後四 小蘭、遂に鴝鵒宮に乗り込む
「玄単という男……もはや、のさばらせておくわけにはいきませんね」
きっ、と顔つきを変えた慶文はそう言い放った。
「どうするつもりなの?」
「内侍尚長に進言して、玄単を捕縛してもらいましょう。兵を使う必要がありそうです」
「内侍尚長って、
「聞かせるんです。私のひいじいちゃんですから」
「はあっ⁉」
何かとんでもないことを聞いてしまった小蘭は、思わず間抜けな声を漏らした。
「で、でも内侍尚長って宦官だよね? とっちゃったんだよね?」
「とる前にじいちゃんをこさえたらしいですよ。尤もひいばあちゃんが策士だったそうですが」
「……」
「ちなみにひいばあちゃん以下、全員が今でも健在ですよ。ひいじいちゃんも今夜は実家に滞在している筈です。ですからあとは私に任せて、小蘭はここでゆっくり休んでいて下さいね。では」
そう言うと慶文は早足に部屋を出ていった。小蘭は一言も喋れなかった。
「あ、ついでに言っておきますと、私も似非宦官ですから」
直後、慶文はひょいと入口から顔を出して告白すると、今度こそ去った。
その言葉に、二の句が継げないとはまさにこのことと、小蘭は口を半開きにして立ち尽くすのだった。
慶文がいなくなり、しんとした部屋の寝台に再び横になった小蘭は目を閉じる。
そして彼女は、またたく間に眠りに落ちた。
――小蘭は夢を見た。
夢の中で、三人の少女が椅子に座って小蘭を見つめている。
小蘭の方もこれは夢だと意識のどこかで認識していたから、遠慮なく彼女たちの顔を眺めてみた。
ひとりは髪の長い、線の細い女性だ。三人の中では最も年長だろうと思わせる落ち着きぶりで、おそらく彼女は寡黙な
他のふたりは寄り添って座っている。顔つきが似ており、姉妹だと言われれば「やはり」と納得してしまえた。
三人のうち、ふたりは微笑んでいる。だけど小蘭が見る限り、それはどこか寂し気な笑みであった。
残りのもうひとり、姉妹の片割れと思われる少女は明らかに――怒っていた。
その三人が小蘭のことをじっと見つめている。
彼女たちは一言も喋らない。にも関わらず、小蘭は――それだからこそ――彼女たちの気持ちがわかった。
痛いほど、わかってしまった。
髪の長い女性は楚汀妃。姉妹の内、笑っているのが姐の呉淑妃で、怒っているのが妹の呉涼妃である。
小蘭は目をぱっちりと開き、寝台から飛び下りた。そして素早く服を着替える。
彼女はふと、部屋の片隅に置いてあった長弓と矢筒を目に留め、それを怒ったように――夢の中の呉涼妃のように――ひっつかんでから部屋を出た。
小蘭は小走りで、深夜の後宮内を駆けた。
月の光が小蘭の全身を照らしているが、そんなことは気にも掛けなかった。たとえ警備兵に見つかったとしても
だが小蘭の姿は、意外な人物たちに見られていたのである。
「あれ? 春蘭じゃない?」
「ホントだ」
「……弓持ってる。
「え? じゃあ春蘭は護衛か何かなの?」
「もしくは無断で所持してるとか」
「じゅ、重罪だよね? それ……」
元
気付けば真夜中になってはいたが、ほろ酔いの良い気分は、彼女たちに良い時間でお開きにするという選択をさせることを潔しとしなかったのだ。梓明だけは気をもんでいたのだが、他の者たちは全くこりていない連中であった。
小蘭は林の中の小路を抜けて、美しい庭園のある、黒々とした建物の前の茂みに到着した。眼前にあるのは、あの鴝鵒宮である。
小蘭は思わず頬を撫でた。
「あのいけ好かない華蓉妃めえ~。
小蘭の脳裏に苦い記憶が蘇る。あの女には絶対に落とし前をつけさせねばならぬと、小蘭は決意を新たにしたのだった。
「馬上鞭がどうかなさいましたの? 鞭で叩かれるのが貴女の趣味ですの?」
唐突に耳元でささやかれた小蘭は、びくうんっ! と痙攣してそのまま固まった。
しばらくして、ようやく凝固状態から回復出来た小蘭は、背後を振り向いて仰天した。秀麗、雨依、珊妙、涛瑛、そして梓明の全員が勢ぞろいしていたからだ。
「ななな、何でっ! アンタらがここにいるのよっ!」
「それはこちらの
単刀直入の秀麗の突っ込みに、小蘭はどぎまぎと動揺してしまった。
「な、何もっ! ただ月が綺麗だったから、狩りでもしようかと思ったの! 気分だけっ」
「怪しい……何か
「あ、怪しくないって全然!」
まるっきり怪しい態度で、小蘭は雨依の疑問を否定した。
「通俗小説なら、春蘭は暗殺者っていう設定が定番だけど……」
「つ、通俗小説と現実は全っ然違うからっ! 作り物に逃避しないで現実をもっと見ようよ、ねっねっ!」
と小説好きに喧嘩を売る言葉をさりげなく吐き出す小蘭。珊妙はむっとしたようだ。
「春蘭、武器をちらつかせて結んだ協定は
「涛瑛の言うことはよくわからないけど……多分違うと思うよ!」
やはり否定された涛瑛は面白くなさそうな顔をしている。そのあとに、
「春蘭……」
という地の底から響くような声で呼ばれた小蘭はびくん、と身体を跳ねさせる。そして恐る恐る梓明の方を見た。
「春蘭、私は春蘭が何をしようとしているかわからないけど、信じているからねっ!」
小蘭はその梓明の単純な信頼が嬉しかった。
「う、うん、天に恥じるようなことはしないからっ! じゃっ」
そう言って小蘭は同輩たちからそそくさと離れて、鴝鵒宮の玄関に向かって走っていった。そして扉の前に着くと――
「何で皆、ついてくるのよっ!」
と声を潜めつつも、怒っているニュアンスを含ませて叫んだ。
小蘭の後ろには、さっき別れた筈の五人の同輩たちが、ぴったりとくっついて来ていたのだ。
「だって貴女ひとりにすると、何をしでかすかわかりませんもの」
としれっと秀麗が言った。
「ここって、あの……鴝鵒宮よね?」
「何か禍々しい空気を感じるわ」
「噂通りだったら私たちヤバいかも?」
「うう、とんでもないことが起こりそう……」
小蘭は鴝鵒宮とは何であるか、あまり理解していない同輩たちに「ホント暢気に……」とため息をつきたくなった。
だから小蘭は皆にこう言ったのだ。
「はあ、正直に言うけど、これからアタシはこの鴝鵒宮に入る。ここに住む者たちにしてみればアタシは侵入者だから、攻撃されるかもしれない。いえ、絶対されると思う。脅しでなく生命が危険にさらされるの。だから皆はここから離れて宿舎に戻ったほうがいい」
五人の同輩たちは、その物騒な話を聞いて黙りこくった。
小蘭が何故そんなことをするのか、全員が計りかねているのだ。だが小蘭は彼女らに、詳しく説明する気は毛頭なかったのである。
しばしの間のあと、小蘭はいきなり鴝鵒宮の正面玄関の扉を開いた。
ぎぎぎいと木のきしむ音が響き、扉は大きく開かれた。「ひいっ」という誰かの悲鳴が上がった。
小蘭を除く五名は、お互いが寄り添って小さく固まった。
(そんなに怖いなら、さっさと宿舎に戻ればいいのに……)
小蘭はずかずかと鴝鵒宮内部に乗り込み、部屋を片っ端から開けて見て回った。そんな小蘭をまるで異生物でも見るかのように、五人は目で追うばかりである。
そうして。
殆んどの部屋を探索し終えたであろう小蘭は、玄関の広間に突っ立っている五人のところに戻ってきて言った。
「誰もいない。ひとりもいない」
その言葉に五人全員が、ほっとした表情を見せた。
それを確認した小蘭は、にやりと笑って、
「地下に通じる階段を発見したから、アタシはこれからそこを下りようと思う。皆は帰りなよ」
と言い、くるりと背を向けて鴝鵒宮の奥に歩いていった。
秀麗、雨依、珊妙、涛瑛、梓明は、お互いに顔を見合わせた。
そして――
全員が小蘭の後ろ姿を追いかけたのだった。
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