中四 小蘭、とんでもない噂を耳にして全力で否定する
「それで、私の執務室で何をやっているのか、説明してもらおうか」
小蘭が一目見るに、子宇は明らかに怒っていた。
ここのところ、連日飛び回っていたのだ。何の仕事かはわからないが、かなり疲労が溜まっているのは、傍で見ていてもわかった。それがあまり上手くいっていないようで、いらいらしていることも。
そんな状態で自室に帰ってきてみれば、見習い宮女たちがお茶を飲んで馬鹿騒ぎ。
問答無用で怒鳴られても、おかしくはなかった。
秀麗を始めとして、同輩の五名は顔を真っ蒼にして動かない。いや、動けないのだった。まるで雪女の氷の息吹きを受けて、凍ってしまった氷像が如くに。
小蘭はため息をついて、椅子から立ち上がった。
そして子宇に向かって、深々と頭を下げて謝った。
「ごめんなさい。久しぶりに同室の者と会ったので、ついはしゃいじゃいました」
子宇はそんな小蘭を見て、わずかに驚きの表情になった。この小生意気な娘が素直に謝るなど、滅多になかったことだからだ。
顔を上げた小蘭は、にっこりと笑ってさらなる爆弾を彼に投げつけた。
「子宇様、私がお茶をお淹れ致しましょうか?」
子宇の瞳が大きく見開かれた。
沈黙が続いた。
しばらくして子宇は、ふうと息を吐いてから落ち着いた声で、
「いらん。お前には毒でも盛られそうだからな。騒がしくだけはするなよ」
そう言うと従者の慶文を連れて、執務室の奥にある小部屋の方に入っていった。
戸の向こうで「慶文、お茶をくれ」「かしこまりました」という主従のやり取りが聞こえ、戸が閉まると隣室はそのまま静かになった。
しばし間が空いたあとに、その場に残った一同から、
「はああああああ~」
という安堵の息が漏れた。机に突っ伏している者もいる。小蘭は、
「アイツ今機嫌が悪いから、静かにしてよね」
とだけ言って、自分は書類の整理に戻った。
秀麗、雨依、珊妙、涛瑛、梓明の五名は、一時の虚脱状態から回復すると、何やら顔を突き合わせてひそひそ話を始めた。そしてちら、ちらと小蘭の方を
小蘭はその視線に気付いていたが、あえて無視していた。どうせ碌でもないことだろうからだ。その小蘭の勘は見事に的中するのだが、本人にとっては全く嬉しくないことであった。
視線を投げかけても、一向に反応してくれない小蘭に業を煮やした五名は、お互いに目配せしあっていたが、どうやらその役は梓明に白羽の矢が立ったみたいだった。
小蘭は心の中で、
(梓明……あんまりあいつらの言うことを聞いちゃ駄目だよ……)
と心配していたが、そんな彼女に梓明が近寄ってきて、耳元で囁いてきた。
「春蘭……あの、私、というか私たち、貴女に関する噂を聞いたのね……」
「ん、噂? アタシの? 何だろ」
小蘭は自分が噂になることなど、これっぽっちも考えていなかったから、意外そうな顔をして梓明の方に振り向いた。
梓明は言いづらそうにしていたが、意を決してその噂をごにょごにょと小蘭に伝える。
効果は即効、かつ劇的であった。
小蘭は脊髄反射的に立ち上がって絶叫した。
「はああああ⁉ アタシとアイツが付き合ってるって⁉ 誰よそんな馬鹿言い出したのは!」
隣室の小部屋でがたん! という大きな音がしたが、ひとりとしてそれに気付いた者はいなかった。
梓明は驚いて、小蘭をなだめにかかる。
「春蘭、あ、あくまで噂だから……落ち着いて、お願い……」
「こっ、これが落ち着いていられるかあああっ! 一体どんなことを耳にすれば、そんな噂が出てくるのよっ!」
その小蘭の問いに、元ルームメイトたちは律義に答えてくれた。
「子宇様の直属になって、ここまで長く
と雨依。
「子宇様と対等にやり合っているところが、何度か目撃されているのよ」
と珊妙。
「あの超絶自他共に厳しい子宇様が、貴女に関しては甘い、実に甘い対応」
と涛瑛。
「春蘭……貴女の部屋って、子宇様の向かいなんだよね……」
と、何故か期待したようなまなざしで見る梓明。
小蘭はそれらの話を聞いて逆に冷静になり、へえ成程なと感心した。皆、意外とよく見ているのだなあと。
そしてここからどう誤解を解くか、小蘭は考え始めたのだが――
「「「「そして……極め付きは、さっきの子宇様の態度!」」」」
と、四名の声がぴたりとハモった。
「私はもう駄目だと思った」と雨依。
「絶対罰を受けることになるだろうと覚悟したよ」と珊妙。
「そんな子宇様の怒りも、貴女が一言言えば」と涛瑛。
「愛する
と、夢見る乙女の表情で言い切る梓明。
「待て待て待て待て待て待てちょっと待てい!」
不味い、と小蘭は思った。
目の前の四名の、きらきらとした瞳がである。
(こういう目をした連中は、思いこんだらひとの話を聞かない。ひとっことも聞き入れない!)
小蘭の額に玉の汗が浮かんできた。
さあ何か言ってみろと、四名は小蘭を見つめている。
小蘭は、蛇に睨まれた蛙の心境になった。
と、そのとき。
「わ、私は認めませんわっ!」
傍らで悲痛な叫び声が上がった。思い詰めた表情の秀麗であった。
小蘭はそれで、ここはこの馬鹿を利用するしかない! と思い立ったのである。
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