第33話 天に則り、私を去る

 試合開始のゴングが鳴った。さあ、行くぞ! 隣のトメさんとミサオさんに目配せをする。


 一回戦、二回戦と、トメさんの作った詩でここまで来た。大会が始まる前、もし、準決勝まで勝ち上がってこれたら、一つだけ、発表したいものがあるとわがままを言ったとき、二人は快く承諾してくれた。


 私の詩で負けるかもしれないなんて、そんな思い込みはよそう。しわくちゃの手に力を込める。緊張で震えていた手は、マイクを握った瞬間、大きな添え木に支えられたようにピタリと止まり、胸の奥に、温かな明かりが灯る。この明かりは、昔、美空ひばりに憧れて、お歌を歌って、お父ちゃんに褒められたときの明かり。


 そうだ、私は歌手になりたかったんだ。ひばりちゃんみたいな、皆に愛される大スターに。


 私は、前を見る。目の前に広がる、観客たちの波。私たちだけの光。私の名前は、久川アヤ!


「みんな、おばあちゃんがこんなこと言って、笑うかな。私、ひばりちゃんになりたかった!」


 自分でも思ったより大声が出た。空気がピリピリと震え、会場が反響する。


「笑わないわよ、素敵な夢じゃない! アヤさん、歌上手いもんね!」

「今でも、毎日歌のトレーニングを欠かしていないの、偉いわ! きっとなれるわよ!」


「私は、もっともっと勉強して、言語学会に名を残す論文を書いてみたい!」

「トメさんは若い頃貧しかったのに五十歳で大学にも行って、今でも勉強を続けているなんて偉いわ!」

「もう、ノーベル賞なんかも獲っちゃいなさいよ」


「アッハッハ! ミサオさんは、確か、今年、曾孫ひまごが生まれたんですってね!」

「ええ、赤ちゃんはいくつになっても可愛いもんね。毎年孫も顔を出してくれるし、大家族の夢、長い道のりだったけど、ようやく、叶えることができたわ……」

「そうか、もう八十年か。おばあちゃん、もう八十年もたったよー!」


 会場に手を振る。何人かが、手を振って応えてくれたような気がした。


「本当に、八十年間、いろんな事があった」

「やりたいことも、やりたくないいこともやったなぁ」

「なんであの人がうまくいって、なんで私ばかりこんな目に合うのかわからないこともあったなぁ」


「そういえば、八年前、旦那がこの世を去って、一人ぼっちになったときも、旦那と一緒に歩いた散歩道を歩いて、私の右側がやけにポッカリとしていたなぁ」

「私も、旦那があっちの人になったときは、人が死ぬのは自然だってわかってても、心のどこかであの人は生きてるって思ったなぁ」


「グスッ、すみませんね。皆さん」

 トメさんの目から涙が溢れた。そこにいたのは、旦那と寄り添う、うら若き、妻の姿だった。


「頑張れ」

 どこかから、そんな声が聞こえた気がした。


「若いときは許せないこともたくさんあったわね。本当は、私は幸せで、あの人はあの人にしかわからない深い悲しみの中にいたかもしれないのに」

「本当、そんな自分も許せなかったわね」

「自分の思うがままにならないことも沢山飲み込んできたわね」

「私たちの生きてきたこの道は風の向くまま気の向くままってね」


「さあ、次はどこへ行こうか」

「頂点から見る景色は素晴らしいだろう。優勝する? 欲深いかな?」

「人間だから欲はあっていいんじゃない」


「八十歳、まだまだこれから、風の向くまま気の向くまま」

 大きな口を開けて笑えるのがなんでこんなに嬉しいんだろう。私の背中に、心地よい風が吹く。

「時の流れに身を任せ。これが、私の八十年」


「「「則天去私はここにあり」」」


 会場からは、拍手が聞こえる。

 凄い、私、ひばりちゃんになったみたいだ! この歳で、こんなに、胸が躍る出会いがあるなんて、思いもよらなかった。


「ありがとう!」


 ――試合終了のゴングが鳴る。

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