第12話 伝説の始まり

「中島、いるか?」


 俺は、図書室のガラス扉に手をかけ、中を覗き込む。部屋の隅で、焼き鳥二百円の千切れた値札が、本棚の下からチラついていた。


「ああ、鷹岡君か。何の用?」


 中島は高く積まれた死刑制度に関する論評が書かれた分厚い本の山から一冊手に取り、丁寧に付箋の階段を作っている。時折、眉間の皺を深くし低く唸る様は、さながらキャンバスの奥に眠る美しさを、素人の俺たちにも分かるように繊細に導き出す、優れた芸術家のようでもあった。


「中島って、声と言葉のボクシングの選手に選ばれてるよな」


 学祭終了間際、詩のボクシングの創設者である楠かつのりさんが放った、詩のボクシングを三対三のチームで行う“声と言葉のボクシング”富山予選の開催。それを耳にしたとき、俺は、何故か胸が高鳴る思いがした。


「ああ、詩のボクシング団体戦の? うん、檜山先生からね」


 学祭での詩のボクシング優勝者である中島はもちろん、楠さんだけでなく、先生やクラスメイト全体から、出場の期待を受けていた。


「実は俺もなんだ。松里と三人チームだって。二組の」


 そして何故か、序盤で敗退した俺や松里も含め、檜山先生から出場依頼が来た。これはチャンスだ。勉強以外で自分が活躍できるいい機会。俺は二つ返事で了承した。


「リョウエイは知ってるよ。有名だからね。で、それで?」


 中島は、あまり興奮した様子もなく、淡々と、返事をした。窓の外では冷たい風が何度もガラスを叩いている。


「目立てるチャンスじゃん。リョウエイと三人で、一緒に頑張ろうぜ!」


 俺は手を差し出す。いつもならこんなことはしない。今思えば、自分で思っている以上に、自分の外に何かを求めていたんだろう。


「ああ、そのこと」


 中島が一呼吸おいて言葉を紡ぐ。いやにゆっくりと。


「折角だけど断ろうと思う。勉強も忙しいし」

「勉強? もったいないだろ。勉強なんて……まだ一年生だぜ。なんで断るんだよ」

「僕、医者になりたいんだよね」

「医者……?」


 思いもよらなかった。確かに、中島は医者の家系だ。そもそも、ディベート部は俺以外医者の家系だ。ちなみにリョウエイも歯医者の子供だったはず。リョウエイの姉ちゃんも一高ディベート部のOGで、今は大学で歯医者の勉強をしている。


「それに、正直、ディベート部だけで手一杯なんだ。この部活は楽しいから。社会のことも知れて勉強にもなるしね」


 中島はニヒルな笑みを浮かべた後、再び本の虫になった。一年生で一人だけ、ディベート部の第二反駁としてレギュラーメンバーになる男はやはり違うなと思った。俺と鎌田はまだ一度も試合に出させてもらえていないというのに。


「忙しいのは分かる。けれど、中島だって俺と違ってディベート部でレギュラー張れてるんだし、勉強も課外活動も両立できるでしょ? 勉強したいからって言ってても、学祭だって優勝したじゃん」


 羨ましかった。だって、俺には目指すものなんてないんだから。


「それにさ、勉強とディベートだけだと頭使ってばっかだろ? 声出そうぜ? 青春しようぜ?」


 このときの俺は、もしかしたら縋りたかったのかもしれない。声と言葉のボクシングに。目指すべき道をしっかりと見据えている中島を引きずりこんでやりたかったのかもしれない。


「突然来てなんだよ。人のこと考えずにチームに入れ? ほっとけよ。何をやるかなんて僕の勝手だろ。学祭で優勝する気なんてなかったよ。強制参加だろ、あれ。それに、レギュラーになれないのは、鷹岡君の努力が足りないからじゃないの? 部活でも遊んでるじゃん。ともかく、俺は医者になるのに勉強で忙しいんだよ!」


 中島は、何が癪に触ったのか堰を切ったようにまくし立てた。長い間、無言が二人の時間を埋める。


「ごめん、言い過ぎたよ」


 中島が、ボソリと呟いた。俺は、右手をギュッと握る。


「中島ってさ、アドリブすごいだろ。頭もキレるし」


 俺は、思い出したように、一言、一言、言葉を紡ぐ。中島の目を見すえて。


「いや、そんなことはないと思うけど」

「俺、学祭で中島のポエムを見て、すごいと思ったんだ」

「別にそんなんじゃ」

「俺、中島とやりたいんだ」


 俺にもこんな声が出たのかと思うくらい大きな声が出る。


「ディベート部でもあまり話してなかったし、突然来て、無理やりしたのは謝るから」


 俺は、図書室の床に、膝をついた。


「頼むよ」


 手を、肩幅に開いて床につき、そのまま頭を下げる。おそらく、中島は慌てているのだろう。足元がゆらゆら揺れている。


「分かったよ。鷹岡くん。顔を上げてくれ」


 泣き落とし作戦成功である。俺は顔を上げた。中島の顔は、怪訝そうな顔をして図書室の外の廊下を見ている。


「後ろ」


 図書室のガラス扉にリョウエイがへばりついていた。俺たちがリョウエイに白い目を向けると、「先生と女子が真面目すぎて怖いから合唱部を休んできた」と弁明した。

 どうやらリョウエイも俺と同じ目的だったらしい。


「それじゃあ、鷹岡くん。これから同じチームとして、よろしく!」

「アキでいいよ」


 こうして、俺たち三人の伝説が始まった。

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