6.廃工場
その日、律は放課後の校舎内で
随分と粘ったが、しかし、一向に好転する気配はない。空はそんな律を
これ以上待っていると夕食の時間に遅れてしまう。しかし連絡を入れようにも、鞄の中のスマートフォンは沈黙していた。
律の中学校ではスマートフォンの持ち込みが認められていた。しかしあくまで緊急時の連絡用で、サイレントモードにした上、始業前と放課後だけ使用が可能だった。……というのはあくまで体面上であり、実際のところほとんどの生徒がそんなルールは守っていなかったのだが。
その一方律は、結果的にルールに従っていた。「中学生にもなれば色々と必要だろう」そんな両親の厚意でスマートフォンを持たされた律だが、しかし、特にグループにも属さず、インターネットも自室のパソコンを使って閲覧していたため、朝に天気予報を見るくらいしか使い道がなかった。
その上、たびたび画面を点けっぱなしにしたまま鞄に放り込んでしまっており、休み時間に取り出すこともないため、放課後に両親から連絡がないか念の為確認しようとすれば充電が切れている、ということも頻繁にあった。そして運の悪いことに、今日もそのケースだった。
(はあ、仕方ないか)
母親に無用の心配をかけてしまう。そのことが律に、
律が走り出して数分後。横殴りに降る雨に、小さな折り畳み傘はかろうじて顔を守る程度の役目しか果たさず、律はあっという間にずぶ濡れになった。
(このままでは鞄の中身もあぶないな……確かビニール袋が入っていたはず。それで中身を包もう)
ナイロン製の鞄はある程度水を弾くが、防水仕様ではないため徐々に浸水していくだろう。教科書やスマートフォンを水没から守る梱包作業のため雨宿りできそうな場所はないか、律は雨の中を駆けながら視線を
*
律は郊外に打ち捨てられた廃工場の軒下で雨を凌いでいた。相変わらず雨脚は弱まることを知らず、むせるような湿気を乗せた風が時折肌を撫でる。
外周部を囲う金網フェンスはぼろぼろになっており、所々大人が通れるほどの大穴が空いていたため侵入は容易だった。無断で侵入することに後ろめたさはあったが、背に腹は代えられない。敷地内ではあるが、軒下で休むくらいは許されるだろう、律はそう自身に言い訳した。
鞄の梱包を済ませた律は何とはなしに周囲を見回す。
いつ閉鎖されたのかはわからない。少なくとも律たち家族がこの町へ越してきた頃からそこは〝廃工場〟であった。
壁の塗装は剥がれ、窓は割れ、長いこと雨風に晒された金属部分は赤茶けている。機能を果たすことをやめた窓枠からは、奥の壁さえ見通せない闇が口を開けていた。
「――ッ」
そのとき、廃墟の名に相応しい佇まいに不気味なものを覚え始めた律の耳に、微かな音が届いた。甲高い金属音にも似たそれは、耳を澄ませば断続的に響いてくる。
少しの逡巡の後、好奇心に負けた律は音のする方、廃工場の内部へと足を進めた。
音に導かれるように、ふらふらと廃工場の奥へと進んでいく。足音を響かせないよう、細心の注意をはらってゆっくりと足を運ぶ律の耳には、時折くぐもったような高い音が届く。
ひときわ大きなその音が律の鼓膜を揺らしたとき、彼はその性質にようやく気づいた。
(悲鳴……?)
律は大きな部屋の傍まで来ていた。音はその中から発せられたようだ。唾液を飲み込む音がやけに大きく響いた気がして、率は周囲に視線を遣る。そして身を屈め、慎重に室内を覗き込んだ。
部屋の奥には、もぞもぞと
暗闇に慣れた目を凝らせば、それが複数の人影であることがわかった。
制服と思われる衣服を着た小さな影が仰向けに押さえつけられ、二つの大柄な人影が伸し掛かっている。
押し殺したような笑い声と、くぐもった悲鳴。複数の荒い息遣いが律の耳朶を叩く。
大きく捲りあげられた少女の上半身が男のスマートフォンのライトに照らされ、白い肌が艶めかしい輝きを放っている。
呆けたようにぼんやりと人影たちを眺めていた律は、我に返った途端、思わず声を上げそうになった。
そのとき律の頭を支配したのは圧倒的な恐怖だった。必死で悲鳴を呑み込んだ律だが、咄嗟に身体を捻ったせいで、足元にあった何かの破片に体重をかけてしまった。
破片が砕け、乾いた音を立てる。その音は大げさなほど響き渡り、部屋の奥の人影たちにも確かに届いた。届いてしまった。
粘つくような静寂が廃工場を支配した一瞬の後、大柄な人影が身体を起こした。
「誰かいるのか!?」
威嚇と怒気を多分に含んだ声が響き、ざりざりと床を擦って立ち上がる気配がする。足音が続く。真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
腰が抜けかけている律は、悲鳴が漏れぬよう必死に口元を抑えながら、部屋の入口付近で縮こまることしかできない。一歩、一歩。恐怖が近づいてくるごとに、鼓動が痛いくらいに胸を打つ。
数秒もすれば、あの人影は自分を見つけるだろう。縋るように律が見上げた割れた窓からは、すっかり陽が落ちた空が覗いている。
あれだけ強く降っていた雨は、いつの間にか上がっていた。
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