第37話 声と言葉の青春

「コウは、ミサトちゃんとキスしたことある?」

 全国大会まで後一週間、僕たち錆びた釘は、積み上げられた本で足場のない文芸部の部室にいた。

 三人ともお互いの印象をブレインストーミングで出し合い、まとめた各々の特徴から各自詩を作っていた。

 創作も煮詰まり、休憩がてらにコーヒーを口に含んだ瞬間、チームメンバーで、飽き性のコブクロが唐突に言った。


 俺の口からマーライオンのように噴霧される黒い液体。

「ぶえっ! やば、ごほっ! 器官に入った」

 僕は詩の原稿に吹き出したコーヒーを慌ててティッシュで拭き、横目でコブクロを睨んだ。遠目で見ると渋い方のコブクロに見える彼の言動は、明らかに本家の名誉を毀損している。

「じゃあ、ちゅー、ちゅーした⁉」


「なにが、《じゃあ》だよ」


「やめろよ、コブクロ、コウが困ってるだろ」

 横からウエンツがツッコミを入れる。助かった。さすがイケメン、コブクロとは違い、人の心が分かる。ちなみに、あだ名に関して、彼に至っては生まれも育ちも春日部なのだが、鼻が高く肌が白いというだけでそう決まった。


 僕が安堵していると、それを察してコブクロが顔を覗き込んでくる。

「え、まじで――?」


「告ったの?」

 先程助け舟を出してくれたウエンツが嬉々として聞く。裏切ったな。


「――まだ」

 俺は観念してそう返した。


「おいおいおい、コウ、お前、まじかまじか」

「橘さん、待ってるんじゃないの?」

「別に、あいつとは幼馴染だし、家族みたいなもんだよ」


「後ろから抱きついてさ。唇を奪うんだ。最高だろ?」

 僕は水平チョップでコブクロを下品だといさめながら、その光景を妄想した。ミサトの白い横顔が、近づいてくる。そしてこの匂いは、シーブリーズかな。あいつがいつも使ってるやつ。シトラスの香りだ。僕とミサトの唇が交わる瞬間、お互いの鼻に邪魔され、現実に引き戻された。


「鼻が……邪魔だな」


「うーわ、童貞」

 コブクロのなじりに、「それはお前もだろ」と返す。


「ミサトも僕を男として見てないって」

 男とか女とか考える以前に、今までの関係が変わるのは嫌だった。

「いやいや、二人とも分かりやすすぎ」

 ウエンツがにやにや笑う。


「よし、決めたぞ!」

 コブクロが突然立ち上がったので、俺とウエンツはコブクロを見た。


「もし、全国大会で決勝まで行けたら、コウはミサトちゃんに告白しろ!」

 コブクロは鼻息荒くそう言った。何をバカなことを、と思った。


「はいはい。期待しないでおくよ」


「絶対に連れて行くからな」


「ミサトちゃん、待ってるからな」

 ウエンツも、生温かい笑みをこちらに向けてくる。コブクロとウエンツの熱い視線を背に受けて、僕は溢れたコーヒーを買い直しに部室を出た。


 二人が言ったこと、その時は冗談だと思った。


   ◇


「約束通り、決勝まで来たな」

 ウエンツが得意な顔でそういう。僕とは違って女の子にモテる彼の、結果を平然と掴んでなお、涼しい顔をするそのバイタリティとメンタルには敬服すら覚える。

 僕の肩に置かれた手は、一週間前に口約束した、一人、いや二人の運命を大きく変えてしまうだけの重みがあった。

「伝えたいこと出し惜しんで後悔するなよ。ここでコウの気持ちをミサトちゃんに届けるんだからな」

 やめろよコブクロ、お前はオフクロか。こいつの悪い癖だ。下ネタ王コブクロの手が僕の背を慈しむように撫でる。その撫で方が妙にやらしいので背筋に悪寒が走った。


「なあ」


 僕は二人を見ずにリングを見る。そこには、ポッカリと空いた空間が丁度収まりのつく何かを待っているかのように光が当たっている。


「今更だけどさ、僕たち文芸部、これが三年生最後の大会だよな。もしかしたら、文芸部で活動できるのも最後かもしれない。それなのに、真面目に即興詩を発表せず、僕の告白に時間を割くなんて、観客がどう思うか。それに、二人は後悔しないのか」


「ビビってる?」

 コブクロが僕の顔を覗く。煽るような顔に若干腹がたった。

「ビビってない!」


「――最後だからだよ」

 しばらくおいて、コブクロが笑って言った。


「卒業したら、みんな行き先は違うだろ。俺たちは心残りを無くしたかったんだ。仲間のな。こういった機会でも作らなきゃ、コウは一生橘さんと一緒になれないだろうし。それに、俺はこの大会に出ることが目的じゃない。文芸部で楽しくやれてたのが、俺が本当にやりたかったことなんだよ。それに、観客がどう思うかなんて関係ない。だって、俺たちがやりたいことをやるんだから。後悔なんてしないさ」

 ウエンツの目は静かに輝いていた。


「それにさ、これぞ青春って感じじゃん!」

 コブクロとウエンツが僕の背中を強く叩く。僕は頷き、ポケットに入れたミミズがのたくったような字が羅列された一枚の手紙を強く叩く。これはいらないな。伝えたい言葉は僕の中にある。

 リングに立つと、会場全体が歓声と拍手で迎える。


「結婚式は俺たちを呼べよな」


「バカ、気が早いよ」


 ミサトや顧問の先生を含め、文芸部五人全員で作り上げた詩。その積み重ねが、僕たちをこの場に立たせている。

 声が出なくても、いつも僕の隣で笑っていてくれたミサトに今できることは何か。伝えられることは何か。それだけを考えて、僕は、レフェリーから渡されたマイクを握った。


 ――試合開始のゴングが鳴る。


「会場の皆さん、今日は、俺の友だち、コウが、告白をします!」

 開口一番、コブクロが大きな声で会場に語りかける。一瞬の間があたりを支配した後、会場全体から聞こえるざわめきが大きくなった。当然だ。今やっているのは即興詩対決。リング上のボクサーが会場全体の観客に向かって言葉を投げかける場であり、決して、一人の男が想い人に自分の気持ちを伝える場ではないのだから。


「コウは、この大会で決勝まで行けたとき、コウを待ってくれている人に告白すると約束をしました。これが俺たちの青春です。どうか、三分間だけ、皆さんのお時間をいただけませんか」

 ウエンツが通りの良い声で、ざわめきの中に鋭く切り込む。その一言で、会場の震えが一気に止まった。その流れで、ウエンツは、僕をリングの中心に促す。


「皆さん、こんにちは。コウです。今日は、この場を借りて、この会場にいる僕の好きな人に、僕の思いを伝えたいと思います」

 痛いほどの静寂。震えるマイク。そもそも、千人規模の前で告白するとか、どんな罰ゲームかと思った。

 遠くから聞こえる女性の頑張れの声。


「拝啓、幼馴染の君へ」

 それでも、最後の機会をくれた二人のために、ミサトのために、僕はマイクを握り直し声を張り上げる。


「ミサトが書いてくれた詩のおかげで、いや、いつもミサトが僕の隣りにいてくれたおかげで、僕は今この場に立っています」

 手紙には書いていない言葉が口からこぼれた。


「僕たちの出会いは横浜の幼稚園でした。初めてあったその時から、春は大岡川の桜並木を一緒に歩いて、夏は自転車の後ろに載せた貴女と稲荷坂を下って、秋は舞岡公園で紅葉の写真を撮って、冬は僕の部屋でこたつに入りながら、たくさんお話もしました」

 思い返すと、ミサトはいつも僕に構ってくれていた。いつの間にか当たり前になっていて、特に意識することもなかったけど、僕の記憶の中にはいつもミサトの笑顔があった。僕は、その笑顔に救われていた。


「ありがとう」

 僕は、今、満たされているのだ。 


「そんな、僕を救ってくれる強いミサトも、膝を抱えて泣きたくなるときもあったでしょう、僕はずっと隣で見てきました。今までの十八年間、楽しい事ばかりじゃありませんでしたね」

 心に刺さる痛いトゲ。間近で見ていたからこそ、彼女にしかわからない悲しみがあるのだと気づいた。僕は、彼女の痛みに少しでも寄り添ってあげられただろうか。


「五年前、この世界から貴女の声が消えたあの日、いつも隣で聞いていた君の声が聞けなくなったあの日、誰よりも悲しいはずのミサトが気丈に振る舞う背中を見て、僕は橘ミサトをこの世界に独りぼっちにしないと決めました」

 心因性失声。ミサトと仲が良かった友だちが、目の前で滑落し、ショックで声が出せなくなった。あれ以来、ミサトは好きだったトレッキングを辞め、快活だった性格は内向的になり、僕と一緒に文芸部に入った。


「あの日から、僕はミサトとまた話したくて、手話を覚えて、君に始めて言葉を伝えたとき、もう一生聞けないと思っていた声が聞こえた気がしました」


「僕は、ミサトとは仲の良い友だちのまま、一生を終えるのだと思っていました。でも、この手紙を書いて、手話を覚えて、いや、それよりずっと前から、僕はこの言葉をミサト伝えたかったのだということを思い出しました」


「いつの間にか、ミサトは僕の大事な人になっていたのです」

「今日は、僕と君、同じ言葉で語り合いたいです」


「ミサト!」


 僕は、会場にいるミサトに向かって、いつも話すときのように、手で、六文字のサインを送る。


 ――君が、好きだ。


 ミサトは僕の手話が見えているだろうか。もしかしたら、見えていないかもしれないな。遠いから。そう思った、その時、ミサトは立ち上がり、僕に向けてサインを出した。


 それは、リングの上にいる僕にもはっきりと分かる、大きな丸だった。

 

 その瞬間、会場から大きな拍手と、歓声が巻き起こり、僕たちを包んだ。


 ――終了のゴングが鳴る。

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