応援コメント

ゆたすき」への応援コメント

  • 行人さま

    綾織られたカリグラフを完全に解読には至りませんが拝読いたしました。言葉の編み物の如くの味わいです。経(たていと)と緯(よこいと)の配列、引っ張る力が勁過ぎても弱過ぎても破綻してしまうバランスの世界ですね。
    以下、和歌に明るくない者の感想をお許しください。
    此処に歌われる言葉からは、自然界の美しさ、あるいは奥床しい心情を表現する際のリズムが、心地好く響いてまいりました。仮名表記が、「漢字と行人さまの宛てられるルビ」に変換された途端、季節や色を感じたしだいです。「心」を「裏」と読む表現で「心恋(うらごい)」という言葉がありますね。そういう美しい言葉に心恋しさをおぼえたときに繰りたい頁です。

    先日は返信欄で、またもや厚かましく語彙の共有を希いましたこと、申し訳ございませんでした。以降、やはり気持ちは変わらず、あらためまして、行人さまが令和元年の夏にしたためられた「勿忘夏」より「勿忘死(メメント・モリ)」を共有させてくださいませ。令和三年のmemento(メメント) aestas(アエスタス)。そんな風情にしたいのです。
    「腐敗と今際(いまは)の匂い」の季節が本格的に始まろうとしています。私たち、昨年の今ごろも偏頭痛に悩まされておりましたね。本年度は、その後、大丈夫でしょうか。何卒ご自愛ください。

    ところで、偏頭痛の予兆としての喉の渇き。これは新たな「親和性」の共有でした。偏頭痛のエッセイは、将来的にエビデンスを充実させてから発表できれば……と考えております。かなり先になりそうですが、ほかでもない行人さまと少しでも「痛みの共有」はもとより「癒しの共有」が出来るような内容にしたいと、模索中です。

    「きつき紅茶」を検索して見ました。水色が綺麗ですね。躰にも優しそうです。これは実験段階なのですが、珈琲と紅茶をデカフェにして、頭痛との「親和性」を計測しております。空腹対策にはミサトさんほどではございませんが、UCCミルクコーヒーというお砂糖たっぷりの珈琲も不相変、お供にしていました。
    無理の利くこそ「御青」の春の特権。私も「無茶かも知れませんが、無理ではないと思います」をモットーに、何か新しいことを始めたく、それを可能な範囲で続けたいと考えて動いて(蠢いて)おります。

    春の終わりは夏の始まり。季節の糸に神経が絡まらないよう、大切に過ごしたいですね。いずれ春永に。

    作者からの返信

    ひいな樣

    ご高覧、何時も有り難うございます。
    手書きであれば微妙なバランスを取っていま少し見栄えの良いカリグラムを編めたのでしょうに、已んぬるかなデジタル、というよりも畢竟するところ私の技倆によるのでしょう、殊に斜の襷掛けは已むを得ぬ「蛇行」を生じてしまいお見苦しかったかと存じます。ただ、「引っ張る力が勁過ぎても弱過ぎても破綻してしまうバランスの世界」との御評を頂戴し、まず以て文字列の大きく崩れることなくご覧頂けたのだと安堵致しました。とともに、文章と服飾に纏わる語彙や譬喩に強い親和性のあること改めて実感しております。朝未きにお邪魔しました、ひいなさんの新たなる「楽園」にて「トーションレース」という語を拝見したからでしょうか、編まれた「ゆたすき」にせよレースにせよ、力加減を過てば立ち所に歪んでしまうからこそ大切にしたい、どちらも繊細で愛おしい一つの「世界」に思われてなりません。
    歌には追々、自註を施そうと思案しておりましたが、あるいは読者諸姉兄にご想像の「蔓」を存分に伸ばして戴くのでも善いのかな、と当面は控える積もりでおります(倘も気になる点おありでしたらばお知らせ下さいませ)。何より拙作を先ずは「自然界の美しさ」「奥床しい心情」のリスム、「音」として聞いて下さった後に宛字とルビから「季節や色」を感じて下さったとのこと、何時も乍らお美事な共感覚(シネスシージア)に、「そうだ和歌とは『歌』だったのだ」と気付かされました。それは当然なのですけれど、時折そのこと忘れがちになってしまいます。ひいなさんは詩歌は編まれないのでしょうか? 言葉の凝縮という観点で、ひいなさんの美的感覚は詩歌でも存分に発揮されることでしょうから。
    「心恋」のように「心」を「うら」と読む語彙も、顔=面=「おもて」と対照すると妙に納得できて面白いですね。「ウラ恋」は「オモテ」に出してはいけないというニュアンスも含むのでしょう。奥床しいことです。秘すれば恋、然らば、現るれば……? さて何になりましょうか。「面従腹背」などはウラが「腹」に代替されていますけれど、よくよく考えてみますと、オモテとウラとの関係性は、例えば建前と本音のような対句にも引き写され、「実は……」という枕詞からウラ話が語られるように、概ね後者の方にこそ真実が潜むのかも知れません。

    語彙共有、何なりとお使い下さいませ。さなきだにメメント・モリは人類共有の財産、私はそれに宛字しただけなのですから……。中国語の辞書で調べてみますと、メメント・モリの語釈は「勿忘爾終有一死」などと説き明かされるようです。「爾(なんじ)終(つい)に一死有るを忘る勿れ」、「爾の終わりに……」等と訓じても良さそうです。忘られぬ一夏の物語、次なる仏陀となることが約束された菩薩=未来仏たるミロクの物語の片隅に居場所を与えて下さるのならば恐悦至極に存じます。

    ここ最近は、仕事の立て込み具合もありまして昼夜逆転の著しい生活を送っておりますが、「あれ」以来、偏頭痛が私を見舞うこと幸いにして今のところなく過ごせております。「天然理科少女」によるデカフェ実験の成果や、御自身の臨床体験など数々の「エビデンス」に基づく偏頭痛のエッセイがもし編まれたとしたら、それは私のみならずこれに悩む多くの人々にとっての天啓、「痛みの共有」による「癒しの共有」空間となることでしょう。

    UCCと言えば、大学院生の頃、何かと執筆に詰まりがちな夏には近所の上島珈琲店へアイスコーヒーを飲みに行っていたことが懐かしく思い出されました(そのお店はもうありません)。大粒の汗を滴らせた銅製のマグカップに注がれた酸味の強いアイスコーヒーの似合う季節に、今年も愈々なろうとしていますね。珈琲のみならず「無茶」な生活も私には難しそうなので、ノンカフェインやローカフェインの水出しハーブティーでお茶を濁しつつ夏を乗り切る所存です。頑張るということ、自分にとって「頑なに張る」その限度というのは幾つになっても力加減が難しいものですけれど、強く引っ張りすぎて型崩れしないように、日々を丁寧に編み込んでいきたいものですね。それ茶。

    編集済