第2話 ロシアと呼ばれた男

 暦の上では五月になった。例年より若干肌寒いことを除けば、高校生活は落ち着いている。

 しかし、気温のせいだろうか。どこかうだつの上がらない自分がいる。環境が変わるといっても、俺の中で高校は中学の延長線に感じた。


 自分の手の届く範囲しか知らなかった頃、俺は天才だった。その弊害だ。小学校のに慣れ切り、中学時代は勉強に身が入らなかった。中学のテストは一夜漬けで何とか点数を取れていたものの、成績は目に見えてパッとしなくなった。


 さらに、提出物を出さずテストの点数のみを頼りにしてきた俺は、内申点に引っかかり、第一志望である県下一番の高校の理数科に、倍率一・〇倍で落ちた。噂では、俺が開けた穴に普通科志望の奴が入ったらしい。かくして、滑り止めで受けていた私立の富岡第一高校とみおかだいいちこうこうの特進コースに入学することになった。


 現在時刻は十時。ちょうど二時間目の授業の最中だ。机に突っ伏していた俺が顔を上げると、教壇では英語教諭の平井ひらいが黒板に関係代名詞を列挙していた。


 平井は、化粧で年齢を誤魔化しているがアラフォーだ。平井は黒板に関係代名詞を並べ終えると、大きな声で「関係代名詞には格がある!」と叫んだ。俺は虚をつかれた。平井の更年期障害でも発症したのかとも思ったが、どうやら関係代名詞の格の種類と格変化の説明中だったようだ。平井が「Repeat after me」と言うと、クラスメイトたちは律儀に「関係代名詞には格がある」と、平井の言葉を復唱した。俺は、その様子を眺めながら「兵隊Soldierだ」と思った。そして、机の上で組んだ腕に顔をうずめた。

 十時三十分。二時間目の授業が終わり、平井が教室から出ていった。教室内に満ちていた緊張感が緩まる。


 一高(富岡第一高校のことを関係者はこう呼ぶ)は、一限あたりの授業時間が五十分で、授業と授業の合間に設けられてある休憩時間は昼休みを除いて十分で統一されている。

 三時間目の日本史は先生の書いた黒板をノートに書き写すだけだ。予習はいらない。まあ、予習が必要でもやらないので、どちらにせよ変わりはないが。手持ち無沙汰になってしまった今、人間にとって一番の敵は暇なのだと実感する。


 クラスメイトたちはみんな思い思いの時間を過ごし、楽しい会話に興じている。俺は暇つぶしに、ガラパゴス携帯を開いて、携帯電話の中にある機能を順番に流し見する。白紙のメモ帳。登録者が母さんだけの電話帳。ネット回線が重くて次のページに遷移するのに五秒弱かかるブラウザー。その他、利用するにはキャリア登録が必要な無駄機能。俺は息苦しさを感じて携帯電話の電源を切る。


 何もやることはないが、目を開けたまま何もせず固まったままだとクラスメイトも気味が悪いだろうということで、再度腕の中へ顔をうずめる。そして、明らかに眠たいと分かる顔で、机の上に突っ伏した。同時に、隣の席が騒がしくなる。


「リョウエイ、何見とるん?」


 クラスメイトの小澤が、細い目を更に細くして松里涼栄まつざとりょうえいに話しかけている。小澤は一高にスポーツ推薦で入った。サッカー部の特待生であり、それなりにガタイも大きく、まだ春なのに海に行ったんですかというくらい日焼けしている。一方の松里は、図体はでかいが小澤ほど引き締まってはおらず、顔にはいくつかニキビが出来ている。松里も一人で携帯電話をいじっていたようだ。


「関係ないだろ」


 松里が小澤に向き直って怠そうに返事する。


「関係ないことないだろう」


 小澤が松里をぐいぐい押す。


「2chのまとめサイトを見てたんだよ」


 小澤の押しににやけながら松里が答える。


「へー、面白そうじゃん。ちょっと見して」

「なんでだよ」

「いいから」


 数回の問答のあと、小澤がわざとらしく眉毛を動かし、おちゃらけた顔で催促する。

 松里は、大きくため息を付き、「はい」と言って携帯電話を小澤に渡す。小澤は見るページが変わるごとに器用に表情を変えながら、携帯電話の液晶をまじまじと見ている。


「おい、そろそろいいだろ、返せ」


 松里が何かを察したのか小澤から携帯を取り返そうとする。しかしそこはサッカー部で培われたフェイントで、リョウエイの猛攻を華麗に躱してみせた。


「さて、検索履歴はっと……」


小澤は松里に意図を気づかれたことを楽しみながら、目的の情報にアクセスしようとする。


「おい、やめろおお!」


 松里がビブラートのかかった美声を出しながら小澤に突っかかる。


「リョウエイも好きだな~」


 小澤が周りのクラスメイトを呼び寄せて、携帯の液晶を見せる。


「こいつ、ロシア エロで調べているぞ!」


 教室中から歓声が上がる。松里は「もうお終いだ……」と言い、この世の終わりのような顔をしながらその場に崩れ落ちた。教室の地面に寝転んだ松里には、クラス中の男子が集まり、シャツからはみ出た松里の腹をつついている。

 女子は遠巻きからまた男子が馬鹿なことをやっているという冷たい視線を投げている。


「おっ、リョウエイもスミに置けないな! よし、みんなリョウエイの電話帳を埋めてやれ!」


 一高の特進コースはコース全体である六十人の内、わずか十名程度しか女子がいない。そのため、男子校のノリで物事が進む。おもちゃになった松里の携帯電話は、それぞれのクラスメイトの手に渡り、松里の電話帳にクラスメイトの電話番号が追加されていく。


「ちょっと待て、返せよぉ~」


 松里が抵抗するとき、何故か嬉しそうな顔をしていたので、クラスメイトもそれをいじり、クラス中が笑いに包まれる。そしてちゃっかり、松里はカラオケに行く約束を取り付けていた。


 それから三週間ほど、松里のあだ名はロシアになった。

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