応援コメント

雪苑生」への応援コメント

  • 工藤様、こんばんは。
    語彙世界、私の心が落ち着く場所に、なりつつあります。ハイドンの名によるメヌエットを再生しながら「雪苑生」を拝読しました。造形的に美しい音を聴き、造形的に美しい語彙を拾ってしまいます。「雪(きよ)める」……迷いなく拾って手離したくない。使わせて頂きたい語彙です! 「時」のバリエーション、「旹」のみならず「季」も、四季折々が見えるようで良いですね。既存の表現の枠を超えた文学散歩、締め括りに矢川澄子先生の名が! かつて矢川先生の『「父の娘」たち‐森茉莉とアナイス・ニン-』を読み、「少女とは、年齢とは関係ない精神現象としての内なる少女」であると確信。内なる少女。書きたいです。その姿を、長野作品の中にだけ存在する少年の絶対的な佇まいの美しさで書ければ、素敵でしょうね。ところで、件のイラストは「黒猫を抱いた少年」でしたか❤「猫と少年」は似合いますね。「猫と少女」より、しっくりくると思えるのは何故でしょう。
    「人の時間も月の回帰や季節のように循環すればいいのに」とは、そのとおりですね。少年に限らず人間とは、"易老學難成"と感じてしまいます。一方通行の時間に流されるまま。ところで"El arte est largo, la vida corta"は「アートは長く、人生は短い」と訳せるのですね! 工藤様は仏語にも詳しい御様子。尊敬します。異国に、お住まいになっておられたのでしょうか。私は日本国に閉じ籠もり、学生時代の第二外国語というもので仏蘭西語を選択していたものの"易老學難成"です。ほとんど忘れてしまいました。記憶は束の間……「束の間」と書いて「エフェメラ」、この表現は山田登世子先生著『世紀末夢遊』からの引用でした。『世紀末夢遊』は、川原由美子先生著『観用少女(プランツドール)』という漫画の『②巻末オマケ』……漫画に寄稿された文章。工藤様、お目が高いです!「観用少女」と書いて「プランツドール」は川原先生のセンスです。拙作で真似をして「自動洋琴弾き人形」と書いて「オートマティックメロディードール」とルビを振りたい衝動に駆られましたが保留しました。
    閑話休題、工藤様の御作品で「束の間(エフェメラ)」に出逢えたら素敵です。是非是非お願いします!

    作者からの返信

    宵澤樣

    馬琴はさぞ喜ぶでしょうけれど「閑話休題」だなんて仰らずに……コメント大変興味深く拝読しました。いつも有り難うございます。何より、うんと独り善がりに、自分の愉悦のためだけに書き散らした趣味の散文に、冒頭のようなお言葉を頂戴し、感に堪えません。私にとっては「のっぺらぼう」のように漠然としていた「読者」という存在(諸方にはご寛恕の程を……!)に、具体的な「お顔」が意識できるようになりました。私にとって宵澤さんはいま、最も印象の強い「お顔」をお持ちの読者のお一人になっています。今後ともよしなにお願い申し上げます。

    「雪苑生」は実は北海道の山間の町にある、とある公園でかつて目の当たりにした光景を書いたものです。実際にはキタキツネのものらしき足跡の蛇行が二列横切ってはいたのですが……。ラヴェルを聴きながらご高覧下さった由、音楽に造詣の深い宵澤さんであるだけに、何やら面映ゆいです。
    さて、「雪」を「雪(きよむ、きよみ)」と訓ずる用例は現在、ほぼ人名としてのものが殆どのようですが(「雪美(きよみ)」さん、など)、「雪(そそ)ぐ」「雪(すす)ぐ」とともに中古・中世・近世と通じて用いられた「雪(きよ)む」「雪(きよ)し」という動詞・形容詞としての用法は、現代でももっと見られて良いのではないかと思います。市民権を得るために、「木洩れる」の時、旹、季、いや穐?のようにまた「共犯」して下さるのでしょうか?(笑)

    私も旅行以外では日本から出たことがないので、欧州での生活に一抹の憧れもある一方、やはり住むなら日本が良いということも折々にあり……身一つでは如何ともし難いところです。
    宵澤さんは第二外国語が仏語だったのですね。私は高校時代の恩師に「簡単だから」と唆されまして……第二外国語はなんと朝鮮語でした。だからなのかな、御免なさい、"El arte est largo, la vida corta"の"est"はスペイン語のタイプミスで、正しくは"es"です。意味は大丈夫だと思いますが、まんまと馬脚を露わしてしまいました(汗)。でも仏語などのロマンス諸語は概ね好きでして、怪しいながらも一寸だけ囓っております。恐らく語源・語根としてのラテン語に興味があるのでしょう。和漢洋問わず古典語への興味こそ私にとっての宿痾のようです。

    矢川澄子さん、私は専ら澁澤龍彦夫人としての印象が強かったのですが、そうでしたね「永遠の少女」! 『「父の娘」たち‐森茉莉とアナイス・ニン-』、又ぞろ恥ずかしながら未読なのですが、「年齢とは関係ない精神現象としての内なる少女」、森茉莉さんはイメージにピッタリであるような気がします。面白そうです。矢川さんもエフェメラの「お母上」こと山田登世子さんもそうですが、お二方ともご著書のタイトルが興味をそそるものばかりですね。気になって少し調べてみたのですが、山田先生のご著書やご論攷の中にエフェメラの登場するものが、ご教示下さった『世紀末夢遊』も含めて幾つかあるようで、この言葉への愛着を感じます。ご教示下さったのを縁として、いずれ折をみて幾つか読んでみようと思いますので、その時はきっとまた感想をお伝えすることお聴し下さい。

    ということで、私もまずは「エフェメラ」を何とか我が語彙世界にお迎えしたいところです……が、「エフェメラ」、いや「エフェメラ」お嬢様は、いざ使おうと思うと結構難しそうなのです。「束の間」以外に宛てられないかと、実は試みに拙文中の「刹那」や「瞬霎」「須臾」などに「エフェメラ」を宛ててみたのですが、どうにも相応ぬ感じになってしまいます。やはり「束の間」が一等相応しいのでしょう。ただ、語彙としての耀きが思いのほか強く、既成の文中にこれを安易に布置することが慎まれますので、この気高いご令嬢をお迎えするには、恐らく語彙世界を新たにご用意する必要がありそうです。今は戦争や疫病をテーマにした語彙世界を構築中ですので、それを終えてからになりましょうが、きっとお楽しみに。

    川原由美子さんの「観用少女」という語もオリジナリティがあって好もしいですね。「観るという用途のための少女」ですか。プランツ=plantsですと「観葉」植物と工業生産物という両義(なのかな?)、 あるいは他義もあるやもしれませんが、いずれにしましても自らの世界観で適切な「名指し」ができる造語力というのは見習いたいところです。ラルム君にも、あるいは彼の「運命」に相応しい名指しが、物語の最後に用意されていたりするのでしょうか、いや分かりませんが……私などは「自動洋琴弾き人形」に「自操」性が残るのか、それとも「傀儡」となるのかが結構気になっております。

    ここまで、また雑駁なお返事となってしまいました……「黒猫を抱いた少年」であったこともある、しかし今は絶対危険な元少年としてお詫び申し上げます。

    編集済