5.妄想か現実か

 皐月の言葉の通り、彼女の分の飲み物を持った母親が再び部屋を訪れることはなかった。


 通常ならすぐに戻ってくるはずである母親の不在。その時間が延びるほどに、皐月の説明が律の中へ実感として染み渡っていった。

「……今の僕には、僕が見ている世界が、現実か妄想かの区別がつかないんだな」

 どこか思い詰めた様子の律に、皐月は苦笑交じりに告げた。

「そうね。でも、誰だって同じことなのよ。程度の差こそあれね。たとえば、。律くんのお母様が見ている『赤』とお父様が見ている『赤』は実際は全く異なった色で、偶々齟齬なくコミュニケーションが取れているだけなのかもしれない。二人の見ている『赤』が同じものである、或いは全く異なっていると証明できる? こうした感覚――クオリアの問題、その人の意識が感じているものは、結局その人の意識にしかわからないわ。だから、〝あなたとわたしの世界は同じなのか〟、そんなことを突き詰めて考えても無駄。狂ってしまうだけよ」

「そういうものか」

「ええ。そういうものだって認識してくれさえすればいいわ。それから最後に一番大事なことをひとつ」

 頷いた皐月は、白く細い指を一本立てる。

「きみは以前の常識に照らし合わせて、『』現象は妄想だ……そんな風に区別できると思っているかもしれない。眼の前でお腹が挽き肉になった私が、背後にケロリとした顔で立っている、とかね」

 図星を突かれた律は、少し驚いた表情を浮かべる。

「違うのか? 微妙な違いはわからないかもしれないけど、少なくとも皐月さんが誰かと話しているような場面は、僕の妄想だって区別できると思ったんだけど……」

「それ自体は間違っていない。けど対応を間違えると、最悪の場合命に関わるわ」

「どういうことだ?」

 真剣な表情を浮かべる皐月に、律の顔も険しくなる。

「律くんの見ている世界では、私を含めた『ありえない』ものも確かに存在している……ここが一番重要よ。『』の。だからたとえば、私が律くんの首に手を掛けて締めればきみは窒息するし、私がナイフできみの胸を刺せば失血死する。この意味をよく考えて」

 皐月の言葉を受けて、律は数分黙考する。そして真っ直ぐに皐月を見据えて言った。

「……現実か妄想か。その区別は僕にとって意味がない。僕にとってはどちらも『現実』、そういうことか」

「理解が早くて助かるわ。まあもっとも、きみのために生み出された私が、悪意を持ってきみを傷つけることはないわ。その点は安心して。ただ、生存の見込みはなくどうやっても苦しんで死ぬだけ、もしそんな状況にきみが陥ったときは、私が一思いに殺してあげる。覚悟だけはしておいてね」

 皐月は片目を閉じて笑う。発言と表情が全く噛み合っていない皐月に絶句する律。

「……今後、そんな状況になる可能性があるのか?」

「それは私にはわからないわ。なるかもしれないし、ならないかもしれない」

「覚悟だけはしておけってことか」

 おどけたような返答を意に介さず、噛みしめるように呟く律に、皐月は意外そうに言った。

「あら? 思ったより驚かないのね」

「まあ、こんな無茶苦茶な状況だしな。驚いている隙がないよ」

 言葉の割に、どこか歯切れの悪い表情をしている律。皐月が怪訝けげんそうに視線を向けると、律はやや上目遣いで尋ねる。

「ただ、引っかかったんだけど……その、皐月さん以外にも『ありえない』存在が居るのか?」

「それは私にはわからないわ。いるかもしれないし、いないかもしれない」

 そう言って、ころころと鈴のような声で笑う皐月。煙に巻かれた律はねたように視線を外した。


 しばらく笑っていた皐月だが、不意に立ち上がり、素早い動作で律の視線の先へ回り込む。そして戸惑う律の頬を両手で挟み込み、吐息が触れるほど顔を近づけた。

「鬼が出るか蛇が出るか、それを確かめに行きましょう」

「行くって、どこへ?」

「決まってるじゃない。廃工場よ」

 不敵に微笑む皐月に、律の鼓動が色々な意味で高鳴った。

 頬に触れる皐月のてのひらは温かかった。それは、紛れもない現実だった。

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