蝋引紙

 颱風たいふう菟葵いそぎんちゃくの如き氛氛ふんぷんたる雲の触手にて秋津洲あきつしまで回し始めてしばし。其れにくすぐられた盛夏のそらむべなるかな晨明しんめいより以来このかた蝉時雨せみしぐれの合間にまぐれなるてきしたたらせ、雄雄おおしくたけりを上ぐる、是又これまたしてもまぐれなる颶風ぐふうが、そら按舞あんぶするしづくの音符をもてあそぶ。挙げ句に偶成ぐうせいした旋律メロデやね玻璃窓はりまどとを五線譜スコアなずらえてたたき、一聞いちぶんするだにも滑稽な律呂リトモを刻んで男の耳朶じだった。

 男はおの生家しょうかいまだ残されしかつての自室にてこれを聴きながら、臥榻がとうかたわらに積まれし、何時いつぞや、古書肆こしょしにてあがなうておきながら今についぞ読まれなんだ山岳さんがく重畳ちょうじょうたる書物のみね一書いっしょ見留みとむるや、俄然として心裡しんり雲岫うんしゅうより髣髴ほうふつする懐古を禁じ得ず……いや紆曲うきょくな言い回しは今日けうしにして、以下、くだんの男の独語ひとりごとに耳をかたぶくることにしよう。物語るを慎むべきの散文にて、今宵こよいのみこそ読者諸賢のご寛恕かんじょいたい。


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遅れて開かれた本


 かつての自室は、最早ほこりにまみれ、温もりの感じられない抜け殻のようになり果ててはいてもそのまま残されており――それは、結婚して別の家庭を営んでいる妹の部屋も同様だった――、小学五年生から高校三年生に至る都合八年という僕の人生の時間の痕跡が置き去りにされたままであった。

 そんな部屋の中で、帰省の度毎たびごとにいつも決まって何かを掘り起こして発見する自分がいた。小学校時代の文集、黄ばんだ作文の断片、自由帳に描かれたカラフルで他愛のない落書き、裁縫セットや鍵盤ハーモニカ、習字セットや絵の具セット。中学時代に熱心に聞いていたCDのケースもだいぶ黄ばんでしまい、技術家庭科の時間に作ったタッチライトの傘には、微かな空気の流れにすらなびく、出来損ないの蜘蛛の巣が揺れていた。机の隅に無造作に積まれたルーズリーフバインダーは高校時代のもので、これを何気なく手に取って開くと、今の自分の筆跡とは似ても似つかない几帳面な字が羅列している。一ページをさらに縦半に折って二列にしたそこに整然と書き込まれた数式やグラフなどは、筆跡が今の自分のものとは瞥見べっけんするだに丸で異なっているという以上に、そもそもそこに書き付けられている内容が何事であるのかすら全く理解できなくなっていた。それを書いた時の記憶をたぐり寄せることもできないもどかしさから、あるいはそれは、自分ではない誰か別人が書いたのではないかとさえ思われる始末だった。その方が余程、説得力があっただろう。何の逡巡もないようにそこに書き付けられていることを、自分がある一時期でも理解していたらしいことが信じられなかったからだ。

 今の自分はその時の自分とは違う自分であるのだろうか。否、そんなはずはないし、そうでもあるのだった。しかし、当時は自分の一部であったはずの何物かがすでに今の自分には属しておらず、その事実にこうして当面するまで気づいてすらいなかったことは、得も言われぬ不可思議な感覚だけを僕に抱かせた。少なくとも当時の記憶が引き継がれていないことだけがほぼ唯一確かなことなのだ……。

 そんなふうに軽い眩暈めまいを催しながらも、帰省の度にかつての思い出の海の中から何事か新しい発見をせざるを得ない宿命は、いやが上にも、時の流れと、その流れの中で手放し、失い、それどころか自分が有していたことすら忘れてしまっていたような事どもに邂逅かいこうするという意味で、決定的に毀損されて復原ままならない――あるいはその必要すら無い――過去を突きつけられたことへの為体えたいの知れぬ焦燥と心の痛みだけを残した。

 吊り棚に眼路めじを転ずると、僕が生まれた時に祝い品として特注された西陣織の裏表を持つアルバムや一つ一つに思い出のこびり付いた懐かしい玩具が並んでおり、これらは若い日の父と母、そして祖母、それに亡き祖父に幼少期の自分がどれだけ愛されて育ったかを証ししていた。そして僕を愛してくれた家族達も、これから何年先になるかはわからないが、このアルバムや玩具や、数多あまたの思い出を僕に残して皆いなくなっているのだろう。

 今日休むべきベッドに腰を下ろし、僕は改めて室内を見廻した。十五年前に主を失って以来、いつ止まったかすら定かではない壁掛け時計と同様に止まったままの時間が滞留する部屋は、十五年後の今もかつての主をある程度は受け入れてくれはしたように思えたが、やはり根っこの部分が切れて遊離する根無し草のように彷徨さまって何処どこかへ逝ってしまった時間の存在感のあまりに濃すぎるせいで、当然のことながらかつてのように心安く休もうという気になることはできず、どこかよそよそしい風景を現前させ、その総体が今の僕を監視しているようにも思えた。

 ふと、ベッドサイドに置いてある本の山の頂に載る一冊の文庫本が目に留まった。岩波文庫、フランスの作家シドニー=ガブリエル・コレットの『シェリ』であった。長年にわたってカバーに散り積もったのだろう蝋引紙パラフィンのようなほこりの皮膜を指で取り除いてから、何気なくページをぱらぱらとっていて思い出した。そうだ、これはあの“哲学少女”から、そう、高校の同級生で、卒業式の後に呼び出された古本屋の店内でこっそりと僕に対して「これ」とだけ言って去った彼女から手渡された本だった。貰ったまま開くこともなく、こうして“積ん読”本の一書として長年放っておかれたのだ。だから当時の僕は、この『シェリ』が年上の元娼婦と少年との愛を描いたものであると知る由もなかったのだが、一ページとして開かれることもなく、恐らくは製本された時のままの清らかさで、外気に一度も触れたことのなかったはずのページを今こうしてめくったことで、僕はあることに気付いたような気がした。ようやく呼吸を始めたことを言祝ことほぐような、真新しい紙とインクの匂いを発したその本は、いわく言いがたい独特の不気味さを僕に惹起じゃっきさせた。『シェリ』は初々しい匂いを発しながらもカバーは陽に焼けて少しく色褪せ、見開いたページもつぶさに見れば経年の黄ばみにかたどられていたから。

 僕はたちまち何か取り返しの付かないことをしてしまったような恐ろしさに思い至って本を閉じ、本の山のなかばに挟んで見えないようにした。ああ、そうか高校生の僕は分かっていたのだ……分かっていて分かっていない振りをしたのだ。あの時分の、これ以上無いくらいの自意識と、今思えばくだらない、肥大した羞恥心の中で。『シェリ』はこの先、再び誰に読まれるかもわからず、実家に残された僕の部屋のベッドサイドに在るしかない運命にあった。

 次に“彼女”を開くのは誰だろうか。


過去を思う七十四回目の終戦の日と盂蘭盆うらぼんに寄せて


※即興小説バトルに参加した作品を加筆修正したものです。

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