転倒した。

「う、うう……」

 咄嗟に手をついたため大きな怪我は無さそうだが、腕や膝を擦りむいたのかじくじくとした痛みが苛む。だが出口は目前だ、もう通りを行き交う自動車も見えている。

 前方へ這うようにしながら立ち上がろうとした柚那。しかし黒く、大きな何かに背後から伸し掛かられ、立ち上がりかけた身体が再び引き倒された。すぐ耳元で聞こえる唸り声とともに、柚那の鼻へ嗅ぎ慣れない匂いが届く。これは――獣の匂いだ。

 首だけを捻って振り返った柚那の目が、背後を捉え大きく見開かれる。


 少女の叫び声が、夜道に響き渡った。


 *


「確かに会話には混ざらないって決めていたけどさ。アドバイスとか、助けてくれてもよかったんじゃないか?」

 柚那と別れ自宅へと戻った律は、座椅子に腰掛けぺらりぺらりと雑誌を捲っている皐月に口を尖らせていた。不満をぶつけられた皐月は、雑誌を開いたまま振り返り、苦笑交じりに言った。

「ごめんね。でも外に出る以上、こういう事態は前々から想定されていたでしょう? きみの咄嗟とっさの対応力を見るには丁度良かったのよ。これからも同じような状況は起こり得るし、あの娘……沢村さんは、きみのことを他人に言い触らしたりするタイプには見えなかったから」

「まあ、それは確かに」

 皐月の説明に一応の納得を示した律は、おずおずと続ける。

「……で、僕の〝咄嗟の対応力〟は一応合格ってことでいいのか?」

「そうねえ。あっさり変装を見破られた直後はそりゃあ酷いものだったけど、後半はなんとか持ち直したんじゃないかしら? 落ち着いて対処すればなんとかなるんだから、会話も戦闘も、アドリブに弱いのをもう少しどうにかした方がいいかもしれないわね」

「忌憚のないご意見ありがとうございます……」

「うむ、精進するように」

 神妙に頭を垂れる律に、皐月もおどけた顔で仰々しく頷く。そしてどちらともなく笑い合う二人。

 しばし控えめな笑い声を上げていた皐月だが、思い出したように開いていた雑誌を律に示した。

「そうそう、これ見て」

 皐月が読んでいたのはリビングのマガジンラックから律が持ってきた週刊誌だった。

 視界に入ることで無意識に情報を取り込めるよう、律に背を向けるような形で皐月は雑誌を開いて読んでいた。しかし脳にデータが蓄積されても律の主観人格がそれをすぐに把握できるわけではない。だから皐月は雑誌を手に立ち上がり、律のいる学習机の上でそれを改めて開いた。


 皐月が開いたページには、大げさなフォントでおどろおどろしい文字が踊っていた。

『閑静な住宅街を恐怖のドン底に突き落とす!! 惨殺死体はUMAの仕業だった!?』

 訝しみながら内容を目で追っていた律だが、すぐに皐月の意図に気づいた。

「これ……うちの市内じゃないか?」

「そうなのよ」

 誇張や憶測がふんだんに散りばめられていたが、大まかな内容はこうだ。先日、律たちが暮らす市内で遺体が見つかった。報道規制が敷かれているためニュースで大きく取り上げられることはほとんどないが、遺体は腕や脚、首や内臓などがバラバラな状態で発見されたという。明らかな他殺だ。それも切断面や遺体の損壊具合から判断するに、刃物で解体されたのではなく、まるで大型の獣に襲われたような状態だったという。更に編集部が独自に調査を進めたところ、このような状態の遺体は同一市内と近隣の土地で数年前から断続的に見つかっており、警察は連続事件も視野に入れ捜査を進めているという。

 記事の結論は〝謎の獣型UMAが人を襲っているのではないか!?〟という三文記事らしいお粗末なものだったが、読み終えた律の顔には険しい表情が張り付いていた。

「三文記事で信憑性も低いとはいえ、気になるわよね」

 皐月も真剣な表情を律へ向けている。

「ああ。鵜呑みにするのも危ないと思うけど、念の為調べたほうがいいかもしれないな」

 そして黙したまま頷き合う二人。


 何気なく視線を向けた窓からは、太った月が覗いていた。もう数日もすれば満月だろう。

 不吉な予感が、律の背筋を駆け上っていった。

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