7.狼化

 気づけば柚那は、薄暗い場所に立っていた。

 深海のようなひっそりとした路地には見覚えがなく、どうしてそこにいるのかもまるで思い出せない。

 ――渇いている。そんな漠然とした焦燥感のような感情だけが全身を支配していた。

 無意識に見上げた空には銀の月が鈍い輝きを放っている。

 そのとき、カチッ、カチッ、という微かな音が柚那の耳を捉えた。瞬間、柚那は走り出していた。なぜそうするのかはわからない。しかし、そうしなくてはいけないと本能が、その身を支配する渇きが訴えていた。

 驚くべき速さで人気のない路地を駆け抜ける。そして柚那の足は、あるところで突然止まった。


 そこには、二十代半ばほどの男が屈み込んでいた。

 黒いスーツに白いシャツを着た男はボーイとして働いており、休憩時間に店の裏で煙草に火を着けたところだった。そこそこの人気店ということもありハードなフロア業務だ、ようやくありつけた休憩を味わい尽くすように深々と息を吸い込み、溜息とともに紫煙を吐き出した。

 スマートフォンを眺めながら煙草を吹かす男に向かって一歩、また一歩と柚那は足を進めていく。

 気怠げに伏せていた顔を上げた男は、柚那を見ると驚いたように目を見開き、ぽかんと口を開けた。その拍子に、咥えていた煙草が零れ落ちる。

 まるでそれが合図だったかのように、柚那の中で獰猛な衝動が解き放たれた。

 気づけば煙草が地面に落ちるよりも前に、大振りのナイフのような爪が、男の胸を深々と貫いていた。


 それは解体ショーの開演に過ぎなかった。男が悲鳴を上げるよりも早く、柚那は喉笛に喰らいつく。噛み切った肉の味が口内を満たす。血の味。人間の味。

 サンドイッチのように喉を切り取られた男は、咄嗟に両手を当てる。しかし指の隙間からは、ごぼごぼと絶え間なく大量の血液が溢れ出す。

 その間も柚那の暴虐は止まらない。男の脚を噛み千切り、腹を引き裂き、内臓を引き摺り出す。痙攣を始めた男の腕を強引に引き千切り、再び喉元へと喰らいつく。

 ばりばりと頚椎ごと噛み切られた男の首が、音を立てて転がり落ちた。胸を左右に掻き分けるように引き裂き、ブチブチと血管を千切りながら既に動かない心臓を掴み出す。

 男の心臓を月に捧げるように高く掲げ、柚那は一息に握り潰した。グロテスクな果実から滴る血を大口を開けて受け止め、喉を鳴らして飲み干すと、ようやく柚那の渇きは止まった。

 はたと我に返った柚那は、眼前の惨状に立ち竦む。血の海。男の腕、脚、臓物。紛れもなく、自分が殺した。殺して、肉を喰って、血を啜ったのだ。

 暴力的な衝動と入れ替わるように、柚那の心を恐怖が支配した。際限なく膨れ上がる恐怖心から逃れるように、男だったものの山から目を逸らす。その先には男の首が、恐怖を顔に張り付けたまま転がっていた。大きく開かれたその目には、丸い月が浮かぶ夜空と、そして――

 違和感を覚えてはいた。しかし気づかないように、目に入らないようにしていた。だが、断罪するように突き付けられたその姿に、柚那の視線は釘付けになった。

 物言わぬ男の目には、全身から血を滴らせる人狼がはっきりと映っていた。


 *


「あああああああああっ!」

 絶叫とともに柚那は飛び起きた。

 全身はべっとりと汗に濡れ、肌に張り付いた下着やパジャマが不快感を催していたが、柚那は動けなかった。半身を起こした姿勢のまま、荒い呼吸を繰り返す。喉を通り抜ける呼気は火がついているように熱い。

「ゆ、夢か……良かった」

 思わず呟く。あまりにも生々しく、恐ろしい夢だった。目覚まし時計に目を遣れば、時刻は午前五時半。カーテンの隙間から覗く空は既に明るかった。

 十分ほど深呼吸を繰り返し、ようやく動揺も収まってきた。しかしそのまま二度寝する気にもならず、柚那はベッドから降りる。

 途端に、猛烈な喉の渇きを覚えた。何か水分を摂ろうと、リビングへ続く階段をまだ寝ている家族を起こさないようにゆっくり降りる。


 かつての同級生――律と再開した帰路、柚那はに襲われた記憶が確かにあった。薄暗い路地で、毛むくじゃらの何かに、確かに襲われた記憶があったのだ。

 しかし我に返ったとき、柚那は自室のベッドに放心したように腰掛けていた。どれだけ頭を捻っても、自分がどうやって家に帰ったのか思い出せない。まさに狐につままれたような思いを抱きながらも、思い出せないことは仕方ないと柚那は早々に諦めた。頭を使うことが苦手な彼女は、白昼夢のようなものだったのだろうと思い込むことにしたのだった。


 階段を降り、リビングへの扉をそうっと開く。キッチンへと向かい、冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを取り出した。猛烈に喉が渇いていた柚那はキャップを開け、そのまま口をつけた。喉を鳴らして飲み下した水分が全身に染み渡る。

「はあ~、美味し」

 二リットルのペットボトルを一気に三分の一ほど飲んだ柚那だが、未だ燻るような渇きを覚えていた。残りはゆっくり飲もうとペットボトルを片手にリビングへと戻った柚那は、ソファに腰を下ろす。そして何気なくテレビをつけ、信じられないものを目にした。


 ――速報です。×件○市の繁華街で、男性の遺体が発見されました。


 ニュースは淡々と機械的に〝事件〟の内容を告げた。

 聞きたくない、電源を切ろうとした柚那の指は動かない。

 気のせい……そうだ、気のせいだ。偶々夢と似た場所で、偶々人が死んだだけだ。

 かたかたと震える手を抑え込んでいるうちに、ニュースが終わった。ようやく引いた汗が再び全身を濡らしていることに気づいた柚那は、シャワーを浴びようと立ち上がった。


 柚那は早朝だということも忘れ、どたどたと風呂場へと向かった。

 脱衣所でパジャマを脱ぎ捨て、下着姿となる。きっと今、自分は酷い顔をしているだろう。熱いシャワーを浴びて気持ちをリセットしたい。そんなことを考えながら全裸になった柚那は、ふと、洗面台に備え付けられた鏡に目を遣った。

「う、そ……」

 鏡に映っていたのは――紛れもない。

「嘘だああああああああっ!」

 夢の中、首だけとなった男の目に映っていた、人狼じぶんの姿だった。

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