第36話 ソフトドリンク

 ――青コーナー、富岡第一高校ジム所属。厨時代ちゅうじだい

 レフェリーの溌剌はつらつと響きわたる声が、会場の四方に設置されたスピーカーを通して観客たちの鼓膜こまくを揺らす。


 学校指定の紺色ブレザーを着た三人の田舎くさい高校生がリングの中央に現れると、会場全体が歓声に包まれた。

 泣いても笑っても、これが俺たち最後の試合。そして、対戦相手は――。


「決勝戦は即興詩対決です! 両チーム悔いの無いよう頑張ってください。それでは、双方、握手をお願いします」


 彼らは毅然とした態度で、このリングに登ってきた。

 一回戦で俺たちを破った高校生チーム『錆びた釘ラスティッド・ネイル』が、手を差し出す。俺たちは、その手を握り返す。目を上げると、そこには雲ひとつ無い、どこまでも遠い蒼穹が広がっていた――。


   ◇


 横浜大会での優勝からもう一ヶ月経った。

 理科室の窓を少し開ける。サッシでけたたましく鳴いていたヒグラシが逃げて、僕は詩集に目を戻す。入道雲が野球部が白球を追いかける校庭に影をつくっている。もうすぐ、雨が降るのだろう。


「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」


 ――高村光太郎だっけ? それ。好きだよね。コウちゃん。

 突然、頬に、汗をかいた水筒が押し当てられる。僕を探しに来た同級生のミサトが手話でそう言った。


「うん、こうして呟いているとさ、何だか勇気をもらえるんだ」

 受け取った水筒の蓋を開ける。中身は、甘い粉を溶かしたソフトドリンクだった。


 ――同じ文章をずっとぐるぐるしてて飽きない?


「全然。読む度に、分からなくなるから楽しいよ。

 いい文章ってさ、読んでいる途中は作者に近づいたと思うんだけど、読み終わる度に少しずつ遠くなってしまう。当たり前なんだけど、僕は作者とは違うから。その距離感が好きなんだ。だから、また読みたくなるんだ。原点に戻ってきたくなる。不毛な作業かもしれないけれどね。

 で、道程は教科書でよく見る詩集バージョンと『美の廃墟』っていう雑誌に載せたのがあって、雑誌の方は少し長いんだけど、その中でも、『自分を自分らしく伸ばさねばならぬ』っていう部分が、好きなんだ――」


 ミサトはこちらを見ている。


「ごめん、喋りすぎた」

 ――いいよ。昔っから、好きなことになると周りが見えなくなるのは知ってるし、それに、コウちゃんのしてくれる話し好きだから。

 幼稚園から一緒だったミサトらしい返事だ。


「詩って日常の延長線上にあるんだ。自分らしさの延長線上に、僕たちの表現があるんだ」

 ――そうだよね。想いだとか、自分が伝えたいことがあって初めて、詩は生まれると思うよ。


「前に文芸部で詩の強化合宿したじゃん。その時のメニューにあった、なりきりトレーニングとかさ。あれ、他人の日常を観察して詩を作るんだけど、本当は客観的に自分を見つめるいい機会だと思うんだよ。他の人が自分を客観的な目線で発表してくれて、それを見て、自分ってこんなやつだったんだって」


 ミサトの目が、俺の心を刺す。彼女にはどうやら嘘がつけそうもない。


「ごめん。詩が、分からなくなった。ずっと考えていたんだ」

 ――だから、最近、文芸部に来なかったんだね。

 俺は首を縦に振る。

「このまま、全国大会まで詩が詠めなくなったらどうしよう。皆に迷惑がかかるし」


 ――コウちゃん、怖がらなくてもいいよ。


「ミサトはさ、声が出せなくなってから、怖くなかったの。今までやってきたことが出来なくなって」

 ――コウちゃん、今までって、ずっと続いていくんだよ。ずっと、ずーっと。声に出せなくてもさ、表現方法って沢山あるよ。優しいコウちゃんが言ったことはさ、きっと通じるよ。


「僕は優しくなんか無いよ。自分の保身だけ考えているんだよ」

 ――優しいよ。コウちゃんは。私のために手話を覚えてくれたし。

 僕はミサトに何かを言おうとしたが、何も言えなかった。その時、教室の扉が空いた。文芸部のコブクロだ。


「おい、コウ! 先生が錆びた釘でミーティングがあるから来いって」

 ――久々の部活だね。

「うん」

「コウ、またミサトちゃんといたのか。お前も隅に置けないな」

「うるせえよ」


 僕たちは、理科室から出て、文芸部の部室に向かう。今年の大会が終われば、僕たちは思い思いの夢に向かってそれぞれの道を歩んでいく。日は真上よりも少しだけ進んでいる。ぬるい風が頬を撫でる。


 ――もうすぐ、秋が来る。


   ◇


「挫折の中から成長し、敗者復活戦を勝ち抜いてここまでやってきた厨時代。対して、今最も勢いがある錆びた釘は、これまでパーフェクトで勝ち上がってきました!」


 レフェリーの声に、俺は体が強張った。一回戦での敗北、そして今まで負け続けてきた記憶がフラッシュバックし、酷く汗が出た。


「厨時代、頑張れ!」


 客席からの応援。見ると、チームウミガメの三人が手を振っている。そして、少し離れた場所にいる檜山先生は、俺と目が合うと笑顔で大きく頷いた。

 そうだ、思い出せ。俺たちは一人で戦っているんじゃないんだ。


 俺たちは、みんなの思いを背負ってこの場所に立っている。

「決勝は、ジャンケンで先攻後攻を決めてもらいます」

 レフェリーの合図で中島と錆びた釘の代表がジャンケンをした。


「先攻は、錆びた釘からの発表になります」

 会場からは歓声があがる。


「それでは、声と言葉のボクシング協会代表である、楠さんにお題の方をお願いしたいと思います!」


 会場が、静まり返った。


「決勝戦のテーマは……」

 みな、固唾をのんで見守る。


「『声と言葉の青春』で!」

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