応援コメント

蝋引紙」への応援コメント


  • 編集済

    工藤様

    こんにちは、坂本です。

    先日畏れ多くもTwitterにて紹介させていただいた本御作『蝋引紙』についてですが、この傑作により齎された余韻に、私は、今も尚浸っているような心持でございます。

    久しぶりに実家を訪れた主人公の心理についての精緻なスケッチは、恐らくは、工藤さんの私生活を通して感じられたことの反映が、大いになされているのだろうと拝察しております。言葉にならぬ感情を、心理の遠から救い出して言葉にしてやることが、文学者の持つ使命の一つであると、私は考えております(この点、文学者の仕事は、天文学者の仕事と共通するところがありますね。これは私事ですが、実は私は、子供時分はずっと星の研究がしたいと思っていたのでございます)。この使命の御蔭で、いったいどれだけの不可解な感情から、我々は救われていることでございましょう。所謂プラグマティズムの視座から、文学の意義について懐疑を投げかける人も少なくはありませんが(そしてまた、そのような懐疑に対して、我々は往々にして言葉に窮しがちではありますが)、この使命による人間存在への恩恵だけは確かなものとして、文学も少しは胸を張っていいのではないかと、私はそう考えているのでございます。(もちろん、多くの薬がそうであるように、文学が我々の心理に毒として作用する場合も、無いわけではありませんが......)
    そしてまた、優れた言語による表現とは、その言葉言葉が持つ出自を、読み手に詳らかに示してくれるものでございます。「果たして言葉はいったいどこからやってくるのか? 我々の意識すら及ばない心理の最奥に、それらの言葉は予め用意されていたのだろうか? 或いは......?」これは小説を書く人間にとっては常に大きな壁として眼前に立ちはだかる命題でございます。私が如上のように"優れた言語表現"というものを定義しているのも、このためでございます。そして、優れた言語表現に触れた時、我々の心はそこに書かれた言葉たちと共鳴して、そこには一種の法悦状態が訪れるのであります。工藤さんが、自己の心理に於いてなされた果敢な探求の試みの結実を拝読しながら、私はふと、工藤さんの心理と私自身の心理とを重ねているような心持がしてきて、これは大変光栄でかつ愉しい体験でございました。そして私も、多くの感情的困難を、工藤さんの達成した表現によって救われた心持でいるのでございます。

    そして、主人公が多くの思い出とともに実家に置き去りにした「一頁も開かれずに埃の積もった本」というモティーフ......青春という言葉の持つ不条理性が、なんと情緒的に、詩的に、そして的確に、表現されていることでしょう。私には到底このようなものは書けません、脱帽でございます。
    また私は、この青春の不条理に感じ入りながら、このように開かれることのなかった"愛の物語"の、この世界にいったいどれだけ存在しているのかということについて、思いを馳せているのでございます。もしかすると、私の人生の中にも、私が知らないだけで、読まれずにしまった一冊の"シェリ"があったのかもしれませんね。
    そして、本作のタイトルにもあります、健気にも読み手のいない女主人(シェリ)を徒に過ぎる時間から護り続けていた"蝋引紙"について、いったいどのように解釈すればよいのでありましょうか。無理に解釈しようと思えばいくらでも解釈できてしまいそうな象徴でありますが故に、私には反対に、どのような解釈すらも確かな答えには届き得ないだろうという無力感を覚えてしまうのでございます。しかるに、この無力感も、如上の法悦の中に訪れると、なんとも甘い心地のする文学的境地へと、私を誘ってくれるのでございます。
    主人公の最後にとった行動も同様でございます。「何か取り返しの付かないことをしてしまったような恐ろしさ」に思い至り、シェリを見えないように本の山の中に隠した主人公の行動、そしてそのすぐ後に述懐される過去の自分の「自意識」と「羞恥心」への反省。しかし、彼は己の"取り返しのつかない過ち"の象徴たるシェリを、他でもなく彼の「自意識」を養ったに違いない"本の山"の中に、見えないように隠してしまう......ここまで書けば、私はもう彼のとったこの行動に、態々説明を付す必要などないのでございます。それは無粋というものです。
    彼の最後の行動を行うに至った心理の運動は、実に多面的で複雑な構造を持ってはいますが、それでも尚、我々の心理にはこれがどれだけ適していることでしょう。人間とは、斯くも矛盾に満ちた、悲しく、そして愛おしい存在でございますね。

    長々と節度なく語ってしまったこと、最後になりますが謝罪させていただきます。
    今後とも、勝手ながら工藤さんを師事させていただきたく存じます。
    どうぞよろしくお願い申し上げます。


    ---------------------------------------------------------


    令和四年一月廿九日


    工藤様

     こんにちは、坂本です。

     この度は、手前勝手な感想ばかりを並べた無礼とも取られかねない私のコメントに対して、まことに丁寧なご返信をくださり、本当にありがとうございました。(そんな工藤さんのご厚意に甘えて、性懲りもなく、このように追記の形でコメントさせていただいております)

     そして、当方不覚ながら、御作のタイトルにもあります〝蝋引紙〟について、極めて致命的な読み違いをしていたことに、後になってから気が付き、本当に申し訳なく思うと共に、恥ずかしい気持ちでいっぱいでございます。
     何分、工藤さんから過分なお褒めの言葉を頂戴した直後に気が付いたので、「穴があったら入りたい」とは正しくこのことであると、しみじみ、もといさめざめと感じております。
     当方の取った不覚について、どうか御寛恕賜りたく存じます。

     しかしながら、何故私は『蝋引紙』が〝薄い埃の皮膜〟の比喩であることを読み落としてしまったのでありましょうか。原因は、私の貧しい蔵書の中にありました。詰まるところ、これは単なる記憶の固執が齎した、まことに詰まらぬ勘違いであったのでございます。
     私の実家の書架には、デュ・ガールの『チボー家の人々』の単行本があって、私はこれを学生時分を通して少しずつ読み進めていたのでありますが、結局は読み果せることのないまま実家を離れることとなり、今に至るのでございます。そしてそのことが、工藤さんの御作を拝読した折に、ふと頭を掠めたのでありました。何故というに、このサーガの鮮やかな黄色い装丁を護っていたものもまた、不精にも私が購入時よりそのままにしておいた、パラフィン紙であったからでございます。
     私は一度記憶の固執に捕らわれると、自身ではそのつもりがなくても、知らぬうちに恐るべき頑固さを発揮して、別様には考えることができなくなる厄介な性を持っているのでございます……この性も、件の〝サーガ〟と同じく、実家の書架の中に、(柱に刻み付ける成長の証のように)私が独り立ちをする証として、置き去りにしてしまっておけたのなら、どれだけよかったことでしょう。

     ただ、工藤さんが〝蝋引紙〟という言葉で以て表現したことの意図に、(既に手遅れではあるものの)気が付いた今になって、それを私に読み誤らせるきっかけとなったチボー家という長大な青春小説と、工藤さんの御作との印象を考えあわせてみるに、奇縁ともつかぬこの何とも言えぬ不思議な繋がりに、詩的霊感にも近いそこはかとない感の沸くのを(しかし確かに)覚えているのであります。

     私は返信前のコメントで「工藤さんの心理と私自身の心理とを重ねているような心持」がしてきたということ書かせていただきましたが、これはまことの感想でありまして、そこに偽りはないのでございます。それは正しく、工藤さんの優れた文学的心理解剖が、本来工藤さんご自身のみの所有であるはずのユニークな感情経験を(成熟した学問が事象を普遍化一般化していくのと同じように)普遍化一般化し、社会的な言葉として給することに成功したことによる効果、つまり工藤さんが〝文学者の使命〟を全うされたことにより私に齎された効果であることは、確かでございます。でありますが故に、私が自身の経験から工藤さんの御作と照応する事柄を知れず引き出し、重ね、心打たれたというのは全くの必然で、自然科学とは異なり、本来再現不可能な知を扱う文学において、工藤さんの御作が斯様な確かな効果を湛えているという事実に、私は工藤さんの持つ感性と知性との偉大さを思っているのでございます。
     その上で、かく言う私は如上のようなお恥ずかしい誤読を犯したのですから、これは単に私の頭がパァだったというだけのことで、当然ながらこれは全く私の落ち度でございます。

     ここまで書いて、私は小林秀雄のゴッホ論を思い出しております。
     氏曰く、「ただ生まれながらにしての個性は個性に非ず」とのことで、更にまた、殊に芸術家に於いては「磨かれた個性でなければ個性と呼ぶに値しない」という大意のことを書いておりました。
     これは確かにその通りであると私は考えておりまして、絵の心得のない人間がただ野放図に描き散らした絵は、確かに彼だけにしか描けないユニークな絵であることには間違いありませんが、果たしてその絵に価値はあるかと問われると、私の立場は懐疑的です。ポストモダンな考え方をすれば、その絵に価値をこじつけることも可能やもしれませんが、やはり芸術家には一定の訓練、「特殊から脱して普遍(端的に表せば技巧や様式といったもの)へと至ろうとする」訓練が必要で、その練磨の中でこそ、芸術家は個性と呼ぶに値する価値を、己の〝かく〟ものの中に見出し得るのだと、私は考えているのでございます。(私はマッチョな思想に魅力を感じる質の人間なので、芸術に於いてもこのように考える性向が強く顕れてしまうのです……)
     特殊から脱して普遍へと至ろうとする意思は、本来芸術家が持つべき態度とは矛盾しているように思えますが、彼らが自己の特殊を表現するために、どれだけの(一般化された)方法論の助けを借りるかを思ってみれば、これも不思議なことではございませんね。
     そして、小説に就いていえば、絵の場合よりも尚この傾向が強いように、私には思われるのです。三島的言説を用いれば、言葉とは取りも直さず社会的な共有資産であって、また反対に、社会的共有資産であることによって、言葉もまた自らを言葉たらしめているのでありますから、我々が我々の独自の感情を言葉により述懐せしめた場合、本来的な意味での特殊は没却され、個性は普遍化され、文学者の往々標榜する孤独は、この時点で既に社会的な繋がりの中に救い出されているのであります。
     特殊から普遍に至ろうとするその道筋に於いて、終には独自に至るというこの逆説的な営みこそ、芸術的営みであるとすれば、文学者の仕事は、真に芸術的な仕事と言って憚らぬものでございます。
     そして、言葉が社会的な性質を持つ前の状態、安吾曰く文学の故郷であるところのあの〝孤独〟の状態、言葉が言葉になる前の〝心理の最奥〟にある特殊の状態から、社会的普遍へと救い出し、訓練された表現によって、再び特殊を勝ち得るというのには、瞠目すべきものがあります。
     長々と、他者の意見を援用してまで自説の開陳を行ってしまいましたが、私の立場をここまで前置きしておかなければ、工藤さんの成された仕事の偉大さは、十分に説明が尽くせないのであります。(もちろんこれは、私の菲才ゆえの〝冗長〟でもあります。まずもって、御作『蝋引紙』の価値は、一目で十分理解できるのでありますから)

     文学に於ける感情の同化作用は、如上の文学的表現における過程とは逆順の過程でもって我々の心理に去来するのでありますから、そこに書かれたものが日常茶飯の事象を描いたものであれ、表現のされかたが偉大であれば、その偉大な表現の恩恵は、我々の心理の日常茶飯の光景に浸透して、我々の人生をより華やかなものにしてくれるのであります。文学を「死の準備」のために役立てようという人も多くおりますが(そしてまた、文学は我々の死に際して大いに役立ってくれるであろうこともまた確かではありますが)、どうにかして、私は生きるためにこそ文学をしたい。私のこの希みの大きな励みに、工藤さんの御作はなってくださいました。
     人生の内に、友人と呼べる小説に出会える機会は、そう多くはございません。そして、友人として持つべき小説とは、我々の死に様ばかりではなく、生き様を、彩ってくれる小説であると、私は信じているのであります。

     また、私に対して、様々有難い励ましのお言葉をかけてくださり、まことに、まことにありがとうございました。
     特に「~~読まれずにしまった一冊の"シェリ"があったのかもしれませんね」の箇所を気に入っていただけたとのことで、私自身、大変うれしく思っております。最初に御作を拝読してから二週間余が経ちますが、この「読まれずにしまったシェリ」への感慨は、今も尚私に夢心地のような文学的甘露を味合わせてくれるのでございます。これは本当のことです。決して阿りではございません。
     ふとした時に、物語の中の二人が、〝主人公〟と〝哲学少女〟が、私の胸裏に浮かんできて、私自身の青春の悲しさや後悔、これら芸術への羨望を、贖ってくれるのでございます。私が「眠れる乙女」でやろうとしたことを、斯くも的確に、表現されてしまった、そんな心地でおります。そしてまた、このことと関連して、例の勘違いに気が付いたとき、御作について新しい解釈が私の中に萌したのでございました。

     文学的衝動という言葉が正しいかは分かりませんが、我々小説を書く人間には、〝衝動〟の去来する瞬間が、全生活に亘って、(全く思いもかけない場面にさえ)存在しております。
     この衝動の所以は一体何処に萌しているのでありましょうか? 現在という瞬間瞬間を、捕えて放したくないという一種の恐れに原因しているのでございましょうか? それとも、すでに〝失われた時を求めて〟惹起される後悔が、この衝動の正体なのでございましょうか?
     このようなことに思いめぐらせたとき、件のシェリの上に〝蝋引紙〟のように積もった埃が、その下で窒息していた真新しい頁たちが、主人公の後悔が、知られざる少女の思いが、それらすべてのものが互いに重なり合うところに、文学的衝動ともいうべき清浄な肉欲(私は慎重に、この語を選びました)の実態が浮かび上がるのを予感したのであります。
     実力不足の故に、この予感を確かな言葉で表現して見せるだけのことが、私にはまだ出来ません。予感は予感のままで、私の心理の最奥で、言葉にならぬままの孤独として留まっております。
     この孤独をどうにかして言葉にしてやりたい……ここにも例の衝動が、潜んでおりましたね。

     先日お話させていただきましたが、現在私は所謂私小説を書いております。が、正直かなり難航しております。人生をモティーフに取ったときの、その主題の余りに漠然とした状態(或いは虚無状態)を前に、立ち尽くしてしまっているのでございます。(それに、私の人生は余りに支離滅裂としすぎています)
     ですが、今お話しした工藤さんの御作から得られた新しい予感が、私の私小説の中で一つの結実を見せるのではないかという、またもう一つの〝予感〟も、今私の中に芽吹きつつあるのでございます。
     開花の折は、どうぞ御照覧いただけますと幸いです。

     また、最後に、私のコメントのプラグマティズムの件りを受けて表白してくださった工藤さんご自身のお考えを拝読し、まことに忸怩たる思いになりました。
     私もまだまだ若輩者でございますね……仕事柄、どうも実利ということに煩わされてしまい、それらが私の書く言葉にも夾雑してきて、悪さをしているようです。技術者の捧げる金属への崇拝は、それ自体は極めて純粋で高潔な信念を持っていると、私は信じているのですが、これがどうにも……
     それと、弟子入りの申し出、むなしくも玉砕してしまいましたが、この件も含めて、これほどの工藤さんの御好意を前にしては、後に私がすべきは、工藤さんを(尊敬すべき)友人と呼べるだけの気概と自信とを持つことなのでしょうね……何れにしても、今以上の克己と練磨とが必要であることは明白なようです。

     文通の件、是非今後とも続けとうございます。こちらの方こそ、よろしくお願い申し上げます。

    作者からの返信

    坂本樣

    坂本さん、宛名の「樣」付けだけは何とぞお見遁し下さいますよう……。

    「蝋引紙」の如き薄い埃の皮膜に覆われていたのは『シェリ』のみならず、此方にて投稿してからも已に二年半(別処に投稿した初稿より算えては五年)を経ている当拙文にあっても又同様であった中で、この度、その皮膜を取り除いて見出して下さいましたこと有り難うございました。
    坂本さんが新たに「読み」の風と光とを送り込んで下さったお蔭で、擱筆後の私の心裡に積層していたコトバ以前の埃も再び無数に舞い上り、ダイアモンドダストのように応輝して燦めき出した、そういった光景を見させて戴いたような気が致しております。何より深掘りされたコメント自体が一つの書評、一つの作品のようで大変読み応えがあって、著者乍らに新鮮な気持ちで拙文を読み返す好機となりました。

    ご皎察のように当拙文はお言葉を拝借すれば「スケッチ」「私生活を通して感じられたこと」に相違ありません。我が実家に残された「抜け殻」の裡に在って眼にしたものと、そこから抑え難く萌した感思とでも申しましょうか、それを無聊に耐えかねて慰みに手控えたものを資としております。初稿は『生物準備室にて』と同様、是又しても「即興小説バトル」に投稿したものでして、その時のお題は「僕が愛した悪意」、必須要素は「フランス」でした。初稿の日付が2017/4/29ということですから恐らく黄金週間、そして改稿したものを『語彙世界』にて再掲したのが2019/8/15ですから此方はお盆、孰れも実家に滞在中だったことに今更ながら気付かせて戴きました。已に私にとっての非日常的空間に転化している実家にて、徒然として何事か惘りと思い巡らす時間から生まれ出た産物ということになりましょう。

    模糊とした感情が名指しによって具体的な輪郭を得ることで「我々の心はそこに書かれた言葉たちと共鳴して、そこには一種の法悦状態が訪れる」、輪郭として画されたのにも拘わらずそれと「ユニゾン」したり「同化」できたりするという逆説的なこの「作用」が文学の愉悦を支えるのでしょうか。であるならば、拙文ご高覧下さり「工藤さんの心理と私自身の心理とを重ねているような心持がしてきて、これは大変光栄でかつ愉しい体験」と仰って下さいましたこと、著者冥利に尽きるというものです。重ねて御礼申し上げます。

    そして「言葉にならぬ感情」を「救い出して言葉にしてやる」ことは、取りも直さずそうやって「言葉にならぬ感情」「不可解な感情」の沼に溺れるその人自身を「救い出」すことにも通ずるのでしょうね。これも文学のいま一つの「作用」であるように私にも思われます。極めて卑近な譬えで大変恐縮なのですが、原因不明の不調を来して心身共に優れない人(例えばある日の私)が、医者から具体的病名を告げられることによって幾分か安堵して心持ち楽になるといった、自意識では何とも抗し難い心理作用を思います(余りに深刻な病だとこの限りではないものの)。何かしらの「名指し」=言語化によって、漠然と「何かある」状態からそれが「何である」か解った状態に転化した時の安堵感……文学におけるそれは正負で言えば正の「作用」でありましょうし――対して負の「作用」、つまり「何であるか」解ることによって、安堵とは逆に振れて悔悟や絶望などに逢着することとて勿論ありましょうが、そこには何らかのカタルシスが伴っていて欲しいものです――、その「作用」を、慥かに坂本さんの仰るように「使命」と表せる人こそ「文学者」と呼ぶに相応しいのかも知れません。ですから、私が文学の「作用」としてしか認識していなかったものを、他でもない「使命」と名指しておられるところに、「文学」に対する坂本さんの向き合い方を見る思いが致します。以前、twitterにて「御自身の人生の時間のどれほどを文学と向き合って過ごして来られたのかと思い致しております」とリプライをお送りしたことがありましたけれども、この度のコメントを拝読した後もやはり同じような感慨を持ちました。やはり坂本さんは作家になるべき方だと僭越にも思わずにはいられません。のみならず「文学の意義」について真摯なお考えをお持ちであることからも私はそれを確信致します。

    時に、「プラグマティズムの視座」から「文学の意義」に投げ掛けられる懐疑に対して「言葉に窮する」、私なりに噛み砕いて解釈すれば「擁護すること即座には難しい」のは、恐らくその懐疑に慥かに一理あるからなのでしょうけれども、反面、私などはそういった懐疑の眼差しから「即座に」「反射的に」文学を擁護することそれ自体がそもそも不可能なのではないかと考えております。大前提として「土俵」が違うのではないかと……「文学の意義」は、心裡の表層的動きだけ追っている段階という意味での〈日常〉において認識されるものではないのではないか、譬うればそれは〈日常〉の中で、ある時ふと陥ってしまった深い落とし穴の中で藻掻き乍ら、つまり心の表層でなく深層においてこそ噛み締められる筈のものであるように思われるからです。
    私は、人間がrealityとimaginaryの双方を認知する能力と言葉を持つ動物である限り「文学」は何らかの意義を持ち続けるだろうと楽観しております(realityとimaginaryの件はシン・エヴァンゲリオンの請け売りです)。「文学の意義とは何か」、よりドラスティックには「文学が何の役に立つか」「文学は必要か」といった問い立てによって「文学」の無用性について力説される方もおられます――そして私はその方の人生にとって文学が無用であったという事実を、皮肉でなく最大限尊重します――けれども、「ではなぜ文学は無くならないのか」という問いに明確な回答を与えられる、与えられた方を私は寡聞にして存じ上げませんで、その点からしましても、主観的な価値判断によって見出された「意義(の有無)」よりも、「存在している(無くなっていない)」という儼然たる事実の方にこそ私は与したくなってしまいます。それこそ「文学の意義」に対する懐疑への、恐らく揺らぐことのない不変の回答だと思うからです。

    やや筆が滑ってしまいましたので軌道修正致します。

    感傷的に偶成した当拙文とはいえ、著者なりにモティーフや暗喩の操作を施していた(積もりの)中で、殊に「一頁も開かれずに埃の積もった本」が「遅れて開かれる」ということ、そしてそれを再び閉じて「本の山」に隠して見えないようにするということ、その本が「シェリ」であることに籠めた含意など「仕掛け」ておいた事毎に的確なご解釈、流石という外ありません……何やら丸裸にされてしまいそうでお恥ずかしい限りなのですが、そこはお察し下さったのでしょうか、解っていて下さり乍ら総て書かずに「書き隠す」ということで以て応じて下さった坂本さんのご厚意に改めまして深謝申し上げます。此方こそ脱帽でございました。そして「私の人生の中にも、私が知らないだけで、読まれずにしまった一冊の"シェリ"があったのかもしれませんね」とのお言葉が私には一等嬉しうございました。

    最後に「師事」はお断り申し上げます。私は慥かに坂本さんより「先」に「生」まれた存在であるには違いないのでしょうけれども、書き手としても読み手としても畏るべき「後世」こそが真実、「師」と仰がるるに相応しい存在なのです。願わくは、時折、140字では到底尽くせない所感を往復書簡のように送り合うことを細々とでも続けさせて下さいますればこれに勝る歓びはありません。何とぞ、ご無理のない範囲でご検討下さいませ。でハ又。

    追伸
    お名前の「恒」の字を旧字の「恆」になさったのでしょうか。twitterにて“to be or not to be...”を拝見しましたからには、即しや新潮文庫版、福田恆存訳『ハムレット』をお読みになっただろうか、などと妄想し乍ら、私も高校二年の夏休みの午后、自室のベッドに丸寝して、風に揺れる真っ白いレースのカーテンを視圏の端に収め乍ら同書を読んでいたことを思い出しました。あの頃は実家の自室も未だ埃っぽくなく「生きて」いたのですけれどねゑ……。

    追々伸
    星のこと、書き忘れておりました。私も幼少年期に星に魅せられた者の一人です。科学雑誌の『Newton』に掲載される、ハッブル宇宙望遠鏡が写した宇宙の精細なカラー写真、そして自身の小遣いで初めて買った野尻抱影『星と伝説』で読んだ、星座を廻る神話の数々……総てが良い思い出です。因みに『星と伝説』は昨年になって無性に読み返したくなりまして、2018年発行の153刷を購入し、現在は枕元にあります。思い出の名著を今以て買い求められるという有り難さを噛み締めると共に、やはり本は買わなければ、買い続けなければならないとの思いを新たにさせてもくれた、その意味でも私にとっては名著なのです。

    編集済

  • 編集済

    工藤彦星様
    こんばんは。このたびは七夕より始めました新連載に足を運んで頂き、コメントも寄せて頂き、心より感謝致しております。おそろしい長編になりそうな傍迷惑な予感しかしませんが、お付き合い頂けるのでしたら昇天するでせう。はい、織姫の柄ではございませんが、お莫迦ですので簡単に天に昇れそうですよ。

    早速ですが「小夜衣」って本当、美しい言葉ですね。あぁ、また共有させてくださいませ(何回目の語彙の衝動買いでしょう。ご迷惑ですこと。本当にスミマセン)。

    ところで偏頭痛には悩まされますね。いつ来るとも知れぬ痛みの波に怯えていても仕方ないと奮起するも、肝心な場面で痛み始めると青天の霹靂。睡眠時間が長過ぎるのも短すぎるのも駄目だとか、チョコレートやチーズやワインがトリガーとか申しますが、実際のところメカニズムは解明されておらず。光明の届かぬ部屋で「甘き死よ、来たれ」と希むほどの水無月でございました(泣き笑い)。お互いに健やかを目指しませうね。

    夏=死。この等式は個人的にぴたりと当て嵌まります故「勿忘死」は、つくづく秀作に思われました。エロスとタナトスは紙一重。生と死も。永遠と束の間も。考えていた折に「恋愛」というジャンルで何を思ったのか始めてしまった奏鳴曲に、今後とも呆れてくださいまし。

    そして「蝋引紙」……いつもの工藤様の擬古文(という表現は正しいでしょうか? 不適切でしたら御免なさい)と趣きの異なる現代文。その独白形式の整い方と申しましたら……私は何をやっているのでせう……と打ちのめされてオフィーリアを島流しにしたくなる想いでございます。「哲学少女」の存在そのもののような本。その「遅れて開かれた本」は今も主人公のベッドサイドに、あるでしょうか。夏の終わりのような追憶の頁。「何処かへ逝ってしまった時間の存在感のあまりに濃すぎる」空間に所在なく居る自分。かつて慣れ親しんだものが「懐古」に変わるということは、自分が未来への船のオールを漕ぎ続けて前進したことかと思うのですが、かつての自分の筆跡までもが他人のもののように感じられる現象。人生は地続きなのに、不思議なものですね。読ませて頂き、ありがとうございます。

    追伸:「小夜衣」と「漓る」……未来の頁にて共有をお許しくださいませ。「淋漓」からのイマジネーション。脱水症には気を付けて、良き季節を過ごしませう。
    でハ又……(そんな粋な表現をなさるおばあちゃまに、よろしくお伝えくださいませ)。

    作者からの返信

    宵澤織姫樣

    御作へのコメントと、こちらへのお返事、順序が逆になってしまった上に又しても牽牛ならぬ鈍牛の如き遅筆をお聴し下さい。

    御新作『オフィーリア奏鳴曲』が「おそろしい長編になりそう」とのこと……大歓迎、長く御作の世界観に浸っていられるのは大変嬉しいことです。今後も折に触れてお邪魔させて頂きます。折と言えば、「おり」は「おり」でも「織り」の方になりますが、美しい文章のことを織物に擬えて「黼黻(ほふつ)」と表することがあるようです。「織姫の柄ではございません」と仰いますが、宵澤さんこそ綾織る姫(ひい)樣、織姫樣とお呼びするに相応しい御方のようにも思えるのですが……。

    「小夜衣」、ぜひとも共有しましょう。同名の古典文学作品(ハッピーエンドの栄達の物語です)もありますし、往にし方の人々もどこか気になる語彙だったのかも知れません。ミヨシ君のお母上がお召しになるのでしょうか……楽しみにしております。そういえばお母上のお名前である雛子の「雛」も「ひひな(ひいな)」と訓みますね。「姫」樣も「ひい」樣と訓めて、そして作者樣のお名前も……言葉遊び以上の含意を読み取りたくなってしまいます(悪い癖です)。

    偏頭痛、私の場合は気圧のせいなのだろうと考えておりました。唯一、頭痛の予兆を感じられるのが颱風の時なものですから。この時ばかりは覿面に来ますね。宵澤さんも先月は本当にお苦しい日々をお過ごしだったのですね。改めてお見舞い申し上げます。

    「蝋引紙」の独白、いつもとは異なる趣でしたでしょうか。何やら一文一文が冗長(私の要を得ないコメントのように!)で拗らせてしまっている感じを暖かく読み解して下さったのだろうと拝察致します。拙文は擬古文にしては全うできておらず、現代文にしては語彙が仰々しいように思われ、その点では自分でも何を書いているのかよく解っていなかったのですが、有り難くも頂戴したあるレビューの中で「口語体をもちいた擬古文」という名指しをして下さった方がいらっしゃって、なるほどと思った次第です。ある意味で「闇鍋」のようなものかもしれませんね。

    哲学少女から貰った本は、恐らくまだベッドサイドにあるのではないでしょうか。思い出とともに一層のこと棄てられれば楽になるのに、一度、手にした物をなかなか手放せない男性というのは存外に多いような気がします。「未来への船」ですか……私のオール捌きは酷いものですから、意図した目的地とは違う、あらぬ方向に辿り着いてしまいそうです(泣)。

    ここ数日は梅雨寒でしたが、間もなく脱水症の季節も到来しますね。お互いに自愛して参りましょう。ぢゃ又(祖母へのお気遣いも有り難うございます)。