21.存在強度

 皐月の幽霊。それは、律の脳が造り出した存在……のはずだった。だから田中とのやり取りは、この上ない衝撃を律に与えた。

 確固たる証拠はない。だが律の中にはある種の確信があった。


 この皐月は、皐月の幽霊でもあるのだ、と。


 二度と会えないと、言葉を交わせないと思っていた。永遠に喪ってしまったと思っていた。それだけに、気づいたときには溢れ出る涙を止めることができなかった。

 律は皐月がどれほど大きな存在だったか、事故のときどれほど衝撃を受けたかを嗚咽を混じらせながらぽつりぽつりと語った。皐月の存在を説明する際、事故のことは既に田中へ伝えていたが、事実だけを淡々と述べた先程とは違い、律という少年の剥き出しの感情が込められていた。

「辛かったな……辛かったんだよな……」

 頷きながら囁く田中も、初めて大きな感情の動きを見せた少年から貰い泣きをしていた。少年と大の大人が、テーブルを挟んで顔をくしゃくしゃにして涙を零していた。


 一方。衝撃の可能性を示唆された当の皐月はといえば、戸惑いこそあれ、ある種の納得も覚えていた。

 皐月はあくまで『更生プログラム』を円滑に進めるため生み出された存在だ。それだけに、律への不可解な好感や、『更生』と相反するような合理性に欠ける感情に対してしばしば不可解さを感じていた。本物の皐月が持つ感情――それが残滓のようなものだとしても――が自身の中へ混ざり込んでいるとするならば、それらにも説明がつく。

 奇妙な感覚だった。今の皐月には、の記憶がない。あくまで基礎ベースとなっているのは律が自分の記憶と印象から造り出した人格だ。そこに本人の要素が混ざっている、と急に言われても、感情の折り合いが上手くつけられそうにないと感じた。しかしすぐに、感情の折り合いをつける、などという人間臭い心の動きに思わず苦笑するのだった。


 律たちは、たっぷり三十分は泣き崩れていた。ようやく落ち着いてきた頃合いを見計らって、皐月が切り出した。

「そろそろ大丈夫かしら? 私も複雑な気分だけど、まだそうと決まったわけじゃないわ。とりあえず今は話を進めましょう。おじ……田中さん、あなたの聞きたいことはあと一つあったはずよね」

 水を向けられた田中は、乾きかけたおしぼりでごしごしと顔を拭うと、律を見て言った。

「ああ、すまん。最後の一つは、まあわかってると思うが、だ。人狼をぶっ飛ばしたあの力はなんだ?」

 問われた律もおしぼりで顔を拭いていた。まだ目は赤く腫れてはいるが、顔つきは元の仏頂面に戻っていた。

 三つの中にその質問が含まれているのは予想通りだった。だが、律もあの力がなんなのかよくわかっていなかった。助けを求めるように隣の皐月へ視線を向ける。

 苦笑しながら皐月は口を開いた。

「律くんの基本的な能力についてはさっき話したとおりだから割愛するわね。で、人狼に対して見せたあれだけど……」

 皐月は内心、田中にこの能力について正直に話すか迷っていた。しかし今後の協力者として考えるならば、ここで話しておく方が後々プラスに働くだろうと判断した。

「端的にいうと、〝対象の認識を操作する〟力ね。これまで律くんは私をはじめ、主に自分自身の認識を操作してきた。その力を外に向けたのよ。対象がとき、それは対象の世界では現実になるわ。人狼の場合は、〝目の前の子供に自分が殴り倒される認識〟を押し付けたの」

「押し付けたの、って簡単に言うが……」

 困惑した表情を浮かべる田中に小さく微笑むと、皐月は続ける。

「私も最近わかってきたんだけど、普通の人々が暮らすところのほかに、霊や怪異といったモノたちが存在するチャンネルのようなものがあるのね。そしてひとつのモニタで様々なチャンネルが視聴できるように、それらはひとつに重なり合って存在している。それがこの世界。……ここについては田中さんの方が詳しいと思うけれど」

 田中は頷き肯定を示した。

「ああ。異界、世界線、階梯かいてい……呼び名は色々あるが、概ねその認識で相違ないと思うぜ」

 田中に魅力的な微笑みを返すと、皐月は口を開いた。

「で、これは仮説なんだけど。重なり合っている世界にいるモノたちがぐちゃぐちゃに混ざってしまわないのはある種の力――適した環境へる力が働いている、と私は考えるの。人は人のチャンネルに。怪異は怪異のチャンネルにってね。だから普通の人には妖怪だとか幽霊だとかは見えない。逆に言えば霊能力とか因果律とか、そういう異能を持った人イレギュラーたちは、要はほかのチャンネルの存在を認識できる人ってことね」

「興味深い話だが……それが律の力と関係あるのか?」

「すぐにわかるから焦らないで」

 怪訝な顔をする田中に、皐月は長い人差し指を立てて応える。

「世界はあるべきモノをあるべき場所へと振り分ける。その力を仮に〝存在強度〟と呼ぶとするわ。法則に従って、人は人のチャンネルにおいて、最も高い存在強度を得る。怪異は怪異のチャンネルで同じように最も高い存在強度を得るでしょう。個体差はあるとしてもね。さて律くん、これら別のチャンネルの存在を、無理やり別のチャンネルに連れ出したらどうなるかしら?」

 急に指名された律は、しどろもどろになりながらもなんとか答えた。

「え、えっと。存在強度が下がる……?」

 律の答えに満足したのか、皐月はにっこりと笑う。

「流石ね、そのとおりよ。世界の修正に抗って異なるチャンネルに移ったモノは、著しく存在強度が低下する。ほかのチャンネルの存在に認識され、あまつさえそれらを害するなんて芸当は、元々の存在強度が相当高くなければ難しいでしょうね」

「なるほど。あの人狼は、それだけその存在強度が高かったってことか」

 皐月の説明を聞いて、田中は感心したように呟く。

「ご明察。そして律くんの能力は、ある認識をより高い存在強度で上書きする力、と私は考えているわ。世界の修正能力を限定的に行使できる力と言い換えてもいいかもしれない」

 皐月の言葉を咀嚼するようにふんふんと頷いていた田中は、突然なにかに思い至ったのか顔を引き攣らせた。

「そ、それってとんでもない能力じゃねえか……!? 対象を世界に向けりゃあ、文字通り〝世界を変える〟ことだってできちまうんじゃ」

 同じような発想に思い至ったのか、律も口を挟む。

「あのさ、この力での存在自体を無かったことにするとか、いやそれより、皐月さんを生き返らせることも……」

「そんなに都合のいいのもじゃないわ」

 律の言葉を遮るように、ぴしゃりと皐月が言った。二の句が継げなくなった律と田中に、皐月は諭すように言った。

「なんでもかんでも自分の望むとおりに世界を変えられるというのなら……それはもはや、神に等しいわ。そこまでは無理よ。残念ながらね」

 叱られた子どものように小さくなった二人に、皐月は優しげな微笑みを向ける。

「律くんの能力は、妄想に溢れた〝律くんの世界〟を拡張するようなものなの。妄想との境界が曖昧な、存在が希薄な相手にだけ有効なのよ。だから生身の人間相手には効果がないでしょうし、まして世界の認識を操作しようなんて神業はまず無理よ」

「簡単にいうと?」

「〝オバケをグーで殴れる能力〟ね」

「漫画みてえだな」

 ほっとしたような、がっかりしたような複雑な表情で田中が溜息を吐いた。

 沈んだ顔をしている律に気づいた皐月が声を掛ける。

「残念だった?」

「……そりゃあ、ね」

 泣き笑いのような顔をする律に、皐月の胸が痛んだ。取り繕うように明るい声で皐月は言う。

「とはいえ、怪異遣いだか召喚術師だか知らないけれど、律くんの能力が切り札ジョーカーになることは間違いないわ」

 しみじみと田中が同意する。

「そうだな。拝み屋の俺からしたら十分チートな力だ。本音を言えば喉から手が出るほど欲しい」

 冗談じみたその言い方に、場には弛緩した空気が流れた。

「で、あんたはこれからどうするんだ」

 律の問いに、田中はがしがしと頭を掻いて言った。

「どうもきな臭いんだよな。一応『人狼事件の調査』って依頼は解決したってことでいいと思うんだが、これで終わりなわけないよなあ。召喚陣も気になるし、むしろまだまだ続く気がするんだ。……そこで、だ」

 背筋を伸ばし、軽く頭を下げて田中は言った。

「どのみち報告はしなきゃならねえんだ。俺がこの街に呼ばれたきっかけ……俺の依頼主に、お前らも会ってくれねえか」


 今回の事件で、あの少女――浅霧アオイに律の生存が知られてしまった。もはや逃げ隠れを続けることは難しい。かといってあの悪魔のような少女を相手取るには、律たちだけでは心許なかった。田中の追っている事件と、律たちの事情は繋がっていると考えていいだろう。律たちにとっても、田中という協力者は不可欠だった。

 それに田中との伝手つてを持つ相手だ、怪異や異能について、それなりに精通しているだろう。少しでも情報が得られればという打算もあり、律たちは田中の願いを快諾したのだった。


 詳しいことは後ほど連絡すると言い残し、田中は去っていった。その背中が店のドアの向こうへ消えるのを見送ってから、律たちも席を立った。

「どんな人なんだろう?」

 帰路、何気なく律が言った。

「さあ、どうでしょうね」

「きっと変な奴だろうな。あの人と知り合いってくらいだし」

「違いないわね」

 そして二人は小さく笑い合う。


 律の予想は、ある意味当たっていた。近い未来、彼は衝撃を受けることになる。


 だが、この出会いが彼らの運命を大きく動かすことになるとは、このときはまだ知る由もなかった。



第三話 「狼化妄想症」 終

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