第9話 コールタールの海

「赤コーナー。富岡第一ジム所属。鷹岡哲仁!」


 檜山先生が、マイクを通して俺の名前をコールする。

 富岡第一高校の剣道場の中心には詩のボクシングの会場として、頭四つ上から見下ろせるリングが建設されていた。

 会場の端には審判席として、檜山先生とゲストの楠かつのりさん。ゴング係には、ディベート部の内山が駆り出されていた。俺が審判席の机の横を通ると、檜山先生が背中を叩いてくる。

 俺は檜山先生からの激励を受け、詩を詠むためにリングへと向かう。

 十月も半ば。夏合宿から二ヶ月が経ち、肌寒い木枯らしが教室の窓を叩くようになった。新緑の季節はとうに過ぎ、二上山はすでに一面が赤と黄色で覆われている。それに合わせるように、俺たちも袖まくりしたワイシャツから紺のブレザーに衣替えした。


「鷹岡! 頑張れ!」


 クラスメイトからの声援。期待の拍手。ラグビー部の山川が鍛えられた右腕を何度も天に向かって突き出す。

 今日は学祭二日目。一高は初日の準備日を含めて三日間学祭が行われる。一年生はフランクフルトや味噌おでんなどの露天を校門から校舎までの屋外に出すのがセオリーだが、一年一組と二組は檜山先生主導のもと、合同で詩のボクシングを一般公開するイベントを開催した。


「アキ、このリング、作ってみたはいいけど安全性は保証できないな」


 俺がリングに足をかけると、茶化すように内山が話しかけてきた。

 実は、選手が詩を詠むボクシングリングは、全てディベート部のお手製だ。リングは理科室から運び込まれた黒い実験机の上に、柔道場から剥がして持ってきた畳を載せただけのシンプルなものだ。リングを囲む四本の支柱は、一・五メートルもあるダンボールの筒に赤と青二色のペンキをそれぞれ二本ずつ塗った。そうして支柱の間を地面と水平に通したロープで固定し、完成。


「全く、内山は試合しないからって他人事だよな」


 俺は悪態をつきながら足元が不安定なリングへと上がる。リングは意外と広い。四畳はある。

 そして、この四畳で、今日と明日の二日間、夏合宿で勝ち上がった二十余名がトーナメントで戦う。

 俺より前に何組かの発表があったが、どれも夏合宿のときより数段上達していた。一度試合を経験して、恥じらいも薄まったのだろう。中には、発表に対して観客から拍手があがるものもいた。

 俺がリングの上から見渡すと、リングの前には一組と二組の生徒の他に、運動部の誰かが呼んだのであろう他クラスの生徒。そして、観客として来た地域の人が座っている。会場にいる人だけで、七十名弱といったところか。


「多いな」


 ふいに思ったことが口に出た。夏合宿のあの日から、俺の高校生活は変わったような気がする。皆の俺を見る目が、少しだけ柔らかくなった。

 俺は、A四用紙を四等分に折ったメモを手に、レフェリーの鎌田から渡されたマイクを握った。

 メモには、二ヶ月間考えに考え抜いたポエムが書かれている。

 期待の眼差しの中、俺は、観客に向き直り、姿勢を正す。

 試合のゴングが鳴る――。その瞬間、俺はメモを固く握りしめ、腹に力を込める。声を発する。会場のすべての人に届くように、声を張り上げる。

 どうだ、これが俺の詩だ。夏合宿でも会場を沸かせた、俺の詩を聞いてくれ!


 詩をワンフレーズ、ワンフレーズと紡ぐごとに、俺は、皆の表情を見渡す。そこには、俺の詩を待ちわび、狂喜して聞いている観客の姿が――いるはずだった。


 あれ、なんか違う。夏合宿のときと違う。

 気づいた、気づいてしまった。違和感に。

 あれ、みんなどうした? 眉が下がってる。口が半開きだ。さっきまでの勢いがない。空気が重い。まるで、コールタールの中で泳ぐように、うまく、泳げない。息が、あがる。言葉が、沈む。

 違和感が恐怖に変わる。やってしまった、そう思ったときには遅かった。


 会場の拍手が、やんだ――。

 終了のゴングが鳴る。今日の三分間はやけに遅く感じた。

 発表を終え、俺はクラスメイトたちから少し離れたところで座る。


「よかったよ」


 内山が俺に言う。

 どうでも良かった。皆の期待を裏切ったという後悔だけが俺の胸のうちにあった。


「おかしいな~」


 内山の言葉に、俺は、ただ力なく頭を下げた。


「青コーナー、――中島賢志!」


 俺の気分がどうであれ、試合は進む。俺の初戦の対戦相手は同じくディベート部に所属している中島だった。

 中島は先生に呼ばれると、メモも何も持たずに、リングへと上がった。

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