銷夏への応援コメント
台風の影響が気になりつつ、立秋も過ぎ、秋の気配も感じる今日この頃ですが、今年も残暑は厳しそうですね。
ささやかな応援句をお届けします。
蝉の声響く公園モモ散歩
作者からの返信
中澤樣
「詩を作るより田を作れ」とは事行かず、矢張りお盆休みの時間的余裕に任せて連夜の投稿と相成りました。此方もご高覧下さり、御歌も頂戴しまして有り難うございます。
蝉の声を聞きながら散歩するモモちゃんの姿が目に浮かびました(折々にお写真を拝見しているからでしょうか)。けれどもこの暑熱、流石に夏バテしていないか些か心配です。
にしましても存外、台風の影響は「軽傷」で済みそうですね……今は一過の翌日に気温の何処まで上がるのかが気になっております。こうして台風を迎え、見送り乍ら、季節も次第次第に移ろうて往きますね。
編集済
發驪歌への応援コメント
第一句目の連想で戦国時代、武田信玄が古代中国の『孫子』の兵法から引用したという「風林火山」を思い出しました。
風林火山
其疾如風 其徐如林
侵掠如火 不動如山
難知如陰 動如雷霆
その疾きこと風のごとく その徐なること林のごとく
侵掠すること火のごとく 動かざること山のごとく
知りがたきこと陰のごとく 動くこと雷霆のごとし
作者からの返信
中澤樣
残暑お見舞い申し上げます。此度もご高覧下さいまして有り難うございました。
実は私も声に出して読んでいてボンやりと「風林火山」が頭を過りました。「難知如陰」は「内情を敵方に気取られぬを旨とすべし」との意のようですけれども、拙詩承句のコンテクストに寄せてみますと、陽の当たらぬ場処を歩き回ること=人知れず“書き物”をする孤独な営み(とそれに伴う労苦)を喩えているようにも読めてきそうです。
並べて物を書く人達は誰も皆、然様なる時の中で言葉を紡いでいるのだと云うことを忘れずにいたいものだとの思いを新たに致しました。
不定期更新にて恐縮乍ら、今後とも気長にお見守り下さいますと幸いです。
色轉饒への応援コメント
春分の日を迎え、春が訪れた道を歩きながら景色を味わう様子が伝わってきました。ささやかな応援返歌です。
木蓮の白い花びら降りしきる 時の狭間で探る道かな
作者からの返信
何時もコメントと御歌を頂戴しまして有り難うございます。
今週は春らしい狂風吹く日の多く、これに木々の枝のなぶられる姿をよく目にしました。御歌にもあるように、白木蓮は「散る」というより一気に「降る」ようなところがありますから、嘸や堪えたことでしょう……とは云え、稍く花のバトンの次から次へと渡っていく様を見ておりますと、まさしく華やいだ心持ちになって人界での鬱屈も些か紛れるようです。
別処にて投稿なさっている梅の御歌も、絵画的なもの、内省的なもの、子どもや鳥獣に向ける眼差しの温かいものなど多彩ですね。益々の御健詠をお祈り致しております。
菅廟への応援コメント
こんにちは。
Chat-GPTは漢詩の解説までしてくれるのですね。
菅公にゆかりの梅だからこその、千年のひろがりを想起させる詩情をどうAIが受容したのか知れたらもっとおもしろいのにと思いましたが、、そこまではまだ成長していないのかも、とも思いました。
作者からの返信
久里 琳樣
此度もご高覧下さいまして有り難うございます。
先だって仕事帰りに遠廻りして湯島にて夜梅を観まして、ライトアップされた白梅が綺麗でした(処で語彙として「夜桜」はありふれているのに、「夜梅」は頓と見掛けませんね。何かヤヴァい事訳でもあるのでしょうか)。
ChatGPTは無料版を使っておりますけれども、此方からの質問の仕方によって返答も随分変わるようです。私も幾度か試みまして、或時は
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「菅廟古梅」という漢詩は、雅趣あふれる自然の美を詠んだものと見受けられます。以下に各句の解釈を示します。
菅廟古梅
「菅廟」は古代の廟のことで、ここでは古い廟の周りにある梅の木を指しています。この句から、詩の舞台が古い廟の周辺であることがわかります。
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ですとか、また或時は
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菅廟(かんびょう): 詩の題である「菅廟」は、菅原道真(すがわらのみちざん)を指す可能性があります。道真は平安時代の学者であり、菅原神社の祭神とされています。詩が彼に敬意を表している可能性があります。
古梅(こうめい): 「古梅」は古くからある梅の木を指し、寒い日に咲く梅の花を表現しています。
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といった塩梅です。
芥川賞作家の「AI発言」も話題となっておりますけれど、今後も文学とAIの関係には紆余曲折ありそうですね。
また遊びに来て下さいますと幸甚です。
瞢騰への応援コメント
こんにちは。
いい詩ですねなんて今さら言うのはかえって失礼かもしれませんが、人が世を生きることのままならなさと、それでも時は人にかまわず進んでいく現実をまえに、嘆息する情感がいいなと思いました。
作者からの返信
久里 琳 樣
五箇月振りに新しい書き物をお目に掛けられました。此度もご高覧下さいまして有り難うございます。
生理的なものであれ心理的なものであれ、様々な局面で出てくる嘆息……何とも面白い現象に思われます。先月に手術を経験した病余であることと歳闌の時節と相俟ってこのような作詩となりました。
病身にあっては“生活”に必要最小限の営み以外、如何にも億劫になってしまい、余裕のあればこそ為し得た営みの極小化していることに気付かされたことですから、そういった素晴らしい生体反応への細やかな反逆という意味合いもあったかも知れません。
久里琳さんも心身共に日々健やかにお過ごし下さいますように。又、遊びに来て下さいね。
翠琅玕への応援コメント
こんにちは。
「漢詩」の自主企画にご参加いただき、ありがとうございます。
言葉の深奥を探求されている工藤さんの、確かな識見と趣に満ちた漢詩の収められている『豊穣なる語彙世界』にこそ、この企画に参加いただきたいと思っていました。
まさに言葉の豊穣を愉しむ作品の数々。これからも楽しみにしています。
作者からの返信
久里 琳 樣
こんにちは。漢詩の企画に参加すること出来まして、此方こそ何やら嬉しいです。もっと参加者が増えると良いのに……。
何ぶん私も漸く三年前に独学で取り組み始めた許り、詩語や平仄の辞書が手放せない初心者ですので、所謂「近体詩」の押韻や平仄の規則は守れている筈なのですけれども、未だ暗中模索を続けております。
語彙をパズルのように布置して作した詩の、そのコロケーションとしての妥当性ですとか、吟じた時の「音」としての響きといった美的観点からの自己評価も独力では侭ならず難儀しているところです。
喩うるなら、食材自体は良質だのに、それの未熟な調理によって酷い料理が出来上がっているのではないか、そんな疑懼を常に抱いております。美しい語彙が私の手に掛かって台無しになっているのでは、と。漢詩も料理と同じように数をこなしていくことで幾分か上達していると良いのですけれども……。
拙詩(これは謙遜でなしに)の今後の変化を是非、お見守り下さいますと幸甚です。
翠琅玕への応援コメント
風強く樹々ゆさゆさと立てる音黒柴犬と歩く小道で
ささやかながらの応援返歌です。
これからはだんだんと緑が濃くなる時期ですよね。
作者からの返信
中澤樣
何時も何時もご高覧下さいまして有り難うございます。そして又しても御歌、頂戴してしまいました。この度は御礼とともに返し歌(拗らせ歌)をばお送りさせて下さいませ。
百(モモ)足らずいつきに(齋槻に、何時来に)けるや夏(なつ)の風ゆさゆさと鳴りけうか(今日か、京華)とぞ知る
「ももたらず」の枕詞に続く掛詞も苦しきうえ、本来ならば「京華」さんは「けうか」さんでなく「きやうくわ」さんなのですけれどもお見逃し下さいませ……にしましても、twitterで拝見しておりますモモちゃんとなっちゃんには何時も癒やされます。
沈床の園への応援コメント
春風に吹かれてゆかし海棠に和む面影過ぎゆく日々に
海棠、彼方此方で見かけています。かわいらしい花ですよね。
ささやかながらの返歌をお送りします。
作者からの返信
中澤 樣
この度もご高覧下さいまして有り難うございます。
そして何と、御歌を頂戴してしまいました! 重ねて御礼申し上げます。
私は御歌を拝読しまして真っ先に、中澤さんがお母様のお姿をお詠みになったのではないかとの印象を持ちました。春の麗らかな陽射しの下に、詠者の煦かな眼差しの感じられたからです。けれども、否然し、花をご覧になって御自身が何事か昔のことを思い出されたのかも、などと、他にもあれやこれや思い巡らせております。「過ぎゆく日々」とはどのようなものだったのか……積み重ねてきたことの慥かさの中に、何処か一抹の寂しさも混和するようです。
海棠に誰かの面影を重ねてしまうのは、「海棠の睡り未だ足らず」というあの、玄宗が酔後の楊貴妃をこの花に喩えた故事の所為もあるでしょうか。
坎坷への応援コメント
こんにちは。
タイトル通りの豊穣な語の世界を堪能しています。日常生活どころか、小説でもなかなか出番のない言葉たち、でも日の目を見させたくなるんですよね。
この先も楽しみにしています。
作者からの返信
久里 琳 樣
初めまして、工藤行人でございます。
七月末から毎日のように拙文をご高覧下さいましたこと感謝の念に堪えません。
PVの棒グラフに大波小波の二ヶ月以上に亘って途絶えることないというのは誠に壮観、著者としても初めてのことで、この上なく得難い経験までさせて戴いたような気が致しております。誠に有り難うございました。
仰るように「なかなか出番のない言葉たち」にも「日の目を見させたくなる」のは矢張り人情というものでしょうか……そういった語彙に出逢う度、何とか「舞台」を用意してやりたいものだという思いの強くなりまして、物語るよりも言葉そのものを書くためのスペースとして拙文を拵えた次第です。
内容の伝達を終えれば顧みられなくなる「手段」「従者」としての言葉よりも、端から内容が無いからこそ解釈を読者に委ねられる、語彙こそが「目的」「主人」でありうる拙文を「語彙の型録」「語彙の博覧会」などと嘯き乍ら書き連ねて参りたく存じますので、今後とも折々に遊びに来て下さいますと幸甚でございます。
久里琳さんの『詩・歌・句の欠片』、何時も感心し乍ら拝読しております。
半ば露悪的な意図を以て「借り物」の言葉を連ねる拙文とは異なり、御作は実感に発する言葉、「生身の」言葉で綴られていますね。そしてその言葉は伝達してなお慥かな質感を残している、そこに魅力を感じるのは私だけではありますまい(見当違いでしたらばご容赦下さいませ……)。
久里琳さんのご健筆を私も心よりお祈り致しております。
編集済
蝋引紙への応援コメント
工藤様
こんにちは、坂本です。
先日畏れ多くもTwitterにて紹介させていただいた本御作『蝋引紙』についてですが、この傑作により齎された余韻に、私は、今も尚浸っているような心持でございます。
久しぶりに実家を訪れた主人公の心理についての精緻なスケッチは、恐らくは、工藤さんの私生活を通して感じられたことの反映が、大いになされているのだろうと拝察しております。言葉にならぬ感情を、心理の遠から救い出して言葉にしてやることが、文学者の持つ使命の一つであると、私は考えております(この点、文学者の仕事は、天文学者の仕事と共通するところがありますね。これは私事ですが、実は私は、子供時分はずっと星の研究がしたいと思っていたのでございます)。この使命の御蔭で、いったいどれだけの不可解な感情から、我々は救われていることでございましょう。所謂プラグマティズムの視座から、文学の意義について懐疑を投げかける人も少なくはありませんが(そしてまた、そのような懐疑に対して、我々は往々にして言葉に窮しがちではありますが)、この使命による人間存在への恩恵だけは確かなものとして、文学も少しは胸を張っていいのではないかと、私はそう考えているのでございます。(もちろん、多くの薬がそうであるように、文学が我々の心理に毒として作用する場合も、無いわけではありませんが......)
そしてまた、優れた言語による表現とは、その言葉言葉が持つ出自を、読み手に詳らかに示してくれるものでございます。「果たして言葉はいったいどこからやってくるのか? 我々の意識すら及ばない心理の最奥に、それらの言葉は予め用意されていたのだろうか? 或いは......?」これは小説を書く人間にとっては常に大きな壁として眼前に立ちはだかる命題でございます。私が如上のように"優れた言語表現"というものを定義しているのも、このためでございます。そして、優れた言語表現に触れた時、我々の心はそこに書かれた言葉たちと共鳴して、そこには一種の法悦状態が訪れるのであります。工藤さんが、自己の心理に於いてなされた果敢な探求の試みの結実を拝読しながら、私はふと、工藤さんの心理と私自身の心理とを重ねているような心持がしてきて、これは大変光栄でかつ愉しい体験でございました。そして私も、多くの感情的困難を、工藤さんの達成した表現によって救われた心持でいるのでございます。
そして、主人公が多くの思い出とともに実家に置き去りにした「一頁も開かれずに埃の積もった本」というモティーフ......青春という言葉の持つ不条理性が、なんと情緒的に、詩的に、そして的確に、表現されていることでしょう。私には到底このようなものは書けません、脱帽でございます。
また私は、この青春の不条理に感じ入りながら、このように開かれることのなかった"愛の物語"の、この世界にいったいどれだけ存在しているのかということについて、思いを馳せているのでございます。もしかすると、私の人生の中にも、私が知らないだけで、読まれずにしまった一冊の"シェリ"があったのかもしれませんね。
そして、本作のタイトルにもあります、健気にも読み手のいない女主人(シェリ)を徒に過ぎる時間から護り続けていた"蝋引紙"について、いったいどのように解釈すればよいのでありましょうか。無理に解釈しようと思えばいくらでも解釈できてしまいそうな象徴でありますが故に、私には反対に、どのような解釈すらも確かな答えには届き得ないだろうという無力感を覚えてしまうのでございます。しかるに、この無力感も、如上の法悦の中に訪れると、なんとも甘い心地のする文学的境地へと、私を誘ってくれるのでございます。
主人公の最後にとった行動も同様でございます。「何か取り返しの付かないことをしてしまったような恐ろしさ」に思い至り、シェリを見えないように本の山の中に隠した主人公の行動、そしてそのすぐ後に述懐される過去の自分の「自意識」と「羞恥心」への反省。しかし、彼は己の"取り返しのつかない過ち"の象徴たるシェリを、他でもなく彼の「自意識」を養ったに違いない"本の山"の中に、見えないように隠してしまう......ここまで書けば、私はもう彼のとったこの行動に、態々説明を付す必要などないのでございます。それは無粋というものです。
彼の最後の行動を行うに至った心理の運動は、実に多面的で複雑な構造を持ってはいますが、それでも尚、我々の心理にはこれがどれだけ適していることでしょう。人間とは、斯くも矛盾に満ちた、悲しく、そして愛おしい存在でございますね。
長々と節度なく語ってしまったこと、最後になりますが謝罪させていただきます。
今後とも、勝手ながら工藤さんを師事させていただきたく存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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令和四年一月廿九日
工藤様
こんにちは、坂本です。
この度は、手前勝手な感想ばかりを並べた無礼とも取られかねない私のコメントに対して、まことに丁寧なご返信をくださり、本当にありがとうございました。(そんな工藤さんのご厚意に甘えて、性懲りもなく、このように追記の形でコメントさせていただいております)
そして、当方不覚ながら、御作のタイトルにもあります〝蝋引紙〟について、極めて致命的な読み違いをしていたことに、後になってから気が付き、本当に申し訳なく思うと共に、恥ずかしい気持ちでいっぱいでございます。
何分、工藤さんから過分なお褒めの言葉を頂戴した直後に気が付いたので、「穴があったら入りたい」とは正しくこのことであると、しみじみ、もといさめざめと感じております。
当方の取った不覚について、どうか御寛恕賜りたく存じます。
しかしながら、何故私は『蝋引紙』が〝薄い埃の皮膜〟の比喩であることを読み落としてしまったのでありましょうか。原因は、私の貧しい蔵書の中にありました。詰まるところ、これは単なる記憶の固執が齎した、まことに詰まらぬ勘違いであったのでございます。
私の実家の書架には、デュ・ガールの『チボー家の人々』の単行本があって、私はこれを学生時分を通して少しずつ読み進めていたのでありますが、結局は読み果せることのないまま実家を離れることとなり、今に至るのでございます。そしてそのことが、工藤さんの御作を拝読した折に、ふと頭を掠めたのでありました。何故というに、このサーガの鮮やかな黄色い装丁を護っていたものもまた、不精にも私が購入時よりそのままにしておいた、パラフィン紙であったからでございます。
私は一度記憶の固執に捕らわれると、自身ではそのつもりがなくても、知らぬうちに恐るべき頑固さを発揮して、別様には考えることができなくなる厄介な性を持っているのでございます……この性も、件の〝サーガ〟と同じく、実家の書架の中に、(柱に刻み付ける成長の証のように)私が独り立ちをする証として、置き去りにしてしまっておけたのなら、どれだけよかったことでしょう。
ただ、工藤さんが〝蝋引紙〟という言葉で以て表現したことの意図に、(既に手遅れではあるものの)気が付いた今になって、それを私に読み誤らせるきっかけとなったチボー家という長大な青春小説と、工藤さんの御作との印象を考えあわせてみるに、奇縁ともつかぬこの何とも言えぬ不思議な繋がりに、詩的霊感にも近いそこはかとない感の沸くのを(しかし確かに)覚えているのであります。
私は返信前のコメントで「工藤さんの心理と私自身の心理とを重ねているような心持」がしてきたということ書かせていただきましたが、これはまことの感想でありまして、そこに偽りはないのでございます。それは正しく、工藤さんの優れた文学的心理解剖が、本来工藤さんご自身のみの所有であるはずのユニークな感情経験を(成熟した学問が事象を普遍化一般化していくのと同じように)普遍化一般化し、社会的な言葉として給することに成功したことによる効果、つまり工藤さんが〝文学者の使命〟を全うされたことにより私に齎された効果であることは、確かでございます。でありますが故に、私が自身の経験から工藤さんの御作と照応する事柄を知れず引き出し、重ね、心打たれたというのは全くの必然で、自然科学とは異なり、本来再現不可能な知を扱う文学において、工藤さんの御作が斯様な確かな効果を湛えているという事実に、私は工藤さんの持つ感性と知性との偉大さを思っているのでございます。
その上で、かく言う私は如上のようなお恥ずかしい誤読を犯したのですから、これは単に私の頭がパァだったというだけのことで、当然ながらこれは全く私の落ち度でございます。
ここまで書いて、私は小林秀雄のゴッホ論を思い出しております。
氏曰く、「ただ生まれながらにしての個性は個性に非ず」とのことで、更にまた、殊に芸術家に於いては「磨かれた個性でなければ個性と呼ぶに値しない」という大意のことを書いておりました。
これは確かにその通りであると私は考えておりまして、絵の心得のない人間がただ野放図に描き散らした絵は、確かに彼だけにしか描けないユニークな絵であることには間違いありませんが、果たしてその絵に価値はあるかと問われると、私の立場は懐疑的です。ポストモダンな考え方をすれば、その絵に価値をこじつけることも可能やもしれませんが、やはり芸術家には一定の訓練、「特殊から脱して普遍(端的に表せば技巧や様式といったもの)へと至ろうとする」訓練が必要で、その練磨の中でこそ、芸術家は個性と呼ぶに値する価値を、己の〝かく〟ものの中に見出し得るのだと、私は考えているのでございます。(私はマッチョな思想に魅力を感じる質の人間なので、芸術に於いてもこのように考える性向が強く顕れてしまうのです……)
特殊から脱して普遍へと至ろうとする意思は、本来芸術家が持つべき態度とは矛盾しているように思えますが、彼らが自己の特殊を表現するために、どれだけの(一般化された)方法論の助けを借りるかを思ってみれば、これも不思議なことではございませんね。
そして、小説に就いていえば、絵の場合よりも尚この傾向が強いように、私には思われるのです。三島的言説を用いれば、言葉とは取りも直さず社会的な共有資産であって、また反対に、社会的共有資産であることによって、言葉もまた自らを言葉たらしめているのでありますから、我々が我々の独自の感情を言葉により述懐せしめた場合、本来的な意味での特殊は没却され、個性は普遍化され、文学者の往々標榜する孤独は、この時点で既に社会的な繋がりの中に救い出されているのであります。
特殊から普遍に至ろうとするその道筋に於いて、終には独自に至るというこの逆説的な営みこそ、芸術的営みであるとすれば、文学者の仕事は、真に芸術的な仕事と言って憚らぬものでございます。
そして、言葉が社会的な性質を持つ前の状態、安吾曰く文学の故郷であるところのあの〝孤独〟の状態、言葉が言葉になる前の〝心理の最奥〟にある特殊の状態から、社会的普遍へと救い出し、訓練された表現によって、再び特殊を勝ち得るというのには、瞠目すべきものがあります。
長々と、他者の意見を援用してまで自説の開陳を行ってしまいましたが、私の立場をここまで前置きしておかなければ、工藤さんの成された仕事の偉大さは、十分に説明が尽くせないのであります。(もちろんこれは、私の菲才ゆえの〝冗長〟でもあります。まずもって、御作『蝋引紙』の価値は、一目で十分理解できるのでありますから)
文学に於ける感情の同化作用は、如上の文学的表現における過程とは逆順の過程でもって我々の心理に去来するのでありますから、そこに書かれたものが日常茶飯の事象を描いたものであれ、表現のされかたが偉大であれば、その偉大な表現の恩恵は、我々の心理の日常茶飯の光景に浸透して、我々の人生をより華やかなものにしてくれるのであります。文学を「死の準備」のために役立てようという人も多くおりますが(そしてまた、文学は我々の死に際して大いに役立ってくれるであろうこともまた確かではありますが)、どうにかして、私は生きるためにこそ文学をしたい。私のこの希みの大きな励みに、工藤さんの御作はなってくださいました。
人生の内に、友人と呼べる小説に出会える機会は、そう多くはございません。そして、友人として持つべき小説とは、我々の死に様ばかりではなく、生き様を、彩ってくれる小説であると、私は信じているのであります。
また、私に対して、様々有難い励ましのお言葉をかけてくださり、まことに、まことにありがとうございました。
特に「~~読まれずにしまった一冊の"シェリ"があったのかもしれませんね」の箇所を気に入っていただけたとのことで、私自身、大変うれしく思っております。最初に御作を拝読してから二週間余が経ちますが、この「読まれずにしまったシェリ」への感慨は、今も尚私に夢心地のような文学的甘露を味合わせてくれるのでございます。これは本当のことです。決して阿りではございません。
ふとした時に、物語の中の二人が、〝主人公〟と〝哲学少女〟が、私の胸裏に浮かんできて、私自身の青春の悲しさや後悔、これら芸術への羨望を、贖ってくれるのでございます。私が「眠れる乙女」でやろうとしたことを、斯くも的確に、表現されてしまった、そんな心地でおります。そしてまた、このことと関連して、例の勘違いに気が付いたとき、御作について新しい解釈が私の中に萌したのでございました。
文学的衝動という言葉が正しいかは分かりませんが、我々小説を書く人間には、〝衝動〟の去来する瞬間が、全生活に亘って、(全く思いもかけない場面にさえ)存在しております。
この衝動の所以は一体何処に萌しているのでありましょうか? 現在という瞬間瞬間を、捕えて放したくないという一種の恐れに原因しているのでございましょうか? それとも、すでに〝失われた時を求めて〟惹起される後悔が、この衝動の正体なのでございましょうか?
このようなことに思いめぐらせたとき、件のシェリの上に〝蝋引紙〟のように積もった埃が、その下で窒息していた真新しい頁たちが、主人公の後悔が、知られざる少女の思いが、それらすべてのものが互いに重なり合うところに、文学的衝動ともいうべき清浄な肉欲(私は慎重に、この語を選びました)の実態が浮かび上がるのを予感したのであります。
実力不足の故に、この予感を確かな言葉で表現して見せるだけのことが、私にはまだ出来ません。予感は予感のままで、私の心理の最奥で、言葉にならぬままの孤独として留まっております。
この孤独をどうにかして言葉にしてやりたい……ここにも例の衝動が、潜んでおりましたね。
先日お話させていただきましたが、現在私は所謂私小説を書いております。が、正直かなり難航しております。人生をモティーフに取ったときの、その主題の余りに漠然とした状態(或いは虚無状態)を前に、立ち尽くしてしまっているのでございます。(それに、私の人生は余りに支離滅裂としすぎています)
ですが、今お話しした工藤さんの御作から得られた新しい予感が、私の私小説の中で一つの結実を見せるのではないかという、またもう一つの〝予感〟も、今私の中に芽吹きつつあるのでございます。
開花の折は、どうぞ御照覧いただけますと幸いです。
また、最後に、私のコメントのプラグマティズムの件りを受けて表白してくださった工藤さんご自身のお考えを拝読し、まことに忸怩たる思いになりました。
私もまだまだ若輩者でございますね……仕事柄、どうも実利ということに煩わされてしまい、それらが私の書く言葉にも夾雑してきて、悪さをしているようです。技術者の捧げる金属への崇拝は、それ自体は極めて純粋で高潔な信念を持っていると、私は信じているのですが、これがどうにも……
それと、弟子入りの申し出、むなしくも玉砕してしまいましたが、この件も含めて、これほどの工藤さんの御好意を前にしては、後に私がすべきは、工藤さんを(尊敬すべき)友人と呼べるだけの気概と自信とを持つことなのでしょうね……何れにしても、今以上の克己と練磨とが必要であることは明白なようです。
文通の件、是非今後とも続けとうございます。こちらの方こそ、よろしくお願い申し上げます。
作者からの返信
坂本樣
坂本さん、宛名の「樣」付けだけは何とぞお見遁し下さいますよう……。
「蝋引紙」の如き薄い埃の皮膜に覆われていたのは『シェリ』のみならず、此方にて投稿してからも已に二年半(別処に投稿した初稿より算えては五年)を経ている当拙文にあっても又同様であった中で、この度、その皮膜を取り除いて見出して下さいましたこと有り難うございました。
坂本さんが新たに「読み」の風と光とを送り込んで下さったお蔭で、擱筆後の私の心裡に積層していたコトバ以前の埃も再び無数に舞い上り、ダイアモンドダストのように応輝して燦めき出した、そういった光景を見させて戴いたような気が致しております。何より深掘りされたコメント自体が一つの書評、一つの作品のようで大変読み応えがあって、著者乍らに新鮮な気持ちで拙文を読み返す好機となりました。
ご皎察のように当拙文はお言葉を拝借すれば「スケッチ」「私生活を通して感じられたこと」に相違ありません。我が実家に残された「抜け殻」の裡に在って眼にしたものと、そこから抑え難く萌した感思とでも申しましょうか、それを無聊に耐えかねて慰みに手控えたものを資としております。初稿は『生物準備室にて』と同様、是又しても「即興小説バトル」に投稿したものでして、その時のお題は「僕が愛した悪意」、必須要素は「フランス」でした。初稿の日付が2017/4/29ということですから恐らく黄金週間、そして改稿したものを『語彙世界』にて再掲したのが2019/8/15ですから此方はお盆、孰れも実家に滞在中だったことに今更ながら気付かせて戴きました。已に私にとっての非日常的空間に転化している実家にて、徒然として何事か惘りと思い巡らす時間から生まれ出た産物ということになりましょう。
模糊とした感情が名指しによって具体的な輪郭を得ることで「我々の心はそこに書かれた言葉たちと共鳴して、そこには一種の法悦状態が訪れる」、輪郭として画されたのにも拘わらずそれと「ユニゾン」したり「同化」できたりするという逆説的なこの「作用」が文学の愉悦を支えるのでしょうか。であるならば、拙文ご高覧下さり「工藤さんの心理と私自身の心理とを重ねているような心持がしてきて、これは大変光栄でかつ愉しい体験」と仰って下さいましたこと、著者冥利に尽きるというものです。重ねて御礼申し上げます。
そして「言葉にならぬ感情」を「救い出して言葉にしてやる」ことは、取りも直さずそうやって「言葉にならぬ感情」「不可解な感情」の沼に溺れるその人自身を「救い出」すことにも通ずるのでしょうね。これも文学のいま一つの「作用」であるように私にも思われます。極めて卑近な譬えで大変恐縮なのですが、原因不明の不調を来して心身共に優れない人(例えばある日の私)が、医者から具体的病名を告げられることによって幾分か安堵して心持ち楽になるといった、自意識では何とも抗し難い心理作用を思います(余りに深刻な病だとこの限りではないものの)。何かしらの「名指し」=言語化によって、漠然と「何かある」状態からそれが「何である」か解った状態に転化した時の安堵感……文学におけるそれは正負で言えば正の「作用」でありましょうし――対して負の「作用」、つまり「何であるか」解ることによって、安堵とは逆に振れて悔悟や絶望などに逢着することとて勿論ありましょうが、そこには何らかのカタルシスが伴っていて欲しいものです――、その「作用」を、慥かに坂本さんの仰るように「使命」と表せる人こそ「文学者」と呼ぶに相応しいのかも知れません。ですから、私が文学の「作用」としてしか認識していなかったものを、他でもない「使命」と名指しておられるところに、「文学」に対する坂本さんの向き合い方を見る思いが致します。以前、twitterにて「御自身の人生の時間のどれほどを文学と向き合って過ごして来られたのかと思い致しております」とリプライをお送りしたことがありましたけれども、この度のコメントを拝読した後もやはり同じような感慨を持ちました。やはり坂本さんは作家になるべき方だと僭越にも思わずにはいられません。のみならず「文学の意義」について真摯なお考えをお持ちであることからも私はそれを確信致します。
時に、「プラグマティズムの視座」から「文学の意義」に投げ掛けられる懐疑に対して「言葉に窮する」、私なりに噛み砕いて解釈すれば「擁護すること即座には難しい」のは、恐らくその懐疑に慥かに一理あるからなのでしょうけれども、反面、私などはそういった懐疑の眼差しから「即座に」「反射的に」文学を擁護することそれ自体がそもそも不可能なのではないかと考えております。大前提として「土俵」が違うのではないかと……「文学の意義」は、心裡の表層的動きだけ追っている段階という意味での〈日常〉において認識されるものではないのではないか、譬うればそれは〈日常〉の中で、ある時ふと陥ってしまった深い落とし穴の中で藻掻き乍ら、つまり心の表層でなく深層においてこそ噛み締められる筈のものであるように思われるからです。
私は、人間がrealityとimaginaryの双方を認知する能力と言葉を持つ動物である限り「文学」は何らかの意義を持ち続けるだろうと楽観しております(realityとimaginaryの件はシン・エヴァンゲリオンの請け売りです)。「文学の意義とは何か」、よりドラスティックには「文学が何の役に立つか」「文学は必要か」といった問い立てによって「文学」の無用性について力説される方もおられます――そして私はその方の人生にとって文学が無用であったという事実を、皮肉でなく最大限尊重します――けれども、「ではなぜ文学は無くならないのか」という問いに明確な回答を与えられる、与えられた方を私は寡聞にして存じ上げませんで、その点からしましても、主観的な価値判断によって見出された「意義(の有無)」よりも、「存在している(無くなっていない)」という儼然たる事実の方にこそ私は与したくなってしまいます。それこそ「文学の意義」に対する懐疑への、恐らく揺らぐことのない不変の回答だと思うからです。
やや筆が滑ってしまいましたので軌道修正致します。
感傷的に偶成した当拙文とはいえ、著者なりにモティーフや暗喩の操作を施していた(積もりの)中で、殊に「一頁も開かれずに埃の積もった本」が「遅れて開かれる」ということ、そしてそれを再び閉じて「本の山」に隠して見えないようにするということ、その本が「シェリ」であることに籠めた含意など「仕掛け」ておいた事毎に的確なご解釈、流石という外ありません……何やら丸裸にされてしまいそうでお恥ずかしい限りなのですが、そこはお察し下さったのでしょうか、解っていて下さり乍ら総て書かずに「書き隠す」ということで以て応じて下さった坂本さんのご厚意に改めまして深謝申し上げます。此方こそ脱帽でございました。そして「私の人生の中にも、私が知らないだけで、読まれずにしまった一冊の"シェリ"があったのかもしれませんね」とのお言葉が私には一等嬉しうございました。
最後に「師事」はお断り申し上げます。私は慥かに坂本さんより「先」に「生」まれた存在であるには違いないのでしょうけれども、書き手としても読み手としても畏るべき「後世」こそが真実、「師」と仰がるるに相応しい存在なのです。願わくは、時折、140字では到底尽くせない所感を往復書簡のように送り合うことを細々とでも続けさせて下さいますればこれに勝る歓びはありません。何とぞ、ご無理のない範囲でご検討下さいませ。でハ又。
追伸
お名前の「恒」の字を旧字の「恆」になさったのでしょうか。twitterにて“to be or not to be...”を拝見しましたからには、即しや新潮文庫版、福田恆存訳『ハムレット』をお読みになっただろうか、などと妄想し乍ら、私も高校二年の夏休みの午后、自室のベッドに丸寝して、風に揺れる真っ白いレースのカーテンを視圏の端に収め乍ら同書を読んでいたことを思い出しました。あの頃は実家の自室も未だ埃っぽくなく「生きて」いたのですけれどねゑ……。
追々伸
星のこと、書き忘れておりました。私も幼少年期に星に魅せられた者の一人です。科学雑誌の『Newton』に掲載される、ハッブル宇宙望遠鏡が写した宇宙の精細なカラー写真、そして自身の小遣いで初めて買った野尻抱影『星と伝説』で読んだ、星座を廻る神話の数々……総てが良い思い出です。因みに『星と伝説』は昨年になって無性に読み返したくなりまして、2018年発行の153刷を購入し、現在は枕元にあります。思い出の名著を今以て買い求められるという有り難さを噛み締めると共に、やはり本は買わなければ、買い続けなければならないとの思いを新たにさせてもくれた、その意味でも私にとっては名著なのです。
編集済
頌新春への応援コメント
新年明けて、もう10日もすぎてしまいましたが、今日は成人式ですね。日本では第5波の後、しばらく収束していた新型コロナウイルスですが、ここ数日で一気に感染拡大の様相で、成人式も地域によってその対応は様々のようです。世界中で猛威をふるっているオミクロン株の今後の動向も気になりつつ、感染防止に気をつけています。
ところで、漢詩ですが、ルールを調べて私も見よう見まねで書いてみたので、お届けにきました。
ルールにそって書けているかどうかが、いまひとつ自信がないですが、わかりやすい構成なので、工藤様なら情景はわかってくださると思い、私訳はつけませんが、読んでみて何かご意見がありましたら、遠慮なくお願いいたします。
春告草
宏大晴天映蠟梅
赤南天實寒梅開
交遊目白吸花蜜
被雪水仙輝明舞
今年も無理のない範囲ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。
(※漢詩の形式等考慮し、整えてみました。勉強させていただき、ありがとうございます)
作者からの返信
中澤樣
旧年中は折々に拙文へお運び下さいまして有り難うございました。本年も宜しくご交誼の程、お願い申し上げます(ご無理のありませんように)。
年は改まっても今以て続く世上の物怱、最早、生活の一部となって久しい「彼奴」との「お付き合い」こそは今年限りにしたいものですけれども……不如意なところですね。
先ずは今年初めて中澤さんから頂戴するコメントが漢詩とは思いも寄らず吃驚致しました。とともに、昨秋にお送りしました「秋錦繍」への、返歌ならぬ返詩を春の便りと共に拝受したようで一等嬉しうございます。
御作、twitterで中澤さんが投稿なさる動植物のお写真のフォーカスのように、被写体に対する「眼差し」がそのまま詩にも表れているように拝読しております。何よりその色彩、空の碧、蠟梅の黄、戯れ遊ぶ目白の黄緑、南天の実の赤、寒梅は紅白どちらでも良いけれど願わくは薄紅が良いな、雪中花こと水仙の花は雪に合わせて白か、あるいは雪に映える鮮やかな黄か……彩り豊かな新春の生命、世界はかくも色めき美しいものかと、像を脳裡に結んで悦に入っております(成人式たる今日などはその彩りも弥増すことでしょう)。そして私はこの中ならば、矢張り「目白」の黄緑が好きですね(※漢詩の形式的な部分につきましては別処にて)。
詩人でいらっしゃる中澤さんが更に今また漢詩というかたちで万象を表現なさっている……思い掛けず何やら私として引き摺り込んでしまったような、内心「占め占め」といった心持ちでおりますから、もしお嫌でなければ、今後も折に触れて中澤さんと漢詩を遣り取りし乍ら私も研鑽を積めたら、などと夢見ております。
搏翼機への応援コメント
始めまして、工藤様
Aiinegruthと申します。
レトロチックな格調高いカタカナとありあまる語彙、それらを複数の絹糸で編んだような修飾の紋様に感嘆の声が漏れます。大学院の国文研究室で、辞書や浩瀚な書物を手にしながら、教養人たちが表現の切り口について語らっているような情景が浮かびました。また、暇を見つけて少しずつ大切に読もうと思います。素晴らしい作品をありがとうございます。
作者からの返信
Aiinegruth樣
初めまして、工藤行人です。
ご高覧のうえ、応援やフォローのみならず★まで頂戴しまして此方こそ有り難うございました。また、拙文に何ともゆかしく心惹かれる譬喩を充てて下さり大変光栄です。
紹介文にもありますように、当拙作『豊穣なる語彙世界』は「物語るよりも言葉そのものを書くことに偏執」した、謂わば「語彙の型録」として起筆したもの、「何を」書くかでなく「何で」書くかといった関心から、まさしくお言葉にもある「表現の切り口」であるところの語彙や譬喩、文体の可能性を模索する体で書き散らした、多分に独り善がりな言語的構築物となっております。ご時世かこの一両年は知的刺戟にも乏しく投稿も低調ではありますが、過去に投稿した拙文にもまだ読者の方がいて下さること、感謝致しております。今後も細々と投稿して参る所存ですので、またお運び下さいますと幸甚です。
ひめことへの応援コメント
こんにちは。
『〔私訳〕かざしの姫君』を拝読し、URLから飛んで参りました。
この和歌は本当に素晴らしいですね。
まるで古典の世界から飛び出してきたように感じられます。
それでありながら、姫君が真名、菊の精が仮名を用いているところが現代的な感じもして、素敵だなと思いました。
子供みたいな感想しか書けなくてお恥ずかしいのですが、感動いたしました。
ありがとうございます。
作者からの返信
釣舟草樣
初めまして、工藤行人です。
この度は複数の拙文ご高覧下さり、★や応援、フォロー、そしてまたこちらにはコメントまで頂戴しまして誠に有り難うございました。『〔私訳〕かざしの姫君』のURLからお運び下さったとのこと、ご足労をお掛けしてしまい恐縮に存じます。
先ずは「感動」のお言葉、大変嬉しいです。必ずしも勤勉な書き手ではない私が、文量は僅かながらも初めて投稿を毎日行って完結させたのが『かざし―』だったものですから思い入れも深く、擱筆後も余韻に任せてあれやこれや思い巡らしているうちに「ひめこと」を偶成するに至った次第でして、これは予て跋文に代えて用意していた「花挿姫」のカウンターパート、姫君からの漢詩に対する菊の精からの和歌による返しといった趣向の積もりで、拙私訳に最後までお付き合い下さった読者の皆さんへの感謝を込めたオマケとして追補したものでした。
「姫君が真名、菊の精が仮名を用いているところ」、前近代ではあり得なかったでしょうけれど今なればこそのコトバのジェンダーレスの趣、これに「現代的」との御評を頂戴し、成る程と著者ながらに肺腑を衝かれた思いでおります。
ところで先だっては私の方こそ御作にお邪魔しておりながら、無言の★だけお送りしてご挨拶しておらず失礼致しました。
実は坂本忠恒さんのtwitterで拝見して釣舟草さんのことは以前から存じ上げておりまして、御作『1949年夏、黄金の骸骨を探しに』が、これは社交辞令ではなく気になっていたところでした。と言いますのは、御作への評価や感想の中に「考証」への賛辞が多く含まれていたからなのです。
私も史実の中に虚構を雑ぜた散文を幾つか書いておりますだけに、骨の折れることも多い(とは言い草、実はこれこそ大いなる愉しみであり得る)「考証」によって確定される史実(=歴史)と、小説の本体である虚構とが齟齬を来さないよう整合性を取りながら一つの「物語」を織り出すに当たっての、その両者の「按配」には強い関心を持っております。純粋に作品として拝読する愉しみとは別に、そういった「按配」の観点からも何かヒントを頂戴できるのではないか、などと厚かましいことを考えておりますこと、何とぞお聴しくださいますよう……。
そういった訳ですから、いま少し続きそうな年始の喧噪が一段落した頃合いを見計らって、落ち着いて拝読しにお邪魔できればと機を窺っておりますので、その折はどうぞ宜しくお願い致します。
初めてのお返事にもかかわらず要を得ない雑談のような冗長なご挨拶、重ね重ね失礼致しました。叶いますならば、懲りずにまたお運び下さいますと幸甚です。
東瀛への応援コメント
『不思議な世界観』の企画に参加してくださりありがとうございました。
始めて漢語調の物語を読んだので、ページ開いたとたんに圧巻されました!
そして、改めて言葉の美しさを実感させられました。
ありがとうございました。
作者からの返信
柊木よる 樣
初めまして、工藤行人です。
『不思議な世界観』というフレーズに惹かれて企画に参加させて戴きました。
この度はコメント頂戴しまして有り難うございます。
拙作、物語るよりも言葉そのものに偏執した言語的構築物、などと嘯いておりますが、意識的に過剰なルビで装飾を施した漢語調の散文を主として、他にも定型詩や和歌、漢詩、宮中言葉による戯曲や変体漢文の日記など、「ことば」を用いた実験のレポート、そして何より私として気に入りの「語彙の型録」ともなっております。時折「型録」をパラパラと捲りに遊びに来て下さいますと幸甚です。
編集済
ひめことへの応援コメント
敬愛する工藤行人様
最近、文も心も乱れがちな私にとって、工藤様の御作はまことに得難い矯正の機会になっております。(どうか、この矯正という言葉を、悪い方にはとらないでいただきたく思います)
工藤様のお使いになるような豊穣な語彙の数々を、まだ、使いこなすことのできない未熟な私ではございますが、いずれは......と、言う思いで以て日々精進しております。
今後とも、勉強させていただきたく存じます。
作者からの返信
坂本樣
この1週間、折々に応援ボタンやtwitter上でのいいね、リツイートなど本当に有り難うございました。「私訳」はお陰様で、何時もより多くの方々にご高覧を賜ることできたようです。感謝申し上げます。
さて、その「私訳」のスピンオフとなります拙歌、如何でしたでしょうか。拙文がなにがしか、坂本さんのお役に立てておりますなら倖いですが、お見受けしますにお仕事も随分とお忙しいご様子、時節過ごし易くはなりましたものの呉々もご自愛下さい。私など、颱風が齎す気圧の変化で偏頭痛が例年以上に強く出て困っておりますよ……。
拙文は「語彙の型録」を標榜して起筆したものですから、「いずれは」なんて仰らず、お目に留まった語彙の共有などお試し下さいますと、これに勝る悦びはありません……というより、抑も言語は人類の共有財産でしたね、僭越でした。ただ、その事実を忘れてしまう自分を戒めねばならないと思い乍らも、私の気に入りの語彙が、別の方の御作で新たな息吹を与えられた異なる装いで嵌め込まれて耀いているのを拝読することは、私にとってカクヨムでの私かな楽しみでもあったりしますもので……などと戯れ言をお聴し願いつつ、今後もご健筆をお祈りしております。
太陽虧への応援コメント
2012年5月21日に日本で観測された金環日食のことを思い出しました。家族で日食メガネを揃えて楽しく観測しました。日本でも話題になりましたよね。
作者からの返信
中澤樣
此方にもコメント、有り難うございます。
もう九年前になりますか。方々で遮光板や日食メガネが売り切れましたね。懐かしいです。当時、あまり電話を掛けてくることのない父が電話口で興奮気味にしていたのを思い出しました。中澤さんご一家は皆さんでご観察とは何とも微笑ましい光景、愉しいご家族の思い出になったでしょうね。
古代の人々にとっては何か特別の意味を持った神秘と畏怖の天象であったに違いありませんが、現代にあってはワクワクする天体ショー、こういう誰にも害を及ぼさないであろう平和なイベント、今こそ何かないものでしょうか。
編集済
Varianteへの応援コメント
雞蛋芲(プルメリア)や芙蓉芲(ハイビスカス)の花を思い浮かべながら、拝読致しました。
布哇(ハワイ)には旅行したことがあります。加哇(カウアイ)島をライトブルーの車で一周しました。懐かしい思い出をふと思い浮かべていました。
フランスには私自身は訪れたことはないですが、父母が旅行していますし、妹もニース方面を訪ねたことがあり、写真付きでお土産話も聞いているので、ささやかながら、レビューを書かせていただきました。もし、レビューのことで何かありましたら、率直にお伝えくださいませ。よろしくお願い致します。
作者からの返信
中澤樣
赤丸の灯ったベルマークを確認して吃驚致しました……頂戴した応援、コメント、レヴューの百花繚乱!! スクロールしても容易に見霽かすこと叶いませんでした。時しも盂蘭盆のお忙しいところ、一気に拙文ご高覧下さいまして有り難うございます。
諸々の事情が許さず、実は私はこれまで海水浴の経験がありませんで、ハワイにも残念乍ら行ったことがありません。学生時代に最後のハワイ国王、リリウオカラニ女王の伝記を読む機会がありまして、王国の旧跡など何時か巡ってみたいものだと思いつつ今に果たせず仕舞いです。
「加哇(カウアイ)島をライトブルーの車で一周」、何とお洒落な。至福の時間、最高のご気分だったことでしょうね。何故か急に思い出して、YouTubeでオリジナルラヴの「朝日のあたる道―AS TIME GOES BY―」のPVを見出しておりますよ……母がよく車の中で聴いていた曲です。
「La grande ville de l'art―芸術の都にて」へのレヴューも有り難うございます。パリの一齣を記す「手帳」、あるいはフランスに向けた「心の通関手帳」に拙文がなれておりましたら倖いです。ご家族はフランス旅行のご経験がおありなのですね。今度の五輪はパリ……チャンスでしょうか。
編集済
L'ecrinへの応援コメント
モルディヴを馬爾代夫と漢字で書くことをここで初めて知りました;;
>>青玉石(サファイア)や灰簾石(タンザナイト)や珪孔雀石(クリソコラ)といった数多の碧玉が溢れ出でて撒き散らされた様に<<
という比喩は地質学的な鉱物の歴史を遡り、地球の神秘を思わせてくれますね。
星群(アステリスム)へのロマンに加えて夜光虫(ノクチルカ)や渦鞭毛藻(ディアフォレティケス)などのプランクトンにまで言及しているこまやかさから地球に生きる生命の神秘に対する探究心が伝わり、感動致しました。
作者からの返信
中澤樣
此方にもコメント頂戴しまして有り難うございます。
「馬爾代夫」は中国語表記で、日本語では「馬地維斯」「麻代父」のようにまた別の表記があるようですので、何とぞご留意下さいませ(個人的にはどちらの字面も余り好もしくは思われないのですが……)。
モルディヴのバードゥという島の夜は、「言語の敗北」というと誤解があるかも知れませんが、何とも筆端に尽くしがたいと表する以外にない美しさです。拙文で些かなりとも「あの」美しさが伝わっていればと庶幾します……まさしく天と地の境界が無くなり、それぞれに星群(アステリスム)が耀く世界です。元少年の私ですらかくも撼かされるのですから、本物の少年少女が実際にあれを見れば、定めし生涯忘られぬどころか、良い意味で人生を「狂わせる」ほどの光景として脳裡に焼き付くことは間違いないように思われます。
久方ぶりに当拙文を読み返しまして、新たな語彙世界の鉱脈を発見したような気でおります。近いうちに新作をお目に掛けられるのではないかと存じますので、其方にもまた遊びに来て下さると嬉しうございます。
東瀛への応援コメント
滉瀁渺瀰の大海原に舸が出航することの大変さを改めて想像しました。
奈良時代に仏教を伝道するため日本への渡来を決意した鑑真和上が、5度の渡航に失敗し失明しても困難に屈せず、6度目に屋久島に到着し来日を果たした物語をふと思い出しました。
作者からの返信
中澤樣
何と、ズバリです! まさしく鑑真和上だったのですよ。因みに鑑真とはベクトルが逆になりますが、「航」字に「ゆうたり」と振られた記述の見られる『明忍律師行業曲記』の明忍は、その鑑真が伝え、然し後に廃れてしまった律宗を江戸時代初期に中興した真言僧です。そして、自らも明国に渡ろうとして果たせず、途次の対馬滞在中に35歳の若さで示寂した否運の僧でもあります。舸旅が死と隣り合わせだった時代に、好奇心と使命感、そして一寸の打算によって異国を目指した人々が私には尊く、愛おしく思えます。
ゆたすきへの応援コメント
行人さま
綾織られたカリグラフを完全に解読には至りませんが拝読いたしました。言葉の編み物の如くの味わいです。経(たていと)と緯(よこいと)の配列、引っ張る力が勁過ぎても弱過ぎても破綻してしまうバランスの世界ですね。
以下、和歌に明るくない者の感想をお許しください。
此処に歌われる言葉からは、自然界の美しさ、あるいは奥床しい心情を表現する際のリズムが、心地好く響いてまいりました。仮名表記が、「漢字と行人さまの宛てられるルビ」に変換された途端、季節や色を感じたしだいです。「心」を「裏」と読む表現で「心恋(うらごい)」という言葉がありますね。そういう美しい言葉に心恋しさをおぼえたときに繰りたい頁です。
先日は返信欄で、またもや厚かましく語彙の共有を希いましたこと、申し訳ございませんでした。以降、やはり気持ちは変わらず、あらためまして、行人さまが令和元年の夏にしたためられた「勿忘夏」より「勿忘死(メメント・モリ)」を共有させてくださいませ。令和三年のmemento(メメント) aestas(アエスタス)。そんな風情にしたいのです。
「腐敗と今際(いまは)の匂い」の季節が本格的に始まろうとしています。私たち、昨年の今ごろも偏頭痛に悩まされておりましたね。本年度は、その後、大丈夫でしょうか。何卒ご自愛ください。
ところで、偏頭痛の予兆としての喉の渇き。これは新たな「親和性」の共有でした。偏頭痛のエッセイは、将来的にエビデンスを充実させてから発表できれば……と考えております。かなり先になりそうですが、ほかでもない行人さまと少しでも「痛みの共有」はもとより「癒しの共有」が出来るような内容にしたいと、模索中です。
「きつき紅茶」を検索して見ました。水色が綺麗ですね。躰にも優しそうです。これは実験段階なのですが、珈琲と紅茶をデカフェにして、頭痛との「親和性」を計測しております。空腹対策にはミサトさんほどではございませんが、UCCミルクコーヒーというお砂糖たっぷりの珈琲も不相変、お供にしていました。
無理の利くこそ「御青」の春の特権。私も「無茶かも知れませんが、無理ではないと思います」をモットーに、何か新しいことを始めたく、それを可能な範囲で続けたいと考えて動いて(蠢いて)おります。
春の終わりは夏の始まり。季節の糸に神経が絡まらないよう、大切に過ごしたいですね。いずれ春永に。
作者からの返信
ひいな樣
ご高覧、何時も有り難うございます。
手書きであれば微妙なバランスを取っていま少し見栄えの良いカリグラムを編めたのでしょうに、已んぬるかなデジタル、というよりも畢竟するところ私の技倆によるのでしょう、殊に斜の襷掛けは已むを得ぬ「蛇行」を生じてしまいお見苦しかったかと存じます。ただ、「引っ張る力が勁過ぎても弱過ぎても破綻してしまうバランスの世界」との御評を頂戴し、まず以て文字列の大きく崩れることなくご覧頂けたのだと安堵致しました。とともに、文章と服飾に纏わる語彙や譬喩に強い親和性のあること改めて実感しております。朝未きにお邪魔しました、ひいなさんの新たなる「楽園」にて「トーションレース」という語を拝見したからでしょうか、編まれた「ゆたすき」にせよレースにせよ、力加減を過てば立ち所に歪んでしまうからこそ大切にしたい、どちらも繊細で愛おしい一つの「世界」に思われてなりません。
歌には追々、自註を施そうと思案しておりましたが、あるいは読者諸姉兄にご想像の「蔓」を存分に伸ばして戴くのでも善いのかな、と当面は控える積もりでおります(倘も気になる点おありでしたらばお知らせ下さいませ)。何より拙作を先ずは「自然界の美しさ」「奥床しい心情」のリスム、「音」として聞いて下さった後に宛字とルビから「季節や色」を感じて下さったとのこと、何時も乍らお美事な共感覚(シネスシージア)に、「そうだ和歌とは『歌』だったのだ」と気付かされました。それは当然なのですけれど、時折そのこと忘れがちになってしまいます。ひいなさんは詩歌は編まれないのでしょうか? 言葉の凝縮という観点で、ひいなさんの美的感覚は詩歌でも存分に発揮されることでしょうから。
「心恋」のように「心」を「うら」と読む語彙も、顔=面=「おもて」と対照すると妙に納得できて面白いですね。「ウラ恋」は「オモテ」に出してはいけないというニュアンスも含むのでしょう。奥床しいことです。秘すれば恋、然らば、現るれば……? さて何になりましょうか。「面従腹背」などはウラが「腹」に代替されていますけれど、よくよく考えてみますと、オモテとウラとの関係性は、例えば建前と本音のような対句にも引き写され、「実は……」という枕詞からウラ話が語られるように、概ね後者の方にこそ真実が潜むのかも知れません。
語彙共有、何なりとお使い下さいませ。さなきだにメメント・モリは人類共有の財産、私はそれに宛字しただけなのですから……。中国語の辞書で調べてみますと、メメント・モリの語釈は「勿忘爾終有一死」などと説き明かされるようです。「爾(なんじ)終(つい)に一死有るを忘る勿れ」、「爾の終わりに……」等と訓じても良さそうです。忘られぬ一夏の物語、次なる仏陀となることが約束された菩薩=未来仏たるミロクの物語の片隅に居場所を与えて下さるのならば恐悦至極に存じます。
ここ最近は、仕事の立て込み具合もありまして昼夜逆転の著しい生活を送っておりますが、「あれ」以来、偏頭痛が私を見舞うこと幸いにして今のところなく過ごせております。「天然理科少女」によるデカフェ実験の成果や、御自身の臨床体験など数々の「エビデンス」に基づく偏頭痛のエッセイがもし編まれたとしたら、それは私のみならずこれに悩む多くの人々にとっての天啓、「痛みの共有」による「癒しの共有」空間となることでしょう。
UCCと言えば、大学院生の頃、何かと執筆に詰まりがちな夏には近所の上島珈琲店へアイスコーヒーを飲みに行っていたことが懐かしく思い出されました(そのお店はもうありません)。大粒の汗を滴らせた銅製のマグカップに注がれた酸味の強いアイスコーヒーの似合う季節に、今年も愈々なろうとしていますね。珈琲のみならず「無茶」な生活も私には難しそうなので、ノンカフェインやローカフェインの水出しハーブティーでお茶を濁しつつ夏を乗り切る所存です。頑張るということ、自分にとって「頑なに張る」その限度というのは幾つになっても力加減が難しいものですけれど、強く引っ張りすぎて型崩れしないように、日々を丁寧に編み込んでいきたいものですね。それ茶。
御衣黄への応援コメント
行人さま、おはようございます。
Carpe diem(今を楽しめ)……これは勿忘死(メメント・モリ)に何処か通じるような花季の味わいが致しました。「今日」という花季を逃さず、「今」という刹那を輝かせる季節。束の間(エフェメラ)の季(とき)に咲く少年少女、その花咲(ほほえ)みが眩しい春の終わり。どうか禍々しい病や、個人的にはアレルギー症状も終わってくれますようにと祈らずにはいられません。
睡(ねむ)く塞がる目蓋がアトピーのように粉をふいてカサカサだったのですが、自炊生活で加工食品をOFFしている成果か、ずいぶん明るくなって参りました。行人さまはジンジャーエールもお手製とのこと、安心して召し上がることができますね。
自炊のお話で、「雛鳥色の出汁巻き卵」を憶えていてくださって! 貴重な蛋白源として、この春、しばしば食卓に並んでおります。行人さまの記憶力は、いつもながら冴え冴えと確かな単語を浮かび上がらせ、今に導く力を持ちますね。何か新しい世界に踏み出せそうな気持ちが湧いてきました。
「嫩やぎの葉色」という表現は、葉桜の色と同時に稀少な翠色の櫻の色。或る季節の終わりと始まりの繋がる心象を持ちました。来月あたりには、春眠を決め込んでしまったオフィーリアを、ゆるゆると起こしていこうと思います。次の季節(ステップ)への示唆が溢れる語彙世界を、ありがとうございました。今後とも行人さまの語彙世界の発展を楽しみにしております。
作者からの返信
ひいな樣
お身体、快方に向かっておられるようで何よりでした。眠られぬ夜を越えてではなく、珍しく熟寝して迎えた朝にお返事を認めております。
世は今や「若葉のころ」を迎えつつありますね。Carpe diemと勿忘死、どちらも時間に関する箴言ということでしょうけれど、さりとて言うは易く行うは難し、私も日々に継起する些事から人生の重大局面になりうるものまで、思えば随分と多くの「花季」を逃してきたようです。疎覚えなのですが、坂口安吾によれば、人生における失敗には二種類あるらしく、曰く、一つはその存在を予め認識して未然に防ぐことのできる失敗、いま一つは予め認識しており乍ら避けることのできない失敗だそうで、青春時代の失敗は概ね後者に該当するのだと……なるほど、大人たちが自らの「失敗」を踏まえて如何に言い含めようとも、青春只中に在る嫩い人々が得てして、かつての少年少女たちとやはり同じような失敗を繰り返すというのは宿命なのでしょうか。
ヰルス対策も二年目を迎えておりますけれど、個人的には一年目の教訓に学んで、自身の行動を後々「未然に防げた失敗」だったと後悔しないよう心掛けたいものですよ。
目蓋のカサカサ、特に乾燥の酷い冬場は私も時折そうなりますので何となく解ります。保湿しようと化粧水やクリームなどを念入りに塗り込んだ積もりが逆効果になっていたり、下手をするとこれらが眼に入って眼球に痛みを生じたりと、何かと難儀なところなので……眼と言えば、先週初め、昼日中の左眸に実に美事な「煌めく階段」こと閃輝暗点が現れまして、久方ぶりに偏頭痛を発しました。嫩者の表情のように目紛るしく変わる季節らしいことです。そして、雛を育てる燕を見かける機会も弥増す季節ということもあったからでしょうか、「雛鳥色の出汁巻き卵」、思い出したのかも知れません。印象的なフレーズですもんね。焦げ目の無い綺麗な色なんだろうな……私などは焼き具合の按配が難しく、何時も濃いめにメイラード反応させてしまい克ちです。器具が良くないのかな?(いや、器具の所為にしては不可ませんね 笑)
「葉桜の色と同時に稀少な翠色の櫻の色」から「或る季節の終わりと始まりの繋がる心象」をイメージして下さいました。花が終わった後の翠と花そのものの翠の共演は、確かに「終わりと始まりの繋がる」まさに間(あはい)、実はシームレスに季節のバトンを渡す自然の密やかな営みに思えたこともあり、拙文「御衣黄」としてものしてみた次第です。櫻の花季を逃しても御衣黄の花季を目の当たりにできた、何かが終わっても何かが始まっているのだということを強く再認識できれば、実はいつ何時であっても常に何かの「花季」であると捉える考え方へ繋げていけそうです(輓近、自分が随分と楽観的で驚きます)。「何か新しい世界に踏み出せそうな気持ち」をひいなさんがお持ち下さったのだとしたら、大変嬉しいです。
そして竟に「オフィーリアのめざめ」……その時の来ること、もう少し続くであろう春永にお待ち致しております。にしても、揺蕩う彼女が一命を取り留めてその後も生きていったとしたら如何なっていたでしょうね。ヴェーデキントの『春のめざめ』に登場する思春期の少年少女たちのように、次は「妊娠」を巡る大人たちのエゴによって又しても悲劇に見舞われないとも限りませんが……朝からするお話ではないかも知れません。散歩に行って参ります。それぢゃ。
瘴氛への応援コメント
現在大いに思い当たる節のある内容ですが、難読語と漢文調で密かに示されている点で、非常に新鮮に映りました。数年後に読み返したら、(失礼ながら)ただの意味不明な文字列に見えてしまうのか、それとも教訓譚としてさらに深い印象を受けるか気になるところです。一目で読み取りきれないことで、読み手の心理まで映されているような作品だと思います。
作者からの返信
都途回路 樣
工藤行人です。初めまして。
この度は拙文ご笑覧下さり、フォローとコメントを有り難うございます。
また、頂戴しましたコメントへの返信の形で恐縮ながら、開催中のご企画「難解な作品」に参加させて戴いておりますこと、またそのこともあってか、恐らくそこから経由して拙文にご興味をお持ち下さる方が増えておりますこと、遅れ馳せながら併せて御礼申し上げます。
ご指摘のようにこの「瘴氛」、かかる時代的文脈なればこそ意味を汲み取って戴けるのであって、数年後に読み返した時、何のことやらさっぱりわからない、という情況は大いにありそうですね……願わくは、その時々で何らかの「意味」付けを読者諸氏に施して戴ければこれに勝る悦びはありません。そのこととも関連するのですが「一目で読み取りきれないことで、読み手の心理まで映されているような作品」との御評、一等嬉しかったです。といいますのも、この「豊穣なる語彙世界」のシリーズは、何らかの意味・内容・メッセージを持つ物語性を縮退させる代わりに言葉や文字そのものの表徴や図像、シンボリズムに焦点化して、伝えたい「内容」よりも使いたい「言葉」を優先させた「語彙の型録」を標榜しておりまして、極論すれば「中身」が無に等しいため、解釈や意味づけを読者諸氏に委ねてしまう、開き直った(ある意味で不遜な)文章を目指すところに起筆の契機があったからなのです。「意味」ではなく「イメージ」の言語的構築物、その時々の「読み手の心理」を投影して如何様にも反射させるプリズムのような言語的構築物でありたいものだと願っておりますが、目論見、奏功しておりましたでしょうか?
ところで「都途回路」さんのお名前、面白いですね。「大穹窿の半天に」で始まる当拙文に「toto caelo」さんからコメントを頂戴する廻り合わせ、こういった「符合」といいますか、言葉遊び(と申し上げて大丈夫でしょうか?)、個人的に大変好もしく思われます。漢字表記では「都(すべ)ての途は回路」、一度通ったきり二度と通ることのない途よりも、同じ途の回路を何度も歩いてなぞっていくことで気付ける愉しみもあるかもしれません。文章もそうありたいものです。
勤勉な書き手ではございませんが、今後とも折々にお運び下さいますと幸甚です。私も近々に御作拝読しに伺います。
初めましてで長文の返信を失礼致しました。すでにお気付きかも知れませんが、私、コメントや返信が長いのです……ご容赦下さいませ。
桃花嬢への応援コメント
行人さま
日曜と混濁する月曜未明、如何お過ごしでしょうか。
私は一度、眠りに就いて、また目覚めてパソコンを開きました。
花粉シーズンの只中、あらためて『桃花嬢』を拝読いたしました。
悪戯な「花粉(ポレン)」というクロウカードが存在するかのような思いになりましたのは「急々如律令」の所為でしょう。小狼君の詠唱に「休息万命」をプラスしますと春に相応な趣きになりますね。嚔で行人さまの魂が逃げていきませんように。
「花粉(ポレン)」が、さくらちゃんの魔力によって「桃花嬢(ミルト)」に変化して、感慨という御土産を私の心に置いて行ったかのような語彙世界でした。いつも以上に目を惹く流美が沢山です。臥榻(ベッド)、遥控器(リモコン)、蕾絲(レエス)、窓帘(カアテン)、生成色(エクルベエジユ)、受像機(テレヰジヨン)、眩輝液晶(グレアパネル)……眺めているだけで、わくわくとする言の葉の並びでした。行人さまの語彙のバリエーションに、あらためて感服です。
ところで「めばちこ」が「メハジケ(目罅)」の転訛とは興味深く、罅割れたイーイーのすみれ色の双瞳に思いを致し、私の症状が其処まで重くないことを喜んでおります。しかしながら麦粒腫と眼瞼炎が重なりまして、右目の睫の一部が欠落しておりました。ちょっと衝撃なのは、あるべき窓帘を失った窓辺のように、双瞳に入ってくる光の量を微調整できていないと感じる不具合です。まぁ半年、一年むこうには再生するでありましょう……と気楽に、ゆうたり構えております。
行人さまも良き春を穏やかにお過ごしになられますよう。乙゛/〵叉。
作者からの返信
ひいな樣
その後、お具合は如何でしょうか?
珍しく、土曜と日曜の「あはい」にお返事を差し上げております。この度もお返事大変遅くなってしまいまして何時も乍ら恐縮です。昨年度からのオシゴトが図らずも年度を跨いでしまい漸く本日が久々の休暇となりまして、お午から転た寝し乍ら煮込み叉焼など作ったりしてゆうたりしておりましたが、肝心の叉焼よりも煮込んだ後の出汁で作ったスープの方が美味しく感じられたのは、疲労によるもの、加齢によるものどちらでしょうか……幸いなることに今年は今以て咽喉痛や嚔に悩まされていないのが救いです。このまま遣り過ごせると善いのですが。
何時しか桃花の季節も過ぎ去って、今や葉桜のモザイクが目に付くようです。今年のお花見も一人でささやかに、写真に収めるくらいで終わってしまいました。お花見、なさいましたか? 思えば語彙世界で「あうくわ」なる和歌をご披露してから早一年、世情は然程変わっておりませんが、それでもそれなりに心穏やかに暮らしていきたいものです。
「花粉(ポレン)」のクロウカードがあれば、敵キャラには定めし手強い代物になることでしょう。何せ、くっさめ、くっさめ、戦意喪失……平和的でもあるようでいて些か陰湿(笑)でもあるようなそのカード、とはいえ恐らくクドウカードという紛い物、似て非なるものでございますからご注意下さい。小狼君の「急々如律令」、久しく忘れておりました。思い出すとは忘るるか、思い出さずや忘れねば……「休息万命」は嚔のみならず、休養には必須の呪文としても有用ですね。
さて「桃花嬢(ミルト)」で用いましたルビ、如何にも中国語をそのまま使ってしまった感もありまして、どうかな、と思っておりましたが、某製パン企業ではありませんが「春のルビ祭り」ということでご容赦下さいませ。
陽光が強くなる夏までには未だ些か時がありますから、ひいなさんの眉に「こもれる」光の調節、なるべく早くに元通りとなりますようお祈りしております。それぢや。
追伸
カクヨムコンの中間選考結果にお名前を見付けました。遅れ馳せ乍ら、おめでとうございます!
細愛男への応援コメント
行人さま、こんばんは。
十五日。月齢は満月を示しておりますね。
新たなる黼黻の更新、有難等御座居〼。
このたび、四月一日くんのイメージで脳内補完計画を実行いたしました(◍•ᴗ•◍)ゝ 美形です! 眼鏡萌えです!!
暴走モードから通常運転に戻りましょう。冒頭は宮澤賢治先生の「Ora Orade Shitori egumo」のような、或いは長野まゆみ先生がテレヴィジョンの街中に残した暗号のような、其処から発展する文字と言う755粒の星の煌めき。それが「群青天鵞絨の天幕」ならぬ「花紺青の昊」に縫い取られていますね。零を超えて壱の位置へ正に、そう成らんとする月へ。睦月の朔望と細愛男という異称、大変いとおしく感じられました。繊弱なる月牙に噛み殺されたいと希求する日が拙宅に居ります。そろそろ戻って交信ではなく更新予約をすると致しましょう。乙゛/〵叉。おやすみなさいませm(__)m
作者からの返信
ひいな樣
細愛男、早速にご高覧下さいまして有り難うございます。
仰るように本日十五日は望日、旧暦であれば月は満月のはず……だのに、実際の月齢は1.9、今にも折れてしまいそうな月牙、三日月です。萌したばかりの新しい月を愛でるべきなのでしょうが、何やら心許なげにも見えるのは、或いは御作の世界に浸っている最中ということの影響もあるやも知れません。日と月の摂理のズレというものは、こういった暦法にこそ見出されるものですね。
さて、先日は「せいぜい」四月一日君尋あたり、などと、よくよく見直してみましたら、確かにワタヌキ君も美形でしたか……共通点は矢張り眼鏡しかなく、大変僭越な物言いとなりまして失礼致しました。詐欺事件の発生を察知して、これ又しても眼鏡の少年名探偵が駆けつけることになりましょう。
明治期には石川啄木もローマ字日記をつけていたようですけれど、文字ではなく音声としての日本語の微妙な発音は「Ora Orade Shitori egumo」の「egumo」の「e」のように、書き言葉としての表記を度外視した、音の転写としての表記の方が、音読した時に実際の音に近くなるのかも知れませんね。「American,めりけん」「Russia,おろしや」など、表記に捉われない方が実際の音に近い。少なくとも「いぐも」と書いてこれを音読しても、恐らく「い」と「え」を同時に発音するような「e」の音のニュアンスは伝わりづらいように思われます。因みに、冒頭の「Xuxei ――」は近世初期にキリスト教の宣教師たちが著した『天草版金句集』からの拝借です。戦国期の日葡辞書などもそうですが、外国人の手に成り、かつ異国の文字なればこそ、第三者の感覚で当時の日本語の発音を確と書き留めてくれていると思われる貴重な資料です。
「群青天鵞絨の天幕」、ブリキ罐ですね。長野先生お得意の「紺青(プルシアン)」を拝借しようと思いつつ、「花紺青(スマルト)」に染め直してみましたがお気に召しましたでしょうか? 日のヒメと細愛男君にも後刻、お会いしに伺います。それぢや。
するすみへの応援コメント
工藤様、ご無沙汰しております。こんばんは。お元気で、お過ごしでしょうか。
「するすみ」、何度、拝読しても飽きません。こちらは工藤様が蝶ネクタイ型の変声器を用いられた結果でしょうか。小宅時継氏と秋山枯樹氏の対談、興味深いです。亡原行人氏のお気持ちも非常に分かるところであります。そう、独りになりたいときがあるんですよね。
漢字の宛て方を変えることで、大きく分けて二通りの解釈が生まれ、其処から更に派生する想いがある。日本語の可能性の深さ、多義的な訳を堪能させていただきました。
さて、私事で恐縮ですが、近日、過去作の大半を非公開に致します。それにともない、工藤様に執筆して戴いた珠玉のレビューが画面から消えるかと思うのですが、作品の削除、退会による変動ではございませんので、ご安心ください。オフィーリアは冬眠します。春には復帰しますので、また、ゆっくりと往復書簡の続きが叶いましたら、さいわいです。ちなみに十二月一日に新作を公開予定です。新作を立ち位置に頑張ってみようかと思っております。その後は、確乎たるプロットよりも流美あふれる世界に溺れていとうございますね。乙゛/〵叉。
作者からの返信
宵澤樣
お久し振りでございます。引越しはその前後も含めて、と申しますが、「するすみ」の引越しに感けて一ヶ月半近くもご無沙汰してしまいました。まだ家具などで揃わないものもあり、何とか今年中には調えようなどと悠長に考えている裡にもう師走に……正しくtempus fugit(時は飛ぶ)ですね。
頂戴しましたコメント、勝手乍ら、またカクヨムでの活動(と申しましても、相変わらず勤勉とは程遠いものとなりましょうが)を再開する縁とさせて戴こうと存じます。何度も何度も拙文、お読み下さっていることと併せて御礼申し上げます。
にしましても、お邪魔せぬ間に奏鳴曲は伸び伸びと逞しく蔓を伸ばしておられたのですね。十二月からは御新作も公開されるとのこと、そして既出の御作の大半を非公開になさるとのこともお知らせ下さいまして、こちらも有り難うございました。大変驚きましたが、「冬眠」ということでもありますから、オフィーリアは「少女」の心の硝子函の裡に大切に仕舞われて、春に二度、その姿を見せて下さるのでしょう。いづれ春永に……先週廿五日で没後五十年の正日を迎えた「麒麟児の弟殿」が好んだ書簡の書留文言ですが、暫しのお別れの言葉としてピッタリのように思われます。
とはいえ「冬眠」前に奏鳴曲だけは、と、先刻、ササオカさんの独白を拝読しました。コメントは後程させて戴ければと存じます(何やら閉店の決まった飲食店に推参して名残惜しむ常連客の如くですね)。奏鳴曲は何としても本日中に拝読しようと思っておりますので、非公開までいま暫し、いま暫しご猶予の程を!!
まつむしへの応援コメント
工藤様、更新ありがとうございますm(__)m
松と待つ
鳴くと泣く
古・路・鳴! お美事です✨✨
これぞ「贅肉」を削ぎ落とした機能美。俳句とは、時に暗号のように読めるものですね!
コロナ禍という現代の世相を取り入れつつ、日本古来の情緒を失わない世界でございました。工藤様の隠れ処あるいは秘密基地には、綺麗な表現と語彙が大事に蔵われているかのようで、素足で踏み込むことも躊躇われますが、湯浴み後に来てしまいました。
そして先程は拙宅の郵便受けに書簡を届けて頂きまして、誠に有難うございました。嬉しく返信させて頂きますm(__)m
作者からの返信
宵澤樣
お湯上がりにおいで下さっていたとのこと、此度ご高覧下さったのが俳句で良かったです。これが長々しい夜長のエッセイでしたら御身の湯冷めを心配するところでした……。
俳句は『豊穣――』で初めての公開なのですが、やはり字数が限られる分、難しいですね。本当は「のちくゆ」や「あなたへ」のように沓冠(くつかむり)の技法を使いたかったのですが、折句と掛詞が精一杯でした。国語の授業で折句や沓冠を用いた詠歌の授業をやって下さったら、定めし少年少女達に面白がられるのではないかと思ひ乍ら作っておりました(単に自分が愉しんでいただけ)。
「綺麗な表現と語彙が大事に蔵われているかのよう」だと仰って下さった我が「隠れ処」ですが。とてもとてもそのような代物ではありませんで、「大事に」どころか「ぞんざいに」集めるだけ集め、囲うだけ囲ってしまっておりますため、まだ出番のない語彙達には申し訳ないところです。既に何語か御作の世界にお連れ下さっていますように、今後とも宜しく「お拾い上げ」のこと、宜しくお願い申し上げます。ほんぢや。
栗棘蓬への応援コメント
工藤様、こんばんは。またもや麦粒腫を拵えて、ひそかにひいひい言っているひいなです。今夜は『栗棘蓬』にお邪魔しております。
「彼女の諸手(もろて)を漬(ひた)す琺瑯(ほうろう)の大盥(おおだらい)の裡(うち)は皓(しろ)いから、小刀(ちしゃがたな)で創(きずつ)けた手頸(たなくび)より洩(も)れ出(い)づる赤血(せっけつ)は愈(いよよ)鮮(あざ)らかなる赫赫(あかあか)とした靉靆(たなび)きを水中(みななか)に著(あら)わしていたのである」……なんと圧倒的な美文!! 膚色を「琺瑯(ほうろう)の皓(しろ)」と表されるところ、「琺瑯」は「白磁」と同じく「釉薬をかけた磁器」ですね。この無機質を、嫩き血の巡る身体を蔽う皮膚の比喩に使われる感覚、うっとりです。
「彼岸(ひがん)と此岸(しがん)」!! つい最近、拙作で使っておりました。驚きの既視感。
「どうしてものみ込むことのできないもの。受け入れたり納得したりすることのできないもの」を「栗棘蓬」と言うのですね。本当に偶然ですが、拙作の少女の心にも棘が刺さっており、それは「どうしてものみ込むことのできないもの」であり「受け入れたり納得したりすることのできないもの」だったのだと、しみじみ思いました。嗚呼、僭越ながら共通項を多々見出し、たいへん失礼しました。
宮中猫の微笑ましい場面、是非、物語という形で綾織って下さいませ! 仔犬のワルツならぬ仔猫のワルツを是非❤ 実際にショパンのピアノ曲で「仔猫のワルツ」と呼ばれているものがあり、それは猫の跳躍力を表現するかのような音域の広さです。一方「仔犬のワルツ」は毛糸玉が床を転がるように比較的狭い音域をぐるぐる廻るのです。難易度は猫が上です。工藤様のお書きになられる美猫の姿を拝見できる日を楽しみにしております。
「鴉青色」ならびに「レモングラスとカモミールのブレンドティー」を、第三奏鳴曲で登場させたく思っております。最近、工藤様のコメントは最早レビュー!と、またまた或る読者様にお褒めいただきました(私の頁ではないところで)。本当に本編以上に工藤様のコメントが素敵なのです。しかし「研ぎ澄まされ過ぎていよいよ自傷する精神」に工藤様が苦しめられませんよう、一番に祈ります。そんなわけで往復書簡は、ゆうたりとしたペースで結構ですので、どうか執筆と読書と休養の時間を優先なさってくださいね。そう言いつつ私のコメントは、こんな感じでスミマセン。しかも先日は工藤様を「名探偵」などと呼びまして、無礼を致しました。しかし江戸川コナンくん、ラヴリィですね(^^♪ ぎゅっとしたいです。
さて、私はジョバンニ・ガブリエーリのナンバーを予習しております。工藤様の御作品をふわふわと読ませていただくのは止して、堅実に足跡を刻みたく予習していたのです。ではまた、目蓋の腫れが引き次第、そちらの物語にも、お伺いしたく思います。宜しくお願い致します。
作者からの返信
宵澤樣
『栗棘蓬』の姫(ひい)様は大変なことになっておりましたが、宵澤のひい様も四方や先度に重ねての御目病みとは……中々に強太い「種」ですね。一日も早いご快癒をお祈り申し上げます(或いは、もう落ち着いておられると善いのですが)。
姫様の膚の皓、琺瑯の皓、そしてそれらの皓とコントラストを成す姫様の赤血……又しても「美文」としてお褒め下さり何時も何時も有り難うございます。白皙の譬喩は思い付く毎に書き溜めておくのですが、御作で「白磁人形(ビスクドール)」を拝読し、成る程と唸らされた次第です(その節も、懲りずに冗長なコメントで失礼致しました……)。現段階では皓の下に血脉の仄かな青い茎模様まで透かすような「雪花石膏(アラバスタ)」に譬えるのが気に入っておりまして、実は別作にて美少年の白皙を表する譬喩として用いております(こういう性向はMetabolic SyndromeならぬMetaphoric Syndrome、譬喩症候群とでも名指すべきかも知れませんね)。我が語彙の海をゆうたりと、然し着実に踏破される名探検家には直ぐに採集されて仕舞うこと必定です。恐らく語彙・譬喩たちもそれを俟っていることでしょう。
私も、此方こそ僭越乍ら、語彙の共有のみならず嗜好や美意識にも宵澤さんとの少なからぬ共通項を予て見出しております。共有・共通している背景要素が多いと、自ずと嗜好ならぬ思考まで似通って来て仕舞うのでしょうか……(笑)
宮中猫の場面、早速にchopinの「仔猫のワルツ」をブーニンの演奏(速いです!)で聞き乍ら一つのシーンとして物してみました。何かが始まりそうな、聞きようによってはやや不穏な冒頭部を経て、侍童との追い掛けっこが始まったかと思えば、何時の間にか侍童の手の届かぬ安全な高所にでも辿り着いたのか、勝ち誇ったように伸びやかに、優雅な四肢の動きを見せつける猫。猫は長毛種でなく、娜やかで俊敏な短毛種のシャム猫のイメージ。その闖入してきた猫に託けて猫談議を始める貴人達。何故、シャムちゃんの顔は黒いのかについて「好敵手」の侍童が所思を述べ、国母陛下を花笑みさせて褒美を頂戴しますが、その最中に猫が降りて来てまた追い掛けっこが始まる、といったようなイメージでした。語彙の海に浮かぶ氷山の如く未だ漂っておりますが、「貴婦人、最後の恋」の第三章(現在、第二章途中です……)に盛り込む算段となりそうです。うーん、然し未だ未だ随分と先になりそうな予感がします。お目に掛けられるように何とか出来ますかどうか……此方もゆうたりとお見守り下さればと存じます。
「鴉青色」「レモングラスとカモミールのブレンドティー」、次なる奏鳴曲で拝見できるのですね。御作の茶話のシーンは毎度愉しみにしておりますが、今度はどのように登場するのでしょうか。
私のあのような長文のコメントを、宵澤さん以外にも読んで下さるのみかお褒め下さる方がおられるのですね……有り難くも面映ゆい、嬉しい、何やら複雑な心境です。にしても、仰る通り確かにあの文量ですとレビューの方が適切なのでしょうか。時々、適量適切な皆さんのコメントが並んでいるのを拝見しますと、ソーシャル・ディスタンスを取って整然と並ぶ列にいきなり大量の荷物を抱えた迷惑な客(=私)が割り込んでいる風にも見えて来て笑ってしまうのです(相済みません)。お褒めのお言葉を頂戴しますと益々と調子に乗って仕舞いそうですが、試しに次に書き込ませて戴くコメントは、一度に纏めてでなく一話ずつに分散してみますね(とはいえこの場合でも、トータルすると逆に更に字数が増える可能性もあるかもしれず、気が抜けません……)。
「研ぎ澄まされ過ぎていよいよ自傷する精神」、お心遣い下さり痛み入ります。幸いなことに来月から年度の下半期が始まることもあってか、少しく身辺が慌ただしく、自傷するほど精神を研ぎ澄ませる時間がないのは僥倖と言うべきでしょうか。往復書簡、いつも此方からのお返事が遅くなりがちで恐縮ですが、ゆうたりとお付き合い下さいませ。宵澤さんこそ、呉々もご無理なさいませんように。
さて、一昨日の金曜日にもコナン君の映画がテレビ放送されていましたね。何時かも申し上げました通り、何分、ラヴリィなコナン君とはアベコベの「見た目はオトナ、頭脳はコドモ」の私です。宵澤さんが我が語彙世界の名探検家にして語彙商店の上得意様であるのに肖って(というのも妙ですが)、私も宵ザ・ワールドの「名探偵」になれますよう今後とも精進致します。ただ「真実は何時も一つ!」と豪語する明晰なコナン君とは異なり、「真実はいつも多様!」と些か考えが緩い私などが彼のような「名探偵」になれますかどうか……良い子が寝ている時間に良からぬオトナの妄想妄言を失礼致しました。それぢゃ。
追伸:
「飽かぬは―」、ご高覧下さったのですね。ガブリエーリのカンツォンをBGMになど不遜にも程があると諸方からお叱りを受けそうですが、何とかご海容戴いて、日陰で寂然と育んで生き存えさせて頂きたいものです。彼方も一応は物語の筋を拵えましたが、基本的には「語彙世界」と同様に、語彙と譬喩をお楽しみ下されば本望でございます。彼方に頂戴しましたコメントへのお返事はまた後刻改めまして。
毘藍風への応援コメント
こんにちは。工藤様の語彙世界を訪れますと、ジャネーの法則に囚われることのない時代に戻れるような、不思議な時間の中に止まっていられるような気がします。少年少女の真っ白な時間、私の場合、長野先生の語彙の海に浸り切っていた良き時代を思い出し、安堵するのです。嫩さの象徴たる「鴉青色」という表現、助役が気に入りまして、ゆくゆくは少年少女透明推進委員会による「補完」にて、再びの共有をお許し頂きたく思います。まだまだ先のことになりますが、よろしくお願い致します。
このたび『毘藍風』を拝読しまして、「独語(ひとりご)ちた」という表現が、とても心に残りました。こちらも「木洩れ陽」同様「独語」あるいは「独り言」の動詞化。味わい深いですね。颶風一過の碧天が眩しくなってまいりましたが、被害に遭われず御無事でしょうか? 気圧に頭痛を招かれることなく過ごされましたでしょうか?
宵ザ・ワールドの櫺を敲いてくださる工藤様もまたカクヨムの交流の中で、読者様からのコメントやレビューを切っ掛けに新発見を重ねておられたのですね!!! 健康的な精神賦活、ありがたいことですね。「往復書簡」は工藤様の物語の執筆の妨げにならない程度で、こちらこそ、お手柔らかにお願い致します。
「宮中大礼裳」は、さすがの流美でございました。優美で豪奢な感じが伝わりますものね! ガラホというものがあるのなら、私のスマホも類似の種類かもしれません。
鬼太郎の「すねこすり」の回は本当に気の毒な内容でしたね。「虹の橋」と「吉野弘幸」さんという一致には私も驚きでした。枕返しの回、検索してくださったのですね。わざわざスミマセン。おやじ様の実体化も6期が初だったかもしれませんね。
「To Omitakara(僕の大御宝へ)」だなんて、嬉しい変換です。ラルム君は第4カノンぐらいに登場するかと思います。『人形への小夜曲』で端折ってしまった少女と少年の交流を今月いっぱい書いて、来月は、また違う語り手が登場予定です。
曹達水の季節と熱いショコラの季節。そのあいだには、レモングラスの紅茶でしょうか。レモングラスとカモミールブレンドという御茶も素敵。いつか作品に鏤めたく思っています。工藤様のコメントは、それが既に作品の様相で現出していると感じ、工藤様のコメントありきで補完される『奏鳴曲』に成りそうな予感大です。それは工藤様が狭量ぢゃない器で言葉を共有してくださるからですね……いつもありがとうございますm(__)m
作者からの返信
宵澤樣
この度も語彙世界にお運び下さり有り難うございます。「往復書簡」、いつも此方からのお返事が遅れがちで恐縮しているところですが、気長にお付き合い下さいますよう伏してお願い申し上げます。
さて、拙文ご高覧戴きそのようにお感じ下さるのも、偏に悠久の時に羽包まれて今なお耀きを喪わない「語彙の力」によるものなのでしょう。「鴉青色」の髪は嫩者の中にも絶滅危惧種となって久しいようですから、是非とも助役さんにお持ち帰り戴いて、御作の末嫩(うつくし)き美の世界に鮮やかに刻印して下さいませ。
「独語(ひとりご)ちた」という表現、ご高察の通り名詞からの動詞化、古語辞典の類でも「ひとりごつ」で立項されているようで、現代では「独り言つ」の変換の方が一般的のようですね。どうやら「こと(言)」と同音の「こと(事)」のバージョンもあるらしく、〈祭り事→まつりごつ〉〈謀り事→はかりごつ〉などとなるようです。「言・事(こと)」という名詞が、終止形に概ねウ段音を持つ動詞に派生して「言つ」「事つ」になるというのが語誌的通説のようですが、詳細は必ずしも明らかでないとされていますから、門外漢の私などは「言・事(こと)」の直後に「する」を付けて「独り言する」のように複合動詞化し、発音した時にこれが約まって成立したと嘯かれる方が納得しやすいようにも思われます。「独り言する」を口にしてみると「ひとりごつる」と聞こえなくもありませんから(とはいえ、先学には最大限の敬意を!)。
読者の方々から頂戴するご感想やご指摘には本当に気付かされてばかりです。感動的なくらいに……そして「物語り」という営為に真摯に向き合って創意工夫されている皆さんの御作を拝読しておりますと、語彙信奉者の私などでもついつい色気を出して有意な「物語り」をしたくなってしまいそうです。
「宮中大礼裳」、お褒めのお言葉も頂戴してしまいましたし、折角ですから、まだ何回か登場させたいと目論んでおります。曳裾に纏わり付いて離れない「すねこすり」ならぬ「すそこすり」のような宮中猫(!)がいて、「こら! 国母陛下の御裾に何をするか!」と見咎めた御裾捧持の侍童と追いかけっこ……などという微笑ましい場面を拵えたくなります。何時か何処かに盛り込んでみたいところです。
>おやじ様の実体化も6期が初だったかもしれませんね。
おやじ様の実体化、確かに正面からの姿は見た記憶がありません……初だったのでしょうか。
たからちゃんと、ラルム君、『人形への小夜曲』とは別視点から語られるボーイ・ミーツ・ガールの経緯も楽しみです。第4カノンをアップなさる頃には拝読しに伺えればと存じます。最近は自宅でカフェオレを作ることが多いのですが、恐らく今後も登場するのでしょう、宵ザ・ワールドには欠かせない「お茶」の時間、次に用意されている飲み物とお菓子も密かに気になるところです。レモングラスのお茶が登場する日も近いのでしょうか?
私のコメントが「作品」だなんて、過分なお言葉を頂戴してしまいました。然し何と言ってもそれは、肥沃な「土」の然らしめた結果として「あらぬ方向に伸びる幻想の蔓」が顕れたものに他なりません。そのままにそれをお赦し下さるお優しさに何時も乍らに甘えてしまっておりますが……。
颶風一過、今回は一日だけ後頭部を冷やして横になった日があった程度で済みました。何時もお気遣い下さり有り難うございます。宵澤さんも引き続きご自愛の上お過ごし下さいますよう。それざゃ。
泡沫人への応援コメント
工藤様、こんばんは。今宵は語彙世界にお邪魔しております。
『泡沫人』は繰り返し用いられる「屡」が印象的です。蟠りである「痼疾」を此処に用いておられたのですね! 良い時代を振り返る女性(にょしょう)の泡沫の夢。小野小町の「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」のように、時の経過は人の姿を時として残酷に変えてゆくものですね。嫩き日の美しさと幸福の象徴であるかのような「鴉青(からすば)色」という色彩が好みです。黝い御髪を想います。
『貴婦人、最後の恋』は、今から4年前にプロットを仕上げておられたのですね。プロットの完成後、それに相応しい語彙が見付からない状態……磨かれた食器のみが現存する宴の席のようですね。伝わってくる表現でした。美しい型に流されるジェリィは慎重であるべきですものね。
実は私が完結済みで発表している小説の大半も、4年前には出来上がっておりました。それらを発表しても何も変わらないであろう、小説を書くことで変わる世界などないと期待度ゼロでカクヨムに投稿したのですが、気付いたのです。頂戴する御意見・御感想から変わる世界もあるということに。未完の『オフィーリア奏鳴曲』ならびに『人形への小夜曲』にも、工藤様と交流できたが故の想いの葉が、言の葉に結実しています。もはや『華麗なる往復書簡』を目指して創作を続けたいような気持ちです……先達ては、あたたかい御評価も賜りまして、有難うございました。評論家よりも三島由紀夫氏に褒められて喜ぶ森茉莉嬢のような気持ちとは、このような喜びに他なりませんね。
「マント・ド・クール」ですが、私の所持する電子辞書には「洋式大礼服」と記されていました。工藤様は「女性大礼服」が、お気に入りではなかったのですね。私なら、どう表わすだろうかと考えましたところ「貴婦人式長衣」や「貴婦人風長衣」など思い浮かんだものの……まだ華やかさに欠けるかもしれません。また工藤様のtwitterも拝見して考えておきますね(愛用のPCのエクスプローラがtwitter非対応。スマホも旧式すぎて様々表示できません。不自由ですが、私の脳は大量の情報処理が少々苦手な器の小ささですので、逆に丁度いいかも!と旧式の実機を愛しております)。
すねこすりの置物、私も欲しいと思ったこと、ありました! ドンピシャなものに巡り逢えないのですよね。工藤様も六期鬼太郎を!? 私、アニメは六期しか観ていないのですけれど、本当に日本のアニメーション技術は凄いと思います。鬼太郎が一反木綿に乗って戦うシーンはスピーディで驚きました。あと、すねこすりの回の絶妙な回想シーンには感極まってしまいました。枕返しの回も好きです。目玉の親父様が実体化して銀髪の青年に成って息子を守るシーンを何度も観てしまって困ります。親父様は生前、そんなにもハンサムでしたか!?とドンピシャだったのです。奇しくも虹の橋が出て来ました(脚本は吉野弘幸さんという御方でした)。
気付けば長話をスミマセンでした。今後とも宜しくお願いしますm(__)m
追伸:委員会への御理解・御協力を賜りまして誠に有難うございます!! ※私のコメント返信が常々、選挙風で(?)恥ずかしゅう……白手袋の工藤様のウグイス嬢になら成ってもいいのですけれど。でハ又。
作者からの返信
宵澤樣
今晩は。「屡」の字と音の言葉遊びに目を留めて下さり、また「痼疾」のこと、以前の私のコメントまで覚えていて下さったのですね……ご来訪と合わせて何時も有り難うございます。小野小町の和歌は本当に物悲しいですが、時間と老いの問題は今も昔も変わらず人々を悩ませるものなのでしょうね。そしていよいよと、ジャネーの法則に従って、歳経れば時間の感じ方もどんどん早くなっていくのでしょう。ゆえにこそ、逆に少年少女の僅か数年間が如何に素晴らしいものであるか、未だ何色にも染まりおらぬ彼彼女らの、染色していない、嫩さの象徴たる「鴉青色」の髪を見るだに羨ましく思われるところです(これこそ、少年少女透明推進委員会による「補完」の対象ではありますまいか)。
語彙の力に頼り切るだけの自らの怠惰を顧みながら、今後も宵澤さんや他の方の紡がれる物語に導かれて参りたいと存じます。そして、何と嬉しいお言葉!!! 取り留めも無く散らした思葉が宵ザ・ワールドの櫺を然様に敲いておりましたとは……。実は私自身も読者の方から頂戴するコメントやレビューに気付かせて戴くこと多く、また拙文に新たな意味づけをして下さる方までいらして、折々にワクワクしております。拙文を公開していなければこういったことは無かったでしょうし、何事か新しい「発見」をすることが愈愈と少なくなってしまっている日常生活の中で、カクヨムでのそういった「発見」がどれほど精神に活力を与えて下さっているか知れません。そして何より、唯一無二の読みを強制することのない、何通りもの読み、解釈可能性が開かれているところにカク・ヨムという「文学」の営みの愉悦を見るのです。「往復書簡」、ぜひ今後ともお手柔らかにお願い申し上げます。もしかすると、拙文に費やした字数よりも「書簡」に費やす字数の方が多くなっていたりして……やはり誰にともなく独り言つるよりも、具体的な何方かに向けて書くからこそ書きやすいのかもしれませんね。あるいは「物語」もそうして書くと良いのでしょうか?
「マント・ド・クール」の件、曳裾だけに何やらお引き込みしてしまいました……。宵澤語訳では「貴婦人式長衣」「貴婦人風長衣」、成る程、やはりあの特徴的な曳裾の形態を最大限反映させたいところですよね。実は良い機会を頂戴したと思いまして、私も少し気合いを入れて改めて考えてみたのです。どうやら中国語でも「女用宮中大礼服」などのように翻訳されるようなのですが、ネックとなる(と私が勝手に思い込んでいる)のは、まさにこの「女用」、私も「女性大礼服」に宛てたように「女性(が着用する)」を直接表する字句が入ることの妥当性なのです。【manteau de cour】は直訳すると「宮中(宮廷)のマント(外套)」になり、確かに女性が着用するという事実はあるものの、原語に「女性」を意味する字句は含まれておりませんからそれを訳語として宛てて良いものかと。その一方で、manteau(外套、マント)とcour(宮中、宮廷)はぜひ盛り込みたいところ……ということで私としましては、あの腰元辺りから伸びるmanteauの曳裾を十二単の「裳」に見立てた「宮中大礼裳」を暫定的に案出するに至りました。こうしますと、裳=女性用の含意によって、直接「女性」を意味する字句を入れる必要がなくなります。先程、該部表記をそのように更新してみましたが、やはり「ペンキ塗り立て」のようで、いま少し時間が経って後、心惹かれる「宵澤語訳」も参考に再検討してみたいと存じます。
(ところで私などは未だにガラケー、正確にはガラホだそうですが、スマホとは縁遠い生活を送っております。語彙のみならず、動画の「押し売り」まで失礼致しました……。)
鬼太郎は個人的には第3・4期が馴染み深いので(特に3期は夏休みなどに再放送でもよくやっていた記憶があります)、すねこすりの置物も「妖怪舎 水木しげる 妖怪フィギュア」シリーズのような少しく仄暗い感じのものが欲しいのですが、現在は入手困難のようです。6期については時々見る程度でしたが、すねこすりが独立した回になったのは6期が初めてではなかったかと思います。随分と気の毒な内容でしたよね……。あと、枕返しの回は見ていなかったので一寸検索してみましたら、何と、凄いことになっていたのですね。私の記憶では、おやじ様は病床に臥せった後ろ姿のイメージしか無かったので驚きました。爽やか……。にしても「虹の橋」と「吉野弘幸」さん、何という偶然の一致でしょうか!!
さて、たからちゃんの物語、始まったのですね。後日ゆっくりと拝読しに伺います。遠見たから、キーボードを打ち損じてtoomitakaraと半角英数字になってしまった表記が、ふと「To Omitakara(僕の大御宝へ)」と読めました。たからちゃんがラルム君にとっての「宝物」になるまでの物語、楽しみに致しております。
曹達水の季節も漸う終わりますが、熱いショコラの季節には未だ早い……どうしたものでしょうか。それぢゃ。
彩虹長への応援コメント
漢詩は「平仄」を組み合わせることによって、美しいリズムを生むのですね。語彙を定型に当てはめて作るとはパズルのよう……御免なさい。漢詩には全く無智で、こんなコメントしか出てきません。漠然と、
【起】で雲が空を阻み
【承】で風が雨をもたらす雲を運び雷が鳴り
【転】で運ばれた雲から雨が降り
【結】で爽やかな虹が架かる
光景を想像致しました。「荷気」が齎す香りでしょうか。「虹」が極楽的な場所へ通じているかのようにも思われます。人間も虹の橋を渡って此の世ではない天へ行けるのでしょうか。虹の橋で愛猫が待っていてくれたら嬉しい……愛猫家の私の独り言でした。失礼しました。
「久邇香水」は以前にも教えて頂きましたね! 香水に託された心が東洋的で上品です。茉莉花あるいは薔薇がベースなのですね。香り付け、私もしています。手書きの文通で繋がる友人が居りまして、レターセットに香り付けしたところ、好評でした。
追加で教えて頂いたトムフォードの香水も、品の良い容器に入っていますね。夏は柑橘系でさっぱり、冬はバニラ系でこっくりが良いですね。たまたま検索した説明文では「ブラック・オーキッド」が、あまりにも美味しそうでした。トップにブラックトリュフ、ラストにバニラ! いずれも洗練された芳香なのでしょう。きっと工藤様に似合いますね。
スイドリームスは「お菓子」を連想させる芳香でもあるようです……「家でケーキ焼いてきたんですか?」と、今は無き教室の同僚に訊ねられたことを思い出しました。お試しの際は、お気を付けて(?)ください。おやすみなさいませ。
作者からの返信
宵澤樣
深夜に「虹の橋」を渡ってお出で下さり有り難うございます。いきなり横道に逸れてしまって恐縮なのですが、「虹の橋」と言いますと私などは「ニーベルングの指輪」の第一幕の最後、ヴォータン以下の神々が「虹の橋」を渡ってヴァルハラへと入城するシーンを想起してしまいます。ドンナーのミョルニルが雷を呼んで、フローが掛けた虹の橋が城へと伸びていき、神々がそれを渡ってゆく時のハープの音色を聞いていると、何やら安らかな睡りにつけそうな心地がして来るのです……。
閑話休題。仰るように漢詩はパズルそのものですね。平仄の規則が決まっているため、書きたいことに対して、使える字の不如意が常に付き纏いますから、弥が上にも語彙力が強化されていくようです。作詩への思いは永らくあったのですが遂に今年から始めまして、当拙詩で三作目となります(本当は何方かに師事できると善いのですが……)。そのような拙詩、恐らく未だ未だ拙く、内容も何と言うことはない、強いて言えば殊なる内容のないものではありますが、それでも情景をお汲み取り下さって大変嬉しかったです。先々週でしたか、雨後に二重の虹が掛かった日がありまして、それに託けてつい筆を趨らせてしまいました。その虹と「荷気」から、天上の楽園に遊ぶご愛猫のお姿を思い出して下さったとのこと、字句が少ないだけにそういった想像の翼を広げて戴けたのでしょう。因みに私も犬と猫ならば猫派でして、国芳の描くような躍動的な姿もさることながら、やはり昔の「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる妖怪「すねこすり」のように、香箱座りした猫の姿が一等好もしく思われます。
香箱から香りのお話を。お手紙に香り付け、奥ゆかしいですね。私も昔、祖母からの手紙の中に文香が入っていたことがありました。微力ながら、こういう文化は大切にしていきたいものです。そういう然り気ない心遣いは、身だしなみにも通ずるのでしょう。「久邇香水」、私は京都で買い求めるのですが、今年はまだ一度も行けていないのでどうしたものかと思案しております。茉莉花も薔薇も雑じり気の無い、本当に花の香りそのものという印象。お土産として、知人にも好評です。
スイドリームスは「お菓子」の香りにも形容されるのですね。白檀で香り付けした「バニラ」扇子、ブラック・オーキッド……何やら「お菓子」塗れになりそうです(笑)……気をつけます!
それから水紅色(水紅いろ)のこと。私としたことが……!! 『ブリキ罐』でした!!! 以前に伺った「色辞典」のお話と混同して記憶しておりましたよ。やはり『ブリキ罐』、一時に読まずにゆっくりと味わえば善かったと今更乍ら読み返しております。
ところで、私が三吉先生とヒナノさんの行く末に邪推を働かせてついつい口走ってしまった『痴人の愛』、お心に掛けて下さっていたのですね。月島夫妻は譲治さんとナオミのようにはならないでしょうから、要らぬ杞憂でしたか……。
最後に随想録。眠られぬ夜がここ最近は幸か不幸か減っております。秋ともなればその夜長に綴る機会もありましょうから、いま暫しお待ち下さいませ。あるいは、一層のこと「熟寝(うまい)した朝の起き抜けに綴る随想録」とでもしてしまいましょうか……
などと、今夜も漫筆を失礼致しました。お息みなさいませ。
餐堂の燭への応援コメント
今晩和❤今夜は束の間(エフェメラ)お嬢様に謁見(長話)に参りました。
まずは、平底鍋、二叉子、高脚杯、洋皿、食匙……お台所の調度品の漢字表記が輝かしく、たいへん素敵です。調味料では「甜き白真砂」の味わいが深く、カラメリゼされる以前の真っ白な姿が印象に残りました。
橙子果汁に焱洗される可麗餅。その束の間、煌めく姿。寄り添う乳氷。温と冷の共存する一皿のレシピ、美事でございました。
ところで『鴆毒』は、記念すべき第一話目だったのですね! 初回から圧倒的なクオリティーでした。「飲鴆止渇」……この狂暑の標語です。私たちは安全な水を飲みましょうね。
私の読んでおりましたイマジネーションの翼の原点は無毒で咽喉越しが良いと見せかけて、引っ掛かりを残す種類のものです。スルーさせてくれないという点ではスイドリームスのブルー。店頭で香りを試していますと、良い香りと感じられるものは沢山あるのです。そんな中、素通りできず戻ってしまう香水は、南国の果実の嫩い時代と腐敗寸前の甘ったるさ。矛盾していますが、私にとっては双方を持ち合わせているスイドリームスのブルーです……香りを文章で表現するのは難しいですね。ちなみに工藤様のお好きな香水は、どんなでしょう。
仮寝ならぬ熟睡の時間、お邪魔いたしました。おやすみなさいませ。
作者からの返信
宵澤樣
エフェメラお嬢様付の語彙執事ユキトでございます(なんちゃって)……お返事が遅くなりまして失礼致しました。
西洋の調理器具やカトラリをいざ日本語に置き換えてみると中々に難しく、寧ろ中国語(のようなもの含む)の方が器具の特徴を捉えていてしっくりくるような気がしませんか? 「甜き白真砂」の部分にも目を留めて下さり有り難うございます。実は「焦糖化(カラメリゼ)」という語も五音であるだけに使えないものかと試行錯誤したのですが、結句、このような形となりました。クックパッドのレシピをこの文体で書いたなら……ある方からは「解読から始まるシリーズと呼ばれそうです」との評を頂戴してしまいました(笑)。解読し乍らでは失敗も必定、焦糖化どころか平底鍋の裡は焦土化することでしょう。
「無毒で咽喉越しが良いと見せかけて、引っ掛かりを残す種類のもの」……人にも、そういった御仁がおられるような気がします。ある意味、一番厄介で一番愛おしいものかもしれませんが、スイドリームスの香りもそうなのですか。「嫩い時代と腐敗寸前の甘ったるさ」とは、三吉先生にある意味で相応しい香りでもあるように思われますね。ヒナノさんもそんな三吉先生の纏う香りに「引っ掛かり」を感じてしまったのでしょうか。クレープシュゼットの温と冷との和合の如く、全盛と滅びとが同居する香り、これもまさに《coincidentia oppositorum》、反対物の一致です。聖なるモノは得てして両質具有、両性具有。
汗をかく夏は香水にとって受難の季節となりがちですね。殊に今夏は……。私は通年で久邇香水を愛用しておりまして、春先など身に纏うこともありますが、薔薇の天然香料なので香りが飛びやすいためハンカチなど小物に含ませて楽しむことが多いです。あとトムフォードの香水を使います。今時分は専らネロリ・ポルトフィーノ・アクアで、コートが必要になる頃くらいからブラック・オーキッドに切り替えます。前者は柑橘系でほんのり甘く軽やか、後者はチョコレートやバニラのような厚みのある甘い香りが印象的です(仰るように香りの描写、難しいですね……)。改めてこうして書いてみると、好みにあまり統一性は無いのかもしれません。
暑い中でも、ご健筆、お変わりないようで何よりです。御作、週末にお邪魔させて戴きます。穴賢々々。
鴆毒への応援コメント
工藤様、本日は「鴆毒」を拝読致しました。冒頭の「月影」に「つきあかり」というルビ、素敵な表現です。影であり、あかり。このエピソードの結尾を示唆するかのような始まり方に思えました。
「鴆毒」は初めて知る言葉でして、検索してみました。空想上の鳥の羽の毒を示すのですね。Pitohuiも毒を持つ鳥。羽笔(はねペン)に毒が入っている……ミステリータッチですね。毒入りの食事よりも品のいい青い毒です。砂糖アレルギーとおぼしき少年が角砂糖を一箱あおって死を夢むような鳩山郁子先生のカリカチュアと、坂口安吾先生の「青春自体が死の翳」という言葉を何故か思い出しました。
青と言えば、スイドリームスをお調べ頂きまして恐縮です。工藤様の仰るとおり、バッグをイミテイトした容器も可愛くて、硝子戸棚に飾ってインテリアとしても楽しんでおります。ところで『仕舞い込んでしまったモノはモノとしての「呼吸」が出来なくなって死んでしまう』のか否か……おそらく仕舞い込んだ人間に忘れられた時点で、息絶えるのではないかと思うのです。憶えて仕舞っている場合は息絶えず。なので、三吉氏の「千羽鶴」は鮮やかなまま。それは言い換えれば、いついつまでも昔の女性を忘れることができないと言う点で哀しいことかもしれませんね。大切な存在を仕舞い込んだことも、その価値も忘れることができたら……それも哀しい気がします。どのみち哀しい三吉氏を幸せにしてあげたいです。
「値の張る」食品こそ、自分を形成する上で肝心な要素ですよね。私などミニマムな人間で、安価な味わいを好むことも多々ですが、たまには贅沢しようと思います。私にとってアンリ・シャルパンティエのデセールは贅沢品です。その製菓会社はオレンジのクレープを作っていますね。工藤様の最新作に燃ゆる『束の間(エフェメラ)』お嬢様の姿、しかと確認しました。美しい!! クックパッドを総て工藤様の語彙で書き換えてほしいぐらいです。コメントをあっさり書いてしまうのが勿体無いほど色々見蕩れ……改めて後日『束の間(エフェメラ)』お嬢様に謁見(長話)に参りますので、その際は、よろしくお願いします。
虹色のタッセルは、ひんやりとしたエアコンの風を受けて揺らめいています。本当に「狂暑」と呼ぶに相応しい気候ですね。引き続き御自愛ください。
作者からの返信
宵澤樣
いらっしゃいませ。「鴆毒」へもご来臨下さいまして有り難うございます。改めて読み返してみますと、仰るとおり、拙文には珍しくややミステリタッチですね。そこから鳩山・坂口両氏へとイマジネーションの翼(こちらは無毒でしょうか)を拡げて下さった由、恐縮です。ある時期に読み漁っていた群籍の中に「鴆毒」がかなりの頻度で出てきておりまして、他にも「鴆殺」「飲鴆止渇(「毒入りの酒を飲んで渇きを止める」から転じて「目先の利益のみ考えてその後の結果を考えないこと)の意」)などと展開するようで迚も印象深い語彙だったのですが、実はこの「鴆毒」こそ「豊穣―」の記念すべき?第1話目、原点です(時折、話の排列を変えておりまして、解りづらく相済みません)。少し懐かしく感じられました。
スイドリームスですが、実は私が登録している香水サブスクサイトのラインナップにありまして、もしかすると来月あたりちょっと取り寄せてみても善いかもしれないな、などと思案しております(今月はもう注文を終えてしまったので……)。仮に身に纏わなくとも、香水は色々と楽しめますしね。
「モノの呼吸」のお話、なるほど、これはクロゼットの中のモノ自体が呼吸するというよりは、むしろその持ち主が心の中に仕舞い込んでいるモノやそれにまつわる「記憶」「思い出」が呼吸をする、という状態に近いのかもしれませんね。よく、男性は恋人の記憶をフォルダ保存し(だから思い出を棄てられない)、女性は上書き保存する(だから思い出を棄てられる)との説をネット等で目にしますが、三吉先生はどうなのかな……ともあれ、頂戴するコメントから察しまするに、彼には「幸せな結末」が俟っていてくれるようで何よりです(あるいはその前に嵐の一つ、二つ、まだあるのやも?)。
『束の間(エフェメラ)』お嬢様、遂に拝借してしまいました! 「美しい」とのお言葉頂戴し、まずは安堵しております。後ほど「餐堂の燭」にもお越し下さるようで、私もここでのお喋りは控えめにさせて戴きます。あちらでも、お嬢様に侍る語彙一同、お待ち申し上げております(笑)。
虹色のタッセルの揺らめき、涼やかで良いですね。ふと、虹に託けてまた一つ拙い詩を作してしまいました。お時間あればそちらもぜひに。
追伸
「有難等御座居〼」はお祖母様のお友達がお使いなのですね。 私の祖母の「でハ又」もそうですが、うんと上の世代の先達は、今や喪われつつある奥ゆかしさの中に生きておられるのでしょうか……羨ましいことです。
破瓜への応援コメント
工藤様、こんばんは。
「破瓜」は健全かつ耽美的イニシエーションに感じられました。
皙き絅まとう蕾のような十六歳の乙女の何と、うつくしいことでしょう。真に未嫩い。聖なるエロスの世界でございます。王子様が産まれて万歳。異国の絵巻物の如く、うっとりです。
現代の日本国では、或る状態から「分離」して「過渡期」を経て別の状態に「統合」するという儀式の三局面が感じにくいのですが、其れは延々と過渡期という非日常を彷徨うが如く若者の増加に端を発するでしょうか。とは私の勝手な思い込みでございます。
しばしば、イニシエーションに蹉跌するような未熟な者ばかりを執拗に創作してしまう私としましては、こちらの絵巻物が、羨ましい程きらびやかに思えてなりません。通過儀礼をスイスイと潜り抜けることができる幸福のカタチ。私も其のようなものをもう一作、書いてみたいと思いつつ、今夜は眠らなきゃ!
夜分、失礼しました。返信は来月でも、もっと後でも結構ですよ。おやすみなさいませ。
作者からの返信
宵澤樣
お言葉に甘えてしまった訳ではないのですが、お返事が遅くなりまして……この度もご高覧のうえ、拙文を「異国の絵巻物」に喩えて下さり有り難うございます。
仰るとおり、現代日本は特に精神性という観点で「老成」しづらい、あるいは自身の「老成」を実感しづらい社会なのかも知れませんね。理由はよく解りませんが……。何時ぞや何かのアンケート記事で読みましたが、当世日本の大学生は海外の大学生に較べて「あなたは大人ですか?」との問いにノーと答える率が圧倒的に高いそうです。何故に日本だけなのか……現代という時代性ではなく、日本という国に特有の現象なのかな? 坂口安吾のいう「老成せざる者の愚行」=「青春」を、この国では誰しもが、ことによっては幾つになっても謳歌し続けられる時代にいよいよ突入したということになるのでしょうか。
〈分離→過渡期→統合〉という通過儀礼の三局面が機能する前提として、儀礼を主宰する集団や共同体の一定度の閉鎖性とその中における単線的人生があるのだとすれば、高度に複雑化し個々人による自由選択の幅が拡がった社会の中で人生が複線的になっていると思しき現代では、成人式に象徴される「一律の」通過儀礼というものはもはや嘗ての冠婚葬祭のような人生儀礼の節目というより、日々に継起する数あるイベントの一つとして、その特殊性を希薄化させてしまった体ですね。「通過儀礼をスイスイと潜り抜けることができ」なくなった現代の、ある意味での病理であるともいえましょう。そこまで高度には複雑化していない時代・社会において「破瓜」は恐らく、「少女」にとっての身体的通過儀礼・イニシエーションとして現代における以上の価値を有したようにも思われます。しかも当話の場合は「神婚」ですから尚更に……。
宵澤さんが描かれる「通過儀礼をスイスイと潜り抜けることができる幸福のカタチ」も拝読してみたいな、などと思いつつ。それぢゃ。
菟裘への応援コメント
工藤様、お邪魔いたします。
ソォダ水の季節、気泡がはじけるように突然に、駿馬は去ったのでしょうね。それほどに強い印象を哀しくも工藤様のお心に残し、そうして生まれたアンプロンプチュこそ『驊騮』であったのでしょう。馬だけに「楽世」……上手い、巧い、と納得でございました。
本日は「菟裘」に失礼しております。「緘黙と漆闇とに耳目を壅がれて精神の研ぎ澄まされて行く」さまは、未亡人である老婦人の隠棲生活から生じた感覚でしたでしょうか。静寂(しじま)ではなく緘黙(しじま)と表現された場所から、話し相手の居ない境遇が強調されますが、菟裘にて独りごちる老婦人の声は奇しくも少女のように純粋に聴こえます。ベッドの上に、ちょこんと座られ、二つ折りにした原稿用紙に筆を滑らせていく姉様のような女性を想います。
ハイポソムニアとは何語でしょう。工藤様の造語でしょうか? 考え過ぎると不眠症に陥りますかね。考え過ぎぬようにいたしましょうか。
工藤様の天河の拡張は、束の間の絶対少女探究を永続させる柱になるでしょう。天気輪に導かれし少年のように、現実と夢の狭間に失われつつある何かをすくっては、楽世に持ち帰るであろう私が予測できます***Au revoir ! ***
作者からの返信
宵澤樣
いつもコメント頂戴し有り難うございます。「菟裘」のご感想、「緘黙」を老婦人の「話し相手の居ない境遇」に重ねて下さった点、意図ズバリでございました。自己完結の工夫ではあるのですが、こうしてそれを受け取って頂けたことに頬の緩みを禁じ得ません。嬉しいです。老婦人と姉様のイメージも、書いた当初は気付きませんでしたが、確かに重なるかも知れませんね。問いかけの言葉遣いこそ「其方」ですが、音もなく回転するラジオメーター(少年少女がこれを見ると不思議がりますね)に話しかける「少女」の独語は、闇の中に小さく響く束の間の奏鳴曲として或いは夜な夜な続いていくのでしょう。
「ハイポソムニア」は私の造語ではありません(が、片仮名で「ハイポソムニア」と検索してもヒット件数が2件、うち1件はこの「菟裘」であることに先刻気付きました!)。不眠症は「insomnia」が一般的ですが「hyposomnia」とも表されることがあるらしいのです。私も詳しく調べたわけではないのですが、恐らく医学用語なのかな? ネット検索して唯一ヒットしたweblioを参照しますと「学術用語英和対訳集」に「不眠」として立項されてはいるようなのですが……。ちなみにもう少し調べてみますと「hypo」はギリシャ語で「低い、少ない、下の」などを意味する接頭辞、「somnia」はラテン語の「somnus=睡眠」に派生する「somni」に、病名に付く接尾辞「ia」が複合したもののように思われます。直訳すると「低睡眠症」ということでしょうか。素人の「解剖」にて恐縮です。にしても、漢語だけでなく、ギリシャ・ラテン語の造語力もなかなかのものですね。やはり古典語は強い。
今週もビワハヤヒデ(ナリタブライアンの半兄)という名馬の訃報がありました。そして何より先週は、それこそソォダ水の似合う少年期から走り続けた美しい馬、「美」は「はる」とも訓みますが、アッという間に天高く駆けて行ってしまいましたね……。怪しげな瘴氛も再び瀰漫の兆しあり、天象のみならず沈みがちな気分ですが、言葉の世界に沈潜して何とか遣り過ごしております。いつも下さるコメントに、本当に心を軽くして戴いております。
御作、未だ拝読しに伺えておらず相済みません。些か立て込んでおりまして……今日もシナモンで香り付けした珈琲を啜りつつ、もう一仕事せねばなりません。ということで、またお会いしましょう=会はばや=あはばや=あばよ!
追記
「天気輪」について書くのを忘れてしまいました。宮澤賢治の造語、言語感覚もなかなかに独特ですね。吉祥寺に「ゆりあぺむぺる」という気に入りの喫茶店があるのですが、これも彼の詩に登場する人物から名を採ったそうで、口遊むと何とも言えぬ響きがあります。
驊騮への応援コメント
工藤様、一日千里を走ると言われる駿馬の章を拝読致しました。
「ディープインパクト号急死の報に接して」お書きになったのですね。即興曲の勢いで生まれる音ではない深さを感じました。こういう文面を即興で脳裏に描き出され、出力なさっているのでしたら、ますます畏怖の念を憶えます。楽世(うましよ)に対して幽世(エリュシオン)の対比が印象に残ります。
彦星様、このたび織ったばかりの「小夜衣」をヒナコに纏わせる所存でございます。えぇ、やはり私は織姫の柄ではないのですが、自分の物語を織るのは速いようで困ったものです。工藤様の、まさに彦星たる煌めきを放つ「口語体を用いた擬古文」……其の美文には程遠い世界への共有ですが、お許しくださいませ。
ご高察どおりでしょうか……「雛」の時代を拗らせた故の「ひいな」で在ることを認め、ますます拗らせていこうと思います。偏頭痛は拗らせないように、台風の季節、お互いに気圧に負けず生きましょう。でハ又。
作者からの返信
宵澤樣
ディープインパクトの死から今月末でちょうど1年経つようです。この度もご高覧下さいまして有り難うございました。当時は仕事中に舞い込んできた訃報に茫然とし、帰宅後に一気に書き上げた記憶があります。アップした日付が翌8月1日ですから、本当に起筆して直ぐに書き上げたようです(因みに昨日、筆の「滑り」を若干補正したのは内緒です)。そのような拙文を「即興曲」に擬えて下さるところ、流石だなと思いました。即興らしく、それこそサラブレッドの小気味良いキャンターのようにいま少し軽やかに仕立てても面白かったのかもしれないのですが、如何せん思い掛けない訃報の「大いなる衝撃」に脳も麻痺していたようで……馬だけに「うま」しよ、だなんて不謹慎なことにも後になって気付きました。そしてその、お目を留めて下さった「楽世(うましよ)」と「幽世(エリュシオン)」との対比、後者は「かくりよ」と訓じた方が釣り合いが良さそうですが、神の馬が棲む楽園と「エリュシオン」の訓が符合したのでしょう。数多の名馬が死して集う苑のようなものが何処かにあるようなイメージでした。
「小夜衣」、すでにヒナコお母樣がお召し下さっているようですね。先刻、不躾ながら瞥と最新話を垣間見に伺っておりました。週末に改めまして、じっくりと拝読に参上させて頂ければと存じます。
語彙そのものの燦めきに頼るばかりの拙文も、細々と書き続けていけばその燦めきが何時の日にか「天河」の流跡の如くに残るでしょうか。煌びやかなれど忘れられ、あるいは亡びつつある語彙を、何方かがその河中から砂金を浚うように見つけ出して下さったことで、現代において再び陽の目を見るならばこれに勝る悦びはありません。
私もそろそろ、溜めに溜めた語彙をダムから放流して「天河」を伸張させるべき時節にあるようです(でないと、早晩、宵澤さんに「砂金浚い」され尽くしてしまうのですから……笑)。今後とも「絶対少女」の探究とともに、拙文よりの語彙浚い、何かお気に入りのものあらばよしなにお願い申し上げます。しからば。
編集済
蝋引紙への応援コメント
工藤彦星様
こんばんは。このたびは七夕より始めました新連載に足を運んで頂き、コメントも寄せて頂き、心より感謝致しております。おそろしい長編になりそうな傍迷惑な予感しかしませんが、お付き合い頂けるのでしたら昇天するでせう。はい、織姫の柄ではございませんが、お莫迦ですので簡単に天に昇れそうですよ。
早速ですが「小夜衣」って本当、美しい言葉ですね。あぁ、また共有させてくださいませ(何回目の語彙の衝動買いでしょう。ご迷惑ですこと。本当にスミマセン)。
ところで偏頭痛には悩まされますね。いつ来るとも知れぬ痛みの波に怯えていても仕方ないと奮起するも、肝心な場面で痛み始めると青天の霹靂。睡眠時間が長過ぎるのも短すぎるのも駄目だとか、チョコレートやチーズやワインがトリガーとか申しますが、実際のところメカニズムは解明されておらず。光明の届かぬ部屋で「甘き死よ、来たれ」と希むほどの水無月でございました(泣き笑い)。お互いに健やかを目指しませうね。
夏=死。この等式は個人的にぴたりと当て嵌まります故「勿忘死」は、つくづく秀作に思われました。エロスとタナトスは紙一重。生と死も。永遠と束の間も。考えていた折に「恋愛」というジャンルで何を思ったのか始めてしまった奏鳴曲に、今後とも呆れてくださいまし。
そして「蝋引紙」……いつもの工藤様の擬古文(という表現は正しいでしょうか? 不適切でしたら御免なさい)と趣きの異なる現代文。その独白形式の整い方と申しましたら……私は何をやっているのでせう……と打ちのめされてオフィーリアを島流しにしたくなる想いでございます。「哲学少女」の存在そのもののような本。その「遅れて開かれた本」は今も主人公のベッドサイドに、あるでしょうか。夏の終わりのような追憶の頁。「何処かへ逝ってしまった時間の存在感のあまりに濃すぎる」空間に所在なく居る自分。かつて慣れ親しんだものが「懐古」に変わるということは、自分が未来への船のオールを漕ぎ続けて前進したことかと思うのですが、かつての自分の筆跡までもが他人のもののように感じられる現象。人生は地続きなのに、不思議なものですね。読ませて頂き、ありがとうございます。
追伸:「小夜衣」と「漓る」……未来の頁にて共有をお許しくださいませ。「淋漓」からのイマジネーション。脱水症には気を付けて、良き季節を過ごしませう。
でハ又……(そんな粋な表現をなさるおばあちゃまに、よろしくお伝えくださいませ)。
作者からの返信
宵澤織姫樣
御作へのコメントと、こちらへのお返事、順序が逆になってしまった上に又しても牽牛ならぬ鈍牛の如き遅筆をお聴し下さい。
御新作『オフィーリア奏鳴曲』が「おそろしい長編になりそう」とのこと……大歓迎、長く御作の世界観に浸っていられるのは大変嬉しいことです。今後も折に触れてお邪魔させて頂きます。折と言えば、「おり」は「おり」でも「織り」の方になりますが、美しい文章のことを織物に擬えて「黼黻(ほふつ)」と表することがあるようです。「織姫の柄ではございません」と仰いますが、宵澤さんこそ綾織る姫(ひい)樣、織姫樣とお呼びするに相応しい御方のようにも思えるのですが……。
「小夜衣」、ぜひとも共有しましょう。同名の古典文学作品(ハッピーエンドの栄達の物語です)もありますし、往にし方の人々もどこか気になる語彙だったのかも知れません。ミヨシ君のお母上がお召しになるのでしょうか……楽しみにしております。そういえばお母上のお名前である雛子の「雛」も「ひひな(ひいな)」と訓みますね。「姫」樣も「ひい」樣と訓めて、そして作者樣のお名前も……言葉遊び以上の含意を読み取りたくなってしまいます(悪い癖です)。
偏頭痛、私の場合は気圧のせいなのだろうと考えておりました。唯一、頭痛の予兆を感じられるのが颱風の時なものですから。この時ばかりは覿面に来ますね。宵澤さんも先月は本当にお苦しい日々をお過ごしだったのですね。改めてお見舞い申し上げます。
「蝋引紙」の独白、いつもとは異なる趣でしたでしょうか。何やら一文一文が冗長(私の要を得ないコメントのように!)で拗らせてしまっている感じを暖かく読み解して下さったのだろうと拝察致します。拙文は擬古文にしては全うできておらず、現代文にしては語彙が仰々しいように思われ、その点では自分でも何を書いているのかよく解っていなかったのですが、有り難くも頂戴したあるレビューの中で「口語体をもちいた擬古文」という名指しをして下さった方がいらっしゃって、なるほどと思った次第です。ある意味で「闇鍋」のようなものかもしれませんね。
哲学少女から貰った本は、恐らくまだベッドサイドにあるのではないでしょうか。思い出とともに一層のこと棄てられれば楽になるのに、一度、手にした物をなかなか手放せない男性というのは存外に多いような気がします。「未来への船」ですか……私のオール捌きは酷いものですから、意図した目的地とは違う、あらぬ方向に辿り着いてしまいそうです(泣)。
ここ数日は梅雨寒でしたが、間もなく脱水症の季節も到来しますね。お互いに自愛して参りましょう。ぢゃ又(祖母へのお気遣いも有り難うございます)。
勿忘夏への応援コメント
工藤様
令和二年夏。このタイミングで「勿忘夏」を拝読できた私は幸せ者です(!!!)
儚く美しい夏の頁。菊牡丹(はなび)の許の君と僕。
「皙い耳朶より垂るる珥璫の脚」に、たゆたう艶を感じます。
小夜衣(さよごろも)という衣類の似合う綺麗な人物を想起しました。そして「君の汗あえた項に羽虫が留まる。屍体でもないのに」と云う文の放つ色香。メメント・モリです。それを「勿忘死」と表わされる感性。すべてが嫩く美しい……「嫩い」という漢字が当て嵌まるほどに綺麗でした。夏も死も「勿忘草(わすれなぐさ)」から転じた、工藤様の造語でしょうか? お導き有難うございました。
追伸:工藤様も梅雨入りで片頭痛。三日も苦しまれ……お察しします。奇しくも同じ状況でしたもので。木洩れる陽光は、お辛くないですか? ご自愛ください。
双眸の意図、汲み取って頂きまして深謝です。気象の齎す病には手を焼きますね。引き続き気を付けてまいりましょう。それぢゃ。
作者からの返信
宵澤樣
折角、七夕にコメントを頂戴しておりましたのにお返事が遅くなってしまいました……鈍い彦星です。お聴し下さい。
夏というのは花火大会はじめ水遊びやキャンプなど、嫩く生命力に充ちた歓声が響くイベントも多く、未だ語るべき過去を持たない彼らはこの季節に思う存分「思い出作り」に励むことが出来ますけれど、反面、老者(おとな)たちにとっての夏はお盆あり終戦記念日ありと、「死」や「過去」やに思い致す季節でもありますので、そんなところで「勿忘死」を書きました。造語という程のものではないのですが、ご高察のようにタイトルは「勿忘草」を意識しております。
まだ嫩い「君」と「僕」との間にも「死」の匂いは漂い始めているのかも知れませんね。そこに「艶」と「色香」を感じ取って下さったとのこと、ありがとうございます。エロスとタナトスはやはり紙一重、「甘き死よ、来たれ」(……!?)
小夜衣は夜着、寝巻きのことで、詰まるところ結局は就寝する際の「浴衣」のことでして、ハレとケで言えば、花火大会に着ていく浴衣はハレ、夜着の浴衣はケということになりましょうか。
今年は花火大会も軒並み縮小・中止の趨勢のようですから、例年とは違う夏になるのでしょうね。せめて「貴重な」体験として「思い出作り」ができればいいなと思っております。
偏頭痛は本当に神出鬼没、希有希見、どうして頭痛が出たのか後からその理由を納得できても本当に困ります。事前に回避できたり、備えておけたりするならばどんなに良いことか……ただ幸いなことに、自粛で在宅時間の長い私などは「木洩れる陽光」の「祝福」を受ける機会も少なかったので、その点は怪我の光明、否、功名だったかもしれません。
とまれ、日々健やかに暮らしたいものですね。それざゃ(「ち」を「さ」と書き損じた頃がまた遠くなって行きます……)。
追伸
早速に新作を公開されているのですね。変わらぬご健筆、病み上がりとは思えません。週末にゆっくりと拝読しに伺わせて戴きます。
瘴氛への応援コメント
工藤様、こんにちは。御無沙汰しております。
両目に麦粒腫を患いまして、勝手ながら一ヵ月ほど、休暇を頂いておりました。
漸う症状が和らぎまして、遅ればせながら、お伺い致しております。
個人的に大好きな「天地玄黄」の最新の頁から……「嫩」で禍いを断つ。「嫩」には「物の初期」という意味もありますね。新型ウィルスの蔓延も、とどまってほしいものです。烏座が終熄を導かんことを願います。林鐘の雨は、まだ降り続いておりますね。まだ脳膜に面紗を被ったような、ぼんやりとした状態でございまして、あまり良い感想が書けず恐縮です。
お話の続きですが(!!!)は珍しい表現でしたね。『恋人たちの森』に(パウロ!!!)、(ギド!!!)という表現が出て来ますが、ショッキングな光景を目にしたときの(!!!)でした。姉様の御覧になった気象現象は、さぞかし衝撃的なほど美しかったのでしょうね。そして工藤様の召し上がった一品も(!!!)の味わい、衝撃的な幸福の瞬間だったでしょうか。
休暇中、工藤様からの応援が非常に励みに、なっておりました。追伸も、ありがとうございましたm(__)m でハ又。
作者からの返信
宵澤樣
お久し振りでした。またおいで下さりありがとうございます。
麦粒腫は両目にだったのですね!!! 先だって下さったご返信の中で私にも「双眸を大切に」とのお気遣いを頂戴しておりましたが、他でもないそれが「双眸」であることの意味に漸く気付きました。てっきり片目だけだとばかり……両目とはさぞ難渋されたろうとお察し申し上げます。まだまだご快癒とまでは行かないご様子、ただお具合自体は快方に向かわれているとのことで何よりです。
「豊穣―」は所思あって話順を一部入れ換えておりましたので、戸惑われたのではないかと心配です。「お得意様」がお戻りになりましたので直ちに元に戻しました(前回は「行住坐臥」の「承和色」をご笑覧下さっています)。
”Obsolete Lexicon”(古びた語彙集)はいつでも「お得意様」のご来訪をお待ち申し上げておりますが、ルビ繁多な拙文はあるいは目への負担の大きい可能性なきにしもあらずですので、ご体調と相談され、本当にお疲れでない時にいらして下さいね。
にしても瑞々しく美しい「嫩」はともかく、四季折々に萌え出づる病の「嫩」だけは早くに摘んでしまいたいものですね。私も梅雨入り初日というタイミングに合わせて冗談のように偏頭痛が出て、三日ほど悩まされました……。コロナの動向も気懸かりですが、差し当たり為すべき(とされる)ことだけは懈らないようにするしかないのでしょうね。
まだ拝読していない御作もありますので、またそちらへもお邪魔しますね。
で八ヌ。
追伸
例の佃煮は二瓶目に突入しております。自粛生活は小さな幸せを再認識する良い機会かもしれませんね。「姉様」の眼路に映じた朝日のように。
承和色への応援コメント
こんばんはm(__)m
今夜から「行住坐臥」を拝読しております。
「承和色(そがいろ)」は、菊の花の色なのですね。石竹・浅葱・甕覗きなど、日本古来の色名は独特の美しさがありますが、「承和色」も然り。「黄色」では表わせない色彩です。かつて「色辞典」という90色の鉛筆を持っていたことを思い出しました。
「玻瓈茶壺(ティーポット)」、「檸檬草(レモングラス)」、「荷蘭薄荷(スペアミント)」、このあたりは気温が上がり切らない或いは下がり始める時刻の、少年の飲みものとして相応しいイメージで、「円舞(ワルツ)」と「廻旋(ピルエット)」から、薬艸と熱湯の渦が見えてくるようです。工藤様の好まれるフレーバーは、どんなでしょうか。ルピシアの紅茶は、パッケージも茶葉の名前も風味も上品で、工藤様のイメージに似合う気がいたします。
此方で非常に恐縮ですが『白百合の病』を読了いただきまして、誠に有難うございました。白百合病をモチーフに長患いの私は、工藤様の『貴婦人、最後の恋』が気になっております。恋患いの物語でしょうか。一気読みしてしまう日も近いかもしれませんが、ご容赦くださいませ。
作者からの返信
宵澤樣
今晩は。いらっしゃいませ。
「承和色」は仰るように平安時代の承和(じょうわ)年間に在位した仁明天皇が好んだ菊の色に因んでいるそうで、「気温が上がり切らない或いは下がり始める時刻の、少年の飲みもの」とお察しの通り、本作はお午前の間食の飲み物として淹れたレモングラスの薬湯の揺らめきを見乍ら昨年の秋口に書いたものだと記憶しております。ところで、この仁明天皇が持つ「深草帝(ふかくさのみかど)」なる別称、京都の地名に基づくとは知り乍らも、何やら薬艸まで連想させてくれて面白いですよね(笑)。「令和色」というのは未だ無いようですが、令和改元の慶祝カラーとして日本流行色協会が「梅」「菫」「桜」の三色を選んでいるようです。
然し本当に日本古来の色名は口にするだけでも雅なもの。実は宵澤さんが挙げておられる「甕覗き」などは、「塒出の鷹」の中で登場させる大水青蛾の体色を表す語彙として使えないかとつい最近も試行錯誤していたのですが、微妙に合わないような気がして、結局「白緑(びゃくろく)」に落ち着けてしまったところでした(まだ公開していないのですが……)。「色辞典」の90色にはこの両色も含まれているのでしょうか。だとしたら小学校などでぜひとも使ってほしいものです。
茶葉の「円舞(ワルツ)」「廻旋(ピルエット)」を見られるのは、ティーバッグでなくリーフで淹れる時の眼福ですね。私がよく飲むのは、やはりレモングラスをベースにしたものでしょうか。今はポンパドールの有機レモングラスを飲んでおります。元々、ハーブティーとの出会いがアレルギー体質の緩和を目的としたものだっただけに、未だに有機栽培の茶葉ばかり選ぶ癖が抜けません。ハーブティーデビューは、恐らく珍しいと思いますがボリジでした……懐かしいです。紅茶はハムステッド(HAMPSTEAD )というブランドのものを愛飲しておりますが、ルピシアも何度か戴き物したことがありますよ。缶も可愛らしいですよね。イメージを汚さぬよう私も精進せねばなりますまい(笑)。そういえば、最近、東京中野にあるOHASHIというお店の「クロモスBOX」なるシリーズのお茶を戴き、木の薄板で作った大変可愛らしい曲物の箱に入っているのも珍しかったのですが、「いちご緑茶」「柚ほうじ茶」「ミントグリーンティー」など風変わりな名前の、しかし何れも意外に味の組み合わせが良かったのに驚きました。それと、いらぬ情報やも知れませんが、食事が和食だった時は、食後に決まってドクダミのお茶を飲んでおり、間食では抹茶を点てることも多いです。これから暑くなるにつれ、冷たいミント系のお茶で喉を潤す機会が増えそうです。いけない、お茶のお話、些か喋り過ぎました。
『白百合の病』は『人形への小夜曲』最新話へのコメントで読者の方が触れておられたので、「あっ」と思って拝読した次第です。ミレーのオフィーリア、少女性など、宵澤文学を理解する上での重要なモチーフが鏤められていたのですね。
それから拙作「貴婦人、最後の恋」にご興味をお持ち下さり有り難うございます。恋患い、なのだと思いますが、詳細はタグにてお察し下さると幸いです。また、もしお読み下さる折は、ぜひとも「貞淑なる女帝の後宮」第零話「老伯爵と賢帝」を先にご覧下さいませ。「貴婦人―」第1話と繋がっておりますので……。実は「貴婦人―」は「貞淑―」に「飽かぬは君の御諚」も含め、総て登場人物や世界設定が共通している〈静寧と動乱の遙けき帝国〉というシリーズものなのです(これまで恐らく何方にも気付いて頂けていないのですが……)。「豊穣なる語彙世界」を拵える以前はこの三作を以て言語表現の実験場としておりました。結末までのプロットはあり乍らも永らく完結させられておらず、その意味では有り難くもお読み下さった読者に対する不誠実の誹りは免れません。一応、話の筋らしきものはありますが、どちらかと言えば「豊穣なる語彙世界」のようにお読み下さると有り難いです。勝手を申し上げて恐縮です。
追伸
御作で「夜光虫(ノクチルカ)」に出逢えること、楽しみにしております。さぞかし綺麗な光を放ってくれることでしょう。
Varianteへの応援コメント
お邪魔いたしますm(__)m
「Variante」を「异体字」と解釈される工藤様のセンスは「cicada」をモチーフに俳句を作られたころのままに、素晴らしいです。私はcicadaが落ちて土瀝青に叩き付けられた瞬間の音を存じませんが、あの翅は「撥」と鳴るのでしょうね。「Variante」には文字の突然変異種が躍っていて、「餝窗」は無難に「飾り窓」と書くよりも、かなりワクワクします。ルビにも旧字体の「ゐ」が使用されていて、工藤様が此の410字に如何程こだわりを詰め込まれたか、お察しして尊敬いたします。
「青春」=「老成せざる者の愚行」とは成程です。逆に人生の終着点で末嫩き時代に還れるような、淡い期待も持っております。どちらにしても、工藤様の語彙世界に居るあいだは、媺しき純粋を持っていられる気がします。
すみません。「コロナ」の件は別の小説サイトでした。「大手プラットフォーマーの規制に則り、新型コロナウイルスに関する内容の作品の投稿を全面的に禁止させて頂く形になります」と制限がかかっているサイトがあり、カクヨムは今のところ制限がかかっている様子は無いのです。情報に踊らされ過ぎて本質を見失っては、いけませんね。
このたびは「DNAの螺旋のようなコード」の属性について、詳細をありがとうございました。
『人形への小夜曲』は最終話まで書き終えて下書きに眠っておりまして、今夜には更新する予定なのですが、まさに『母がラルムを何らかの形で「産み直す」』展開をえがいています。旧式の電話のコードから推察いただく総てが、ラルムの義耳のように、ぴたりと当て嵌まります。「DNAの螺旋のようなコード」はラルムを救う「命綱」でもあり、生死を結ぶ「連絡通路」でもあり、「臍の緒」なのです。
工藤様の丁寧且つ的を射る「読み」を拝読させていただき、連載の幸福に浸り、感謝しております。
作者からの返信
宵澤樣
「此の410字に如何程こだわりを詰め込まれたか」、また「語彙世界に居るあいだは、媺しき純粋を持っていられる気がします」と仰って下さいまして、何かと沈みがちな心の裡に煦かな陽が射したような嬉しい気持ちになりました。いつも励ましのお言葉を頂戴し有り難うございます。
「人生の終着点で末嫩き時代に還れる」というイメージは確かに分かるような気がします。何より、「老衰」(あまり適切ではないかもしれませんが、より精確・直接的には「呆け」)のことを英語で「second childhood(2度目の子ども時代)」と表現するのは言い得て妙ですね。そして「媺しき純粋」、これ又しても女偏のミステリアスな字です。「嫩」のように「媺」も何時か特別な時に使いたくなりそうです。
仰るように、何のことは無い見慣れた語彙も異体字に宛てて変異させると、途端に不思議な色彩を帯びるのが面白いですよね。そういったところに漢字のダイナミズムを私などは感じてしまいます。「Variante」は一応フランス語の語彙なのですが、英語の「vary(変わる)」や「variation(変化)」、「variety(多様性)」などと同根で、これ自体「異体字」という派生的意味があるようです。やはりインド・ヨーロッパ語族はゲルマン語系にしろロマンス語系にしろ、お互いが近しい「家族」関係にあること再認識させてくれます。
カミュが『ペスト』を書いたように、コロナも又、文学のモチーフとしてはかなり強力なもののように思うのですが、やはり現在進行中の事況ということもあり様々な配慮が必要だと判断されたのでしょうか……少し時間が経って近過去として回顧し、ある程度の総括が出来るようになった段階でどうなるか、といったところでしょうか。
「旧式の」は些か穿ち過ぎてしまったようですね……そもそも御作ではそういった時間操作はしておられなかったのに、私の方で勝手に思いついて妄想してしまいました、悪い癖です……が、「DNAの螺旋のようなコード」、本当にそうなのですね!?お母上がラルム君を「産み直す」物語、これから拝読しに伺うのが楽しみです。感想はお邪魔しました時にコメントとして残させて下さい。
そういえば、私の語彙世界もそろそろ宵澤さんに踏破されてしまいそうな気配を醸してきました……なるべく永くお楽しみ頂けますよう、私も仕事が落ち着き次第、拡張を再開していく所存です。
搏翼機への応援コメント
工藤行人様
江戸川コナンくんの本名が「工藤進一」くんでしたね。期間限定で無料の電子書籍が開放されていました。一巻を試し読み……興味深い漫画でした。
先日は、工藤行人様の純粋な感性を以て集められし語彙をリスペクトするあまり「絶対永遠少年」などと申しまして大変、失礼いたしましたm(__)m
現実には存在しないであろう絶対的な少年少女。その価値を物語の中に見出すことがある私、源氏物語の三女官も、イメージどおりの「少女」です。そのような心象の共有者として、工藤様と共に、これからも秘めやかに精進いたしたい所存です。
ornithopterは鳥の形をした飛行機。「搏翼機(オルニトプテエル)」という表現が「花玻璃(ステンドグラス)」、「嵌木細工(モザイク)」と共に印象的で、鳥のように搏翼(はばた)く飛行物体を想起します。「鉄」が「鐵」でなければならない世界。「撥」という宮澤賢治的にも聴こえる擬音も然る事乍ら、それが「心悲(うらがな)し氣」であるところに惹き付けられ、「cicada(シケイダ)」がエフェメラの生命の蝉の如くです。
L'ecrinは工藤様の思い出のレストランだったのですね。さぞかし可愛い宝石のようなプティフールが振る舞われるのでしょう。依然、レストラン、図書館、書店、様々な場所が閉ざされていますね。禁じられると遊びたくなるのが人間の心理でしょうか。やたら図書館の古書物の匂いが恋しいのです。
四月の終わり、「コロナ」の三文字を小説に挿入するとアウトという本当か嘘か分からない情報を小耳に挟み、過去作を改稿したり、連載中の拙作の何処に「夜光虫(ノクチリカ)」を鏤めようかと模索したりして、外出規制中だからこそ捗る思念に身を委ねておりました。
「旧式の」「DNAの螺旋のようなコードの付いた」という属性に関する工藤様の連想、差し支えございませんでしたら是非、お聞かせくださいませ。失礼しましたm(__)m
作者からの返信
宵澤樣
いつも当方のネタを拾って下さるお優しさに甘え、ついつい水を向けてしまいましてこちらこそ失礼しました。お付き合い下さり恐縮です。かかる「失礼」をば一向に止めないところにこそ「絶対永遠少年」たる所以の児戯性が潜んでいるのやも知れません。坂口安吾が「青春」を「老成せざる者の愚行」と表していたことを思い出します。ただ、社会生活においてはともかく、言葉の前ではいつも「少年」のようにいたいものですが……。
「現実には存在しないであろう絶対的な少年少女」、これは少年少女のイデアとでも表しうるでしょうか、そういったものが存在できるところも文芸の面白みの一つですよね。
ここ最近はコメント頂戴するを良いことにネタばらしばかりで野暮ですが、本作は私が未だ本当の少年だった頃の思い出に根差して書いたものです。中学3年の夏休みに「英語で俳句を作る」という宿題が出されまして、
After burning its own life, a cicada falls silently.
音すれば 命燃え尽く 蝉の骸(から)
と試行錯誤して作って提出したところ、これを先生が随分と褒めて下さったのです。その後、夏の終わりの教室では「cicada」を極刑の意味の掛詞で用いる「You are (a) cicada=おまえはシケイダ」等と中学男子特有の下らない言葉遊びが流行する仕儀となったわけですが、昨年、ふとそのことを思い出し、一話として成した次第です。
通常は「オーニソプター」と表記するのでしょうが、「搏翼機(オルニトプテエル)」は上田敏の詩集から拝借した語彙です。私は蝉が些か苦手なのですが、時折、道端に落ちているその翅だけを見つけると、綺麗で「栞にしたいな」などと思い乍ら、結局は思い留まるということを毎年繰り返しております。宵澤さんは彼奴らが落ちて土瀝青(アスファルト)に叩き付けられた瞬間の音をお聞きになったことはありますか?「撥」は本当にパチンとしか表しようがなく、哀しげな音に聞こえました。今年も、いつの間にかcicadaが命を燃やして静かに落ちる季節がやって来るのでしょうね(始まる前に終わりのことを考えてしまうのは、どうにかしたいものです……)
世情の物怱、まだ暫く続くのでしょう。私も友人と四月下旬に行くはずだった食事の予定をキャンセルし、3月下旬に借りた本も図書館の貸出期限が延長されて未だ返却できていません。本もひたすらネットで購入しています。今は待つしか無いのでしょうね。自宅は幸か不幸か「古書物の匂い」には事欠かないのですが、洩れなく埃がおまけで付いてくるのが玉に瑕。空気清浄機は必須アイテムです……。
>「コロナ」の三文字を小説に挿入するとアウトという本当か嘘か分からない情報
初耳です。そうなのですか。デマ情報との混同が忌避される向きでもあるのでしょうか……?
さて、随分前置きが長くなってしまいましたが、例の「旧式の」「DNAの螺旋のようなコードの付いた」の属性についてです。
「旧式の」は、勿論、技師が時代の流れから取り残されている存在であることの表徴なのかも知れませんが、私にはこの技師が「結節点」のような気がしたのです。巧く表現できませんが、〈時間の流れ・現実〉―〈技師と旧式の電話〉―〈時間の停止・夢〉といった具合です。この場合、〈時間の流れ〉=更新され続ける現在と、〈時間の停止〉=永遠との間に位置する〈技師と旧式の電話〉は〈生〉と〈死〉の間に存在する〈過去〉に等しいのではないかと考えました。
私は「森林の中の一軒家は―」以降を拝読し、ここから如上のラルムとその母が生きる「現実の」物語現在と「夢の」永遠との間の、何らかの「過去」を技師と旧式電話に読み取っ(てしまっ)たのです。「端末の電波が届かない場所」とは物理的なものであるとともに、時間的なもの、すなわち携帯電話のない「過去」と捉えることも出来るからです。そうなると「旧式」の電話は、現在における「時代遅れ」の表徴を超えて、語り手の視点から見た「過去」を暗示し、その意味で物語の時間は「破れ」「歪み」を生じることになります。そしてそれは、同時に夢と現の渾然一体する「あはい」にもなり得るのです。類似の手法が用いられた作品として「崖の上のポニョ」を私は想起しました。
「DNAの螺旋のようなコード」はラルムを救う助けを呼ぶための電話のコードであるとともに、夢(内)と現(外)との「綱引き」の中でラルムを現実に繋ぎ止めるための唯一の命綱でもあり、あるいは此岸(生)と彼岸(死)を結ぶ連絡通路でもあり、更に妄想を逞しくすれば、母がラルムを何らかの形で「産み直す」ことを暗示する「臍の緒」なのではないか。DNAから連想される「gene(遺伝子)」の原義を強いて漢字一字で表せば「産」になると思うのですが、そこから「generation(世代)」や「generate(生み出す)」などが派生しますし、或いは「螺旋」は「禍福はあざなえる縄のごとし」よろしく、幸不幸の表裏、夢現の表裏反復関係を暗示するのではないかと、そうイメージしたのです。母のラルム「産み直し」に加担する技師は、「父」の表徴となり得ましょう、
……などと、妄想もあまりに過ぎました。又しても長文であるのみならず、意味不明もあろうかと存じますが、いつもそんなことを考えながら、御作、拝読しております。普段はあまりここまで考えることもないのですけどね……笑。
L'ecrinへの応援コメント
安全か危険かは別にして、工藤様は「絶対永遠少年」ではないでせうか?
工藤様には、こうして「拝顔」しているという印象が強いのです。有難いことでございます。こちらこそ今後とも宜しくお願い申し上げますm(__)m
「雪苑生」は実際に北海道の景色を目睫の間に記された御作品だったのですね。仰るとおり「雪」を「そそぐ」「すすぐ」「きよむ」と、「木洩れる」の如く動詞化したいものですね。共犯者になりませう。
「L'ecrin」……こちらはフランス語でありロマンス語ですね。鏤められた記号が、海辺に生きる星々の煌めきに見えて、個人的に、とても好きな世界です。宝石箱をひっくり返したような地上の星たち。海色であり天色である絨毯が拡がり、青玉石や灰簾石や珪孔雀石が星群の如く煌めくさまから、工藤様より「魚座のアステリスム」というコメントを頂戴した日のことを思い出しました。「星群(アステリスム)」は勿論、このたび「夜光虫(ノクチルカ)」の煌めきにも激しく心を奪われております。「夜光虫(ノクチルカ)」……またまた共有希望です。
ところで、矢川澄子さんと言えば澁澤龍彦夫人であり、自らも少女コレクションに入ってしまえるような印象の御方。矢川さんや山田登世子さんの膨大な著書を熟読するには至らず、欠片に出逢っただけの私ですが「束の間(エフェメラ)」に惹かれ、拙作に縫い付けたのです。しかし「エフェメラお嬢様」単体の扱いは難しいものですね。此処は是非、ペアグラスの趣きで、束の間と永遠を並べるべきかもしれません。
「観用少女」は、まさに「観るという用途のための少女」と「植物のように育むための少女」の両方の暗喩ともとれるのですが、「育む」は相応しくなくて「羽包む」です。少年の時と同様に少女の時と云うのもエフェメラで、そのエフェメラの奇蹟を体現する「生き人形」が「観用少女」なのです。此処に少女としてのアイデンティティより人形としての持たない自我が優先されているように思えて、水に揺蕩うオフィーリアの如く美しく感じられるのです。
「自動洋琴弾き人形」に「自操」性が残るのか「傀儡」性が勝るのか。はたして、どちらが少女として至高に美しいのか。改めて考えさせられる工藤様からの御言葉に、いつもながら感謝いたしておりますm(__)m
作者からの返信
こちらこそ、いつも拙文への丁寧なご感想、お伝え下さり有り難うございます。
なるほど「絶対永遠少年」ですか……同じ「工藤」ながら、私は「見た目はオトナ、頭脳はコドモ」のままで、某推理漫画の主人公とはアベコベだなと常日頃から自嘲しておりましたが、見事に見抜かれてしまったのですね。そうしますと、語彙の「共犯者」として与同して下さるとのこと大変心強いのですが、不本意にも私にショウネン法が適用されて「共犯」を免れてしまう可能性がありますから、その場合はご容赦下さい(嘘です笑)
L'ecrinというタイトルは実は個人的に思い入れのあるレストランの名前から拝借したものでして、そのお店では店名に相応しい「宝石箱」が食後のワゴンサービスでテーブルにやって来て、可愛らしいプティフールを振る舞ってくれます。数年前に改装して雰囲気がガラリと変わった後もやはり変わらないその「宝石箱」に、昨年の初夏に久しぶりに逢いに行ってから思い立って書いた散文が本作でした。
幼時よりギリシャ神話を愛読していたためでしょうか、これを元にした星座の「アステリスム」という語も私にとっては特別な語彙です。「星群」の外に中国的な(のかな?)「星官」という表記例もあるようで、こちらも我がLexiconの中で使われる時を待っています。何やら幻想的で可愛らしい「夜光虫(ノクチルカ)」もぜひ共有しましょう。ちなみにその織り成す「地上のアステリスム」は日本でも見られるらしいのですが、私が見たのはモルディヴのバードゥという島のものです。「ことばの限界」というものが確かに存在するのではないかと否応にも考えざるを得ないほどに美しい光景のように思えました。
さて、先だっては、最大限の敬意を表すべきオリジナルの「束の間」を差し置いて「刹那」や「瞬霎」に「エフェメラ」を宛てるなどしてしまいましたが、やはりまずは「束の間(エフェメラ)」というオリジナルの借用に徹し、これを如何に我が語彙世界に迎え入れるかに心を砕くべきなのだと思い至りまして、ペアグラスとしての「束の間」と「永遠」、この線で一つ考えてみるつもりです。多くの書店や図書館が自粛中の現況にあって、矢川・山田両女史のご著書も落手に時間が掛かりそうなのが残念ですが、書きながら待とうと考えております。
少女少年、やはり奇蹟的な存在なのでしょうね。お話をお聞きするだけでも、「観用少女」という存在は確かにエフェメラの「奇蹟」について考えるに当たって大きな示唆を与えてくれるように思われます。「少女としてのアイデンティティより人形としての持たない自我が優先されている」という部分を拝読して、私などは、些か脇に逸れてしまうかも知れませんが「源氏物語」の女三宮を想起しました。朱雀院の皇女という高貴な血統と、源氏の妻となってなお消えぬ少女性、そして柏木との密通を拒む強い意志を持てず、不義の子である薫を成してしまう……「あさきゆめみし」の光なき黒目がちな女三宮は、まさに自我を持たない「美しい人形」そのもののようでしたが、「少女」「女三宮」「水に揺蕩うオフィーリア」には何か共通しているものがあるように私には思われます。曰く言い難いのですが……などと、また熟々と書き散じてしまいました。いつもながらお付き合いさせてしまいまして申し訳ございません。
御作の最新話は意識が確りしている時に改めて拝読しにお邪魔させて戴こうと考えております。宜しくお願い致します。
雪苑生への応援コメント
工藤様、こんばんは。
語彙世界、私の心が落ち着く場所に、なりつつあります。ハイドンの名によるメヌエットを再生しながら「雪苑生」を拝読しました。造形的に美しい音を聴き、造形的に美しい語彙を拾ってしまいます。「雪(きよ)める」……迷いなく拾って手離したくない。使わせて頂きたい語彙です! 「時」のバリエーション、「旹」のみならず「季」も、四季折々が見えるようで良いですね。既存の表現の枠を超えた文学散歩、締め括りに矢川澄子先生の名が! かつて矢川先生の『「父の娘」たち‐森茉莉とアナイス・ニン-』を読み、「少女とは、年齢とは関係ない精神現象としての内なる少女」であると確信。内なる少女。書きたいです。その姿を、長野作品の中にだけ存在する少年の絶対的な佇まいの美しさで書ければ、素敵でしょうね。ところで、件のイラストは「黒猫を抱いた少年」でしたか❤「猫と少年」は似合いますね。「猫と少女」より、しっくりくると思えるのは何故でしょう。
「人の時間も月の回帰や季節のように循環すればいいのに」とは、そのとおりですね。少年に限らず人間とは、"易老學難成"と感じてしまいます。一方通行の時間に流されるまま。ところで"El arte est largo, la vida corta"は「アートは長く、人生は短い」と訳せるのですね! 工藤様は仏語にも詳しい御様子。尊敬します。異国に、お住まいになっておられたのでしょうか。私は日本国に閉じ籠もり、学生時代の第二外国語というもので仏蘭西語を選択していたものの"易老學難成"です。ほとんど忘れてしまいました。記憶は束の間……「束の間」と書いて「エフェメラ」、この表現は山田登世子先生著『世紀末夢遊』からの引用でした。『世紀末夢遊』は、川原由美子先生著『観用少女(プランツドール)』という漫画の『②巻末オマケ』……漫画に寄稿された文章。工藤様、お目が高いです!「観用少女」と書いて「プランツドール」は川原先生のセンスです。拙作で真似をして「自動洋琴弾き人形」と書いて「オートマティックメロディードール」とルビを振りたい衝動に駆られましたが保留しました。
閑話休題、工藤様の御作品で「束の間(エフェメラ)」に出逢えたら素敵です。是非是非お願いします!
作者からの返信
宵澤樣
馬琴はさぞ喜ぶでしょうけれど「閑話休題」だなんて仰らずに……コメント大変興味深く拝読しました。いつも有り難うございます。何より、うんと独り善がりに、自分の愉悦のためだけに書き散らした趣味の散文に、冒頭のようなお言葉を頂戴し、感に堪えません。私にとっては「のっぺらぼう」のように漠然としていた「読者」という存在(諸方にはご寛恕の程を……!)に、具体的な「お顔」が意識できるようになりました。私にとって宵澤さんはいま、最も印象の強い「お顔」をお持ちの読者のお一人になっています。今後ともよしなにお願い申し上げます。
「雪苑生」は実は北海道の山間の町にある、とある公園でかつて目の当たりにした光景を書いたものです。実際にはキタキツネのものらしき足跡の蛇行が二列横切ってはいたのですが……。ラヴェルを聴きながらご高覧下さった由、音楽に造詣の深い宵澤さんであるだけに、何やら面映ゆいです。
さて、「雪」を「雪(きよむ、きよみ)」と訓ずる用例は現在、ほぼ人名としてのものが殆どのようですが(「雪美(きよみ)」さん、など)、「雪(そそ)ぐ」「雪(すす)ぐ」とともに中古・中世・近世と通じて用いられた「雪(きよ)む」「雪(きよ)し」という動詞・形容詞としての用法は、現代でももっと見られて良いのではないかと思います。市民権を得るために、「木洩れる」の時、旹、季、いや穐?のようにまた「共犯」して下さるのでしょうか?(笑)
私も旅行以外では日本から出たことがないので、欧州での生活に一抹の憧れもある一方、やはり住むなら日本が良いということも折々にあり……身一つでは如何ともし難いところです。
宵澤さんは第二外国語が仏語だったのですね。私は高校時代の恩師に「簡単だから」と唆されまして……第二外国語はなんと朝鮮語でした。だからなのかな、御免なさい、"El arte est largo, la vida corta"の"est"はスペイン語のタイプミスで、正しくは"es"です。意味は大丈夫だと思いますが、まんまと馬脚を露わしてしまいました(汗)。でも仏語などのロマンス諸語は概ね好きでして、怪しいながらも一寸だけ囓っております。恐らく語源・語根としてのラテン語に興味があるのでしょう。和漢洋問わず古典語への興味こそ私にとっての宿痾のようです。
矢川澄子さん、私は専ら澁澤龍彦夫人としての印象が強かったのですが、そうでしたね「永遠の少女」! 『「父の娘」たち‐森茉莉とアナイス・ニン-』、又ぞろ恥ずかしながら未読なのですが、「年齢とは関係ない精神現象としての内なる少女」、森茉莉さんはイメージにピッタリであるような気がします。面白そうです。矢川さんもエフェメラの「お母上」こと山田登世子さんもそうですが、お二方ともご著書のタイトルが興味をそそるものばかりですね。気になって少し調べてみたのですが、山田先生のご著書やご論攷の中にエフェメラの登場するものが、ご教示下さった『世紀末夢遊』も含めて幾つかあるようで、この言葉への愛着を感じます。ご教示下さったのを縁として、いずれ折をみて幾つか読んでみようと思いますので、その時はきっとまた感想をお伝えすることお聴し下さい。
ということで、私もまずは「エフェメラ」を何とか我が語彙世界にお迎えしたいところです……が、「エフェメラ」、いや「エフェメラ」お嬢様は、いざ使おうと思うと結構難しそうなのです。「束の間」以外に宛てられないかと、実は試みに拙文中の「刹那」や「瞬霎」「須臾」などに「エフェメラ」を宛ててみたのですが、どうにも相応ぬ感じになってしまいます。やはり「束の間」が一等相応しいのでしょう。ただ、語彙としての耀きが思いのほか強く、既成の文中にこれを安易に布置することが慎まれますので、この気高いご令嬢をお迎えするには、恐らく語彙世界を新たにご用意する必要がありそうです。今は戦争や疫病をテーマにした語彙世界を構築中ですので、それを終えてからになりましょうが、きっとお楽しみに。
川原由美子さんの「観用少女」という語もオリジナリティがあって好もしいですね。「観るという用途のための少女」ですか。プランツ=plantsですと「観葉」植物と工業生産物という両義(なのかな?)、 あるいは他義もあるやもしれませんが、いずれにしましても自らの世界観で適切な「名指し」ができる造語力というのは見習いたいところです。ラルム君にも、あるいは彼の「運命」に相応しい名指しが、物語の最後に用意されていたりするのでしょうか、いや分かりませんが……私などは「自動洋琴弾き人形」に「自操」性が残るのか、それとも「傀儡」となるのかが結構気になっております。
ここまで、また雑駁なお返事となってしまいました……「黒猫を抱いた少年」であったこともある、しかし今は絶対危険な元少年としてお詫び申し上げます。
太陽虧への応援コメント
工藤様、コメントを失礼いたします。
「末嫩(うらわか)い」は春に、ぴったりの語感ですよね。連載中の拙作で、いずれ用いたいと計画中です。計画倒れにならないよう、春の萌しが残るうちに実現させたいものですが、どうなりますでしょう。
「案下某生復説」「紹前齣復説」「劫説」、これらの印象的な語が『近世説美少年録』に載っているのでしょうか? だとしましたら、お恥ずかしながら知る世界ではないところ。参考になさっている著書も未知の書物ばかり。いつもながら語彙世界の存在と、工藤様の使命感に敬意を表します。少年と言えば『絶対安全少年』のイラストの話の続き……あの本の和装少年は何とも麗しく(和装に限らず麗しく)、まさに「末嫩(うらわか)い」という表現が嵌まりました。
月の「盈(み)ち虧(か)け」……「満ち欠け」より断然、ミステリアスです。朔と萬月をうつろう姿をいっそう、幻想的に伝えてくれる語彙に思えるのです。
作者からの返信
宵澤樣
いつもコメント有り難うございます。
「末嫩い」が宵澤さんの御作で拝見できるかも知れないとのこと、その「末嫩い」がどのように「羽包まれる」のだろう、などと考えながら悠暢と楽しみにしております。
「案下某生復説」以下、中国俗語表現を意識したとも思しき話題転換語は馬琴の『近世説美少年録』に散見されます。私も初めて読んだ時は唸りました。同作の活字本として参照しやすい新編日本古典文学全集(小学館)の頭注では、例えば「紹前齣復説」について「前齣ヲ紹《つ》ギテ復《ま》タ説ク」の意とあり、現代語訳では「さてまた」となる具合です。他にも「間話休題《あだしごとはさておきつ》」「不題《こゝにまた》」「折衷本齣逓説《さてもそののち》」などが見られます。漢字の表意とやまとことばの音色を組み合わせたこういった義訓というか言葉遊びこそ、近世戯作の魅力、言葉を「使いこなす」お手本のように思われてなりません。既存の表現に甘んじない、表現の摸索の営為が垣間見られるからです。
『絶対―』ポプラ文庫版のあとがきによれば「単行本の当時のイラストも、ほぼそのまま収録している」とのことですので、文庫版〇三五頁の、黒猫を抱いた少年のイラストは「遊郭の少年」中に挿されたものである可能性が高いと思われます。仰るように、例えば「読み違え「少年」詩歌集」に所載の、涼む浴衣の少年のイラストなどは、柔らかな骨格の描写に起因するのでしょうか、何とも言えない艶があるように私にも思われ、確かに「末嫩い」がピタリと嵌まりそうですね。長野作品に登場するような、佇まい、所作、言葉遣いに「礼節」を持った少年は現今なかなかお目に掛からなくなりました。
「盈虧」、天象が未解明だった時代の妖しげな雰囲気を纏っていて私も好んで使っております。そういえば、人の時間も月の回帰や季節のように循環すればいいのに、などと思いながら『絶対―』を見返していましたら、"El arte est largo, la vida corta"(アートは長く、人生は短い)、"少年易老學難成"とあるイラストに邂逅して、何やら叱られた子どものような心境になりました……。
松蘿契への応援コメント
きらびやかな語彙世界に、お邪魔しておりますm(__)m
気になる語彙は滄海の如く果てしなく、そのなかで最も目を惹いてやまないのが「末嫩(うらわか)く」でした。初々しさと瑞々しさ、未完成の美が伝わるのです。いつか遠くて近い未来に、再び語彙の共有を希望させていただいても、差支えございませんか?
「花唇」に合わさる表現に、勝手ながら心躍ります。
「花笑んで」という言葉、個人的に好きです。
通宵、眺めていられそうな頁に不相変、魅せられました。
作者からの返信
宵澤樣
拙文を少しずつ大切にお読み下さり、いつも有り難うございます。本当に噛み締めて味わって戴けているようで、此方も書き手冥利に尽きます。
「語彙の共有」……何とも心躍るお言葉です。言葉は人類の共有財産ですし、拙文中の語彙も、語形変化など多少改変したり拡張したりすることはありますが、基本的には総て先人の叡智を拝借しているに過ぎませんから、以前の「木洩れる」の時にも申し上げました通り、私にお断りなさらずとも(でも、そのような義理堅さ、宵澤さんのお人柄ですね)、どんどん共有して使って戴いて、あわよくばご一緒に広めて参りましょう。
「末嫩く」は私もお気に入りで、先日「塒出の鷹」の最新話でも使ったばかりです。「花笑んで」も気に入っており、他の拙作も含め、恐らく用例は3例ほどあろうかと思います。「花笑んで」は別の方にも好評を頂戴したことがありましたし、これは流行るかも、いや無理か……断崖絶壁に人知れず香る花園の中で静かに花笑むくらいが丁度良いのかも知れませんね。
「豊穣―」は「型録」ですから、出来うる限り語彙の重複を避ける方針を採ってはおりますが、やはりお気に入りの語彙(と譬喩)は何度も使ってしまいますね……。
東瀛への応援コメント
工藤行人様
このたびは「春の終わり」へのレビューの件、安堵しました。御作品をグレードダウンさせてしまったら、どうしようかと不安でしたので……良かったです。御返信ありがとうございました。
「甘き死よ、来たれ」が少年期の工藤様の記憶に強く結びつく曲であったとは、新たな事実も教えてもらえまして幸運です。100質を「自己との対話」と位置付けておられる工藤様の語彙を拝読しておりますと、不思議に私の古傷に沛然と美の雫が刺さって痛みます。文字への偏愛が疼くのでしょうね。私に、ほんとうの春が訪れる日は、あるのかしら。思いながら「流美」を拾いに参りました。流れる美に身を任せ「滄海(わたつみ)」を渡っております。失礼しました。
作者からの返信
宵澤樣
またしてもお返事が遅くなり失礼致しました。
なかなか「自己との対話」もままならない、忙殺されるばかりの「普通の」日々が突如として去って、「耐えるころなのこの季節」と許りに到来した時間的余裕に託けて参加したものでしたが、結構面白いですよね、100質。
「私の古傷に沛然と美の雫が刺さって痛みます。文字への偏愛が疼くのでしょうね」とは……「詩」が生まれる予感がするのは私だけでしょうか。春って案外、その只中にいる時には気付かなくて、去って初めて気付く、なんてこともあるかのもしれませんよね。吉野弘の「虹の足」のように……。
願わくは「滄海(わたつみ)」に游ぶ宵澤さんの航海が「航(ゆうたり)」したものでありますように。
理義字への応援コメント
工藤行人様
コメント返信を拝読させて頂き「埋義字」が気になりまして、再び、お邪魔しております。
確かに、小学校の国語の授業で「語彙遊び(ことばあそび)」の時間があると、楽しいでしょうね。
此方には「惢」や「甡」や「畾」など、造形が楽しい漢字が沢山ですね。カクヨムで漢字を堪能させてもらえますことに、感動です。
さて、『ことばのブリキ罐』ですが、「特製《豆蔵辞典》」(『絶対安全少年』所収)よりも過去、1992年3月1日・初版発行の本です。《豆蔵辞典》が少年の創作辞書の趣きならば、『ことばのブリキ罐』は長野まゆみさんの自家製辞書の趣きで、ことばの型録であり、資料に創作裏話が鏤められています。
「曹達水(ソーダすい)」「蛋白石(たんぱくせき)」「自動人形(オートマータ)」など、独特な語彙が引けます。《豆蔵辞典》と共に好きな一冊でした。
拙作へのコメントは頂けますと嬉しいですが、あくまでも工藤さまの、お暇の折に。「木洩れる」が「生きている」と、お伝え頂けたことに、安堵と感謝の想いです。ありがとうございますm(__)m
作者からの返信
宵澤樣
応援コメント、いつも有り難うございます。またしてもお返事が遅れてしまいまして相済みません……。
なぜ「理義(りぎ)」なのか、個人的に未だ分かっておりませんし(なかなかニッチな分野のようです)、画数が多くなる分、自然、字の造形がゴツくなって扱いづらいと思わされることもありますが、理義字にはそれを蔽いて余りある面白さ、「なるほど」と思わせてくれる奥深さがあるような気がしています。今後も気に掛けていきたい対象です。
『ことばのブリキ罐』のこと、調べてみると全国学校図書館協議会選定図書にもなっていて、2009年には新装版が出版されているのですね。なのに、そのような本を書店の棚で目にすることがすでに難しいという現実もあるようで色々考えてしまいました……が、宵澤さんが御教示下さったところから興味を惹かれまして、実は幸いなことに近々に落手できる運びとなっております。届くのが楽しみです。
御作にも近々にお邪魔させて頂きますので、宜しくお願い致します。
貉睡の晨への応援コメント
工藤行人様
また、お邪魔致しますm(__)m 御親切な、素晴らしき語釈でございました。
「青柳のまゆにこもれる糸なれはくる春のみそ色まさりける」をはじめとした古語の世界の、平仮名表記の「こもれる」も、また味わい深いです。大気や空気が動くとき「こもれる」を使いたくなってまいりました。が、現代では「籠れる」と、とられてしまう可能性を踏まえ、重々気を付けて使いたい所存です。「白和え」という名詞はあれど「白和える」という動詞はない。たしかに、そうですね。「木洩れ陽」はあれど「木洩れる」はないところ、工藤さまの語彙の世界から発見・拝借致しまして、家のラルムが大変、喜び光栄に双眸を潤ませております。本当に有難うございました。
工藤さまの語彙の書、私の好きな先生の『ことばのブリキ罐』のように感じられ、また眺めさせて頂きたく願います。正直、工藤さまの世界を分かっているかと問われましたら自信が無く、ただ感じているだけなのですが、それは「美」と対峙する時間ということで、お許しください。気紛れに、この言葉が好きとコメントを送信するかもしれませんが、それも、ご容赦くださいm(__)m
「誩(いいあらそ)」う……此の度、初めて目にしました。工藤さまの自家製の辞書にしか載っていない言葉でしょうか。
作者からの返信
宵澤樣
お返事が遅くなりまして失礼しました。
応援コメント、ありがとうございます。
いつもいつも当方の弄する言辞を一つ一つ丁寧にお汲み取り下さって、コメントやご返信の文面にさり気なく潜ませて下さる細やかなお心遣いに感銘を受けております。
さて、七面倒くさい「取扱説明書(擬き)」にお付き合い下さったうえ、「木洩れる」が、これもさり気なく御作の世界に席を占めて「生きている」姿を拝見しまして、私もここ数日で頂戴した宵澤さんのお言葉を噛みしめながら感慨を新たにしております。
>正直、工藤さまの世界を分かっているかと問われましたら自信が無く、ただ感じているだけ
正直、私自身も同じような感覚でおりまして、むしろ「自分は何に美を感じ、あるいは好もしく思うか」という未だ潜在したままの自己意識を、書くことによって発見していく面白さに魅せられて細々と書いているのが現状です。カクヨムで散文を書いてみて、初めて気づいた性向が少なからずあるのみならず、最近では宵澤さんはじめ、ありがたく頂戴するコメントによって、思いもよらないことに気づかせて戴く機会も増えてきました。ただただ「感じて」下さるというだけでもありがたい……というよりも、美とはむしろそのように享受されるべきものなのかもしれませんね。
>工藤さまの語彙の書、私の好きな先生の『ことばのブリキ罐』のように感じられ、
畏れ多いことです。しかも『ことばのブリキ罐』は未読でして。「特製《豆蔵辞典》」(『絶対安全少年』所収)のようなものでしょうか……? 落ち着いたらちょっと探してみます。
「誩(いいあらそ)う」は当「豊穣なる語彙世界」に所載の「理義字」に参考文献として挙げております『四民童子字尽安見(しみんどうじじづくしあんけん)』(近世、子どもの読み書き指南書のようなもの)の「理義字集」という項目に掲載されていたかと記憶しております。
「林」「森」などのように同じ字を複数連ねたり重ねたりして作られた漢字が「理義字」ですが、他にも「甡(ならびゆ)」く、などというものもあって、思わず唸らされます。こういう〈遊び〉は小学校の国語の授業あたりでやると面白いだろうな、などと思うのですが……。
落ち着きましたら、御作へもコメントを残させて頂きます。
鷹鸇の志への応援コメント
工藤行人様
「木洩れる」を一緒に広めたい者として、まず、感謝の言葉を伝えさせてください。あたたかい御心で語彙の共有を認めていただき、ありがとうございます。
近日中に更新予定の拙作の最新話にて、使わせていただく所存です。同時に「幽けく」も取り入れました。かそけく……平仮名で書いても味わいがあります。一方「嫩い」には、この漢字独特の艶めかしさがありますよね。「わかい」や「若い」では表わせない魅力です。森茉莉氏の小説にも登場していたのですね。「枯葉の寝床」は、図書館の蔵書を借りまして読んだ記憶がございますのに、抜け落ちておりました。記憶を辿ると、もしやボーイズラブ(BL)の先駆けとなる読み物だったのでは、と想うしだいです。確かに「嫩い」は女偏ですのに、彼女の描く少年が魅力的なせいで、嫩く美しい男性に似合う心象を拭えません。エッセイのほうも、萩原朔太郎の息子の朔美氏を褒める言葉として「嫩い」が充てられておりましたので、奇しくも工藤さまと同じ呪縛を背負っているかと。そして森茉莉氏、現代の言葉で表わすと間違いなく「天然」でしょう。そんな彼女を微笑ましく羨ましく想います。卵料理を含め、彼女が食べ物を著すとき、文面が殊に活気付いていたのも可愛らしく想います。
「メラヴィリア」のお話、私の拙い感想から、崇高なパネリストの御発言を思い出していただきまして、畏れ多い。拙いピアノを延々と弾いて時間を浪費する私は、この場に穴を掘って、うづくまりたい気持ちです。
「つくばう」「うづくまる」……まさに連呼の果てには同じ音に聴こえ、工藤さまの探究に、這い蹲っておりますm(__)m
「鷹鸇の志」で大霄に羽を拡げたいところです……「大霄」に「光絢に瑛る蛋白石」の、羞明しいばかりの語彙世界、素晴らしいです☆
作者からの返信
宵澤樣
応援コメント、有り難うございます。
大変嬉しいお話です。「豊穣なる語彙世界」に顕著な傾向なのですが、なべて拙文は必ずしも内容らしい内容を持つわけではない、「語彙の型録」を標榜しております(何時か内容で読者に問いかけるものを書いてみたいですが……)。その「型録」をご覧下さって「お買い上げ」ならぬ「お拾い上げ」(!?)、そしてそのことの丁寧なご報告、このようなことは宵澤さんが初めてです。今後ともご贔屓にお願い申し上げます(笑)
にしても、漢字の含意、そして何より造形というのは本当に奥深いですね。「嫩」は「ふたば」とも訓みますので、強い生命のエネルギーの中にも柔軟さやしなやかさが両立するイメージでしょうか……BL小説の趨りとも評しうる「枯葉の寝床」はじめ、森茉莉作品では青年や少年の中に見出した女性的な美に敢えて「嫩」の字が充てられ、そのことが強調されていたのかも知れませんね。ご指摘のあった、萩原朔太郎のご子息の「嫩」さのお話なども併せ考えると、彼女の持つ「私の美の世界」を分析する一助になりそうです(こんなことを言うと、美に分析など禁物だ! 美はただただ感じられなければならない! と、例のパネリストの先生にお叱りを受けてしまうかも)。
いずれにもせよ、改めまして「木洩れる」のお拾い上げ、有り難うございました。
ラルム樣にもよしなにお伝え下さいませ。
お拾い上げ特典(という名の追記):
「出荷」に当たって、ちょっと気になって「木洩れる」について改めて調べ直してみました。やはり辞典類にこれを立項するものは依然として見出せておりません。が、流石は悠久の歴史と膨大な蓄積を持つ日本語です、前近代の、主に和歌で掛詞・縁語として用いられているやに思われるものが管見に入りましたので、この際、うんと調子に乗ってお知らせします。
最も端的なのは次の和歌です(まだ註釈書や先行研究に当たっていないので誤読の可能性もあること予めご容赦下さい)。
青柳のまゆにこもれる糸なれはくる春のみそ色まさりける
兼盛集
【語釈】
青柳のまゆ:柳眉、美人の喩え
まゆにこもれる:「繭に籠もれる」と「眉に木洩れる」の掛詞
いと:蚕が吐いて作った美しい繭玉の糸、糸=光の比喩
※ちなみに〈糸+光〉で「絖」、普通は「ぬめる」と訓みますが「わた」とも訓み、「わた、きぬわた、まわた」を意味するそうです。
なれは:なれば=~であるので
くる春:「来春」でなく「間もなく季節が春になる」と「これから来る青春期」の両義
色:絹糸としての色美、女性の美しい容貌
以上を踏まえると、柳の下で「木洩れる」絹糸のように輝く光がその下に佇む美少女の顔に差しているのを見て、誰かが、稚齢ゆえに未だ花開いていない「籠もれる」美の胚胎をこの美少女の中に見出し、彼女がこれから大人びて行けば美女としてますます色めくだろうと魅せられている、といった感じの解釈でしょうか。
「青柳」「眉」「繭」が詠み込まれた和歌で、「こもれる」を「籠もれる」と「木洩れる」という掛詞で解釈できそうなものは他にもあったので、一種のテンプレかもしれません。
今そあかぬまゆにこもれる青柳の春のけしきに打なひく比
亜槐集
浅みとりかすむ計の若草に春もこもれるむさしのゝはら
明日香井和歌集
池水に吹ものとけし青柳のまゆにこもれる千代の春かせ
後十輪院内大臣詠草
※光だけでなく風も「こもれる」?
ただし古語の世界の「木洩れる」は原形では無く、〈こもる+り〉、「こもる」の已然形活用語尾「こもれ」に完了・存続の助動詞「り」の連体形が接続した形ですので、厳密には「一語」とは言い難いかもしれません。ただ、例えば〈上ぐ(u)→上げる(eru)〉のように下二段活用動詞の古語は現代語では〈u→eru〉と変化することから、仮に「もる」が「洩る」であれば現代語では「洩れる」に転じていますから、「こもる」が「こもれる」に転ずる可能性はあるように思うのです(いつもながら怪しいですが)。あと、「洩る」「洩れる」の前に「木」をつけて「木洩る」「木洩れる」と認識することの妥当性は、例えば「白(豆腐)」を「和える」から「白和え」として成立した名詞が、「白和える」という動詞へ派生することの妥当性と関連します(「木洩れる」と同様、恐らく「白和える」を立項する辞書はない、もしくは少ないと思われます)。
……などなど、ご使用に当たっては以上の点にご留意下さい。
脱屣への応援コメント
工藤行人様
はじめまして。宵澤ひいなと申します。このたびは拙作に、お立ち寄り頂きまして、誠に有難うございました。
物語るより言葉そのものを書く。工藤様の美学に惹き寄せられ、参りました。
文字の羅列の中に浮かび上がるアトモスフィアの尊重。
工藤さまの世界から学ばせて頂きたく思います。
よろしくお願い致しますm(__)m
作者からの返信
宵澤ひいな樣
コメント有り難うございます。此方こそ初めまして。
拙文は主に漢籍や古典、近代文学に根差しながら、古語の発掘や造語、宛字、義訓といった言語表現の拡張を試みつつ、他でもない私自身が書きたい、読みたいという意味での「美しい」言葉を書くだけの散文ですが、今後もお暇な時にご笑覧下さいますと幸いです。
御修法への応援コメント
考えるな、感じろ。が正しいんでしょうが、どうしても意味を知りたくて調べてしまいます💧
文脈や漢字そのものを見て意味が理解出来るものもありますが、同じ漢字の組み合わせで、別の読み方がありましたので、すぐに探して、なるほど……そういう意味か。と思ったら、最後に註釈があったりして、かなり間抜けな事をしてしまったり……💧
ですが、読んでいて、あ! これ漢字でこう書くんだ! と色々新しい事が解ったり。本当に勉強させて頂いております。
(オン・マニ・パド・メー・ウン と覚えていたのですが。あ、違うんだ! それに漢字で書くとこうなんだ! 等々。です。
必要になったら、もっと詳しく調べてみます)
作者からの返信
森園珠子 様
コメントありがとうございました。
人名・地名に架空のものがありまして……大変申し訳御座いません。修法の名称はすべて実在する(した)ものですのでご安心下さい。
あとマントラの発音ですが、森園さんのオン・マニ・パド・メー・「ウン」で大丈夫だと思います。
拙文では梵字の読みをアルファベットに起こした「hūṃ」をそのままローマ字読みして「フム」と表記しましたが、「阿吽の呼吸」のように、表記・発音とも「ウン」で統一しても良かったかも知れません。
マンガなどでよく見られる「ふうむ」「ふーん」「ううむ」「うん」「むむ」「んー」などは人が口を閉じて「唸る(=「うん」鳴る)」時の擬声語表記で、恐らくこれら全てが「吽」字の発音から出たバリエーションのはずですから、同じ音を聞いても表記がかなり多様なのは面白いですね。
ともかく、頭音でない「はひふへほ」は「わいうえお」と発音しますし(「にほひ」=「におい」みたいに)、「む」も「ん」と発音しますから(「むま」→「んま」→「うま」=馬)、文字表記は「フム」でも発音は「ウン」になり、そのまま「ウン」と表記しても大丈夫……などと考えながら「やはりコトバは面白いな」と思わせて頂きました。重ねて御礼申し上げます。
最後に、拙文の中には既存の辞書に(恐らく用例や典拠が少なすぎて)採られていない(けれど確実に文献に見られる)言葉や、自作の言葉・宛字などが少なからず含まれております。ご不明な点がありましたらば、ぜひお尋ね下さると嬉しいです。
毘藍風への応援コメント
森園珠子です。返信ありがとうございますm(_ _)m
お気遣い、ご心配、ありがとうございますm(_ _)m
ゆっくりになってしまいますが、しっかり拝読させて頂きます。(知らない言葉を調べながらになってしまいますので、本当にゆっくりになってしまいますが💧)
いさよひへの応援コメント
ご無沙汰しております。森園珠子です。コンテスト応募作品を書く為、無理をし過ぎてドクターストップがかかりまして、カクヨムを休んでおりまして……💧
しかし、何より何故かフォローしたはずのこの作品をなかなか見つけられず(多分、私の端末とアプリの相性が微妙に悪い為の不具合だと思います💧)。
改めて、ユーザーフォローさせて頂きました。
これですぐに、この作品と作者様を見つけられます。
本当に時間が開いてしまいましたが、これから、ゆっくりになりますが、じっくり拝読させて頂きます。勉強させて頂きますm(_ _)m
作者様の執筆の妨げになってしまうのは、本意ではありませんので、返信は不要です。(返信は最初のコメントで頂いてますので😊)
作者からの返信
森園珠子樣
執筆の妨げだなんてとんでもないです。
それよりも、その後、お具合はいかがでしょうか?
以前、当作のコメント欄にコンテスト後のご近況を書き込んで頂いていたかと思うのですが、お返事を書く前にそのコメントが消えてしまって、少し気になっておりました。フォローも外れていたということですと、例えば何かアカウントなどシステム上のトラブルでもあったのでしょうか……ともあれ再度、フォロー頂き有り難うございます。
そして何より、ご自愛専一になさってください。
御修法への応援コメント
漢字を探すだけでも大変そうです
ルビがあるから読めるけれど、意味が分からない単語ばかり
解読するな、味わえ(考えるな、感じろ)な作品ですね
作者からの返信
永若オソカ 様
初めまして、工藤行人です。
著者自身ですら眼がチカチカして来る文章をお読み戴いた上にコメントまで頂戴してしまい、大変恐縮しております……。
この文章は、特定のテーマを掲げて同類を列挙していく「ものづくし」という古典文学の形式を意識して書きました(本作の場合は、謂わば「御修法づくし」です)。
その点、カタログとしての性質が強く、ストーリー性は弱いと思われますので、仰る通り、意味を解読すると云うよりは「こんな名前の修法もあるのか」とパラパラめくって味わう感じで読んで戴けますと幸甚です。
期頤への応援コメント
こんにちは。
長寿の吉祥のちりばめられた、慶びをあらわすのに相応しい歌ですね。
この歌で賀された方が、紀寿を超えてもずっとお元気であられますように。
作者からの返信
久里 琳 樣
お久し振りでございます。此度もご高覧下さり、温かいお言葉も頂戴しまして有り難うございました。
父方の祖母が“centenarian”となりまして、滅多に無い機会でもありましたから、拙い乍らにも賀歌の積もりでこうして作文致しました。
学生時代には訳あって毎月のように手紙の遣り取りをし、歳事や天象、また文香など様々なことを教えてくれた祖母です。私が折々の私信に用いている書留文言の「でハ又」は祖母から拝借したものでした……と、相変わらずの「とはずがたり」となってしまいました。お聴し下さいませ。
今後とも遊びに来て下さいますと幸甚です。