後三 慶文、姉妹の悲劇を知ってしまう
小蘭の看病の為に部屋に入った慶文は、椅子に座って寝台に横たわっている娘を見てため息をついた。
「はあ~小蘭、早く起きてくれませんかねえ。貴女がいないと子宇様の調子が、どうにも良くないのです」
小蘭が子宇の執務室に出入りするようになって数ヶ月が経つが、いつの間にかに小蘭が身近にいることが、ごく当たり前の光景になっていたのだ。
慶文は長い間、一向に目を覚まさない小蘭の顔をじっと眺めていた。
と、しばらくして部屋の外で慶文を呼ぶ声が聞こえた。慶文は立ち上がって入口に向かう。そこにいたのは、子宇に文を託された内侍尚員であった。慶文は自分宛ての文を受け取って、それに目を通した。たちまち彼の表情が険しくなった。
「事態は思った以上に深刻じゃないですか……どうするのですか、子宇様」
文を懐に収め、静かな歩みで寝室に戻って来た慶文は息をのんだ。
小蘭が目を覚まして、寝台で身を起こしていたからだ。
「小蘭……もう大丈夫なのですか?」
小蘭は慶文のその問いかけには答えずに、ただうつろな表情で、
「行かなきゃ……」
と小さくつぶやくと、寝台から下りようとした。その際に、小蘭はバランスを崩してしまい、床に倒れそうになった。
「あっ」
思わず叫んだ慶文は、素早く駆け寄って前回と同じように、小蘭が倒れ込む前に受け止めた。その瞬間――
慶文の全身にびりっとした電流が走ったかと思うと、小蘭と接触しているところから彼の頭の中に記憶の波が流れ込んできたのだ。怒涛の如く。
それはまさにあの、失踪した姉妹の呉淑妃、呉涼妃の記憶そのものであった。
*
今夜はいよいよ陛下と対面する。本当であれば宮中にて正式にお会いしたかったが、一介の下妃の身分ではそれも叶わないのも仕方がないことだろう。
どうだろう。自分におかしなところは無いだろうか? お会いして粗相するような、恥ずかしい真似は絶対にしないように、気を付けなければいけない。
――暗転――
今まで待ち焦がれていた
私は深呼吸をしたあとに、気持ちを落ち着け、はっきりと発音するように心がけて正面の男性に向かって言った。
「お父様!」
――暗転――
陛下、つまり私のお父様は、大分面食らったようだった。それはそうだろう。まさか自分の娘が後宮に妃として入っているとは、思いもよらなかっただろうから。
「お前が、余の娘だと言うのか?」
「はい! そうですお父様。今からその証をお見せ致します」
私はそう答えて、左手首に巻いていた布を外した。隠していた
私は期待した。実の娘、つまり私に会って顔をほころばせるお父様のお姿を。
だが、私が思っていたような反応は、一切返ってこなかった。
何故かお父様はいぶかし気な表情をみせ、一言も喋らなかった。
お父様は私の痣をちゃんと確認した、よね? あれ?
――暗転――
「つまり、それが新しい趣向というわけか」
突然、お父様は変なことを言い出した。新しい趣向、って何?
私がその言葉の意味を解さない様子を見たお父様は、続けて言った。
「お前から文をもらったときの、大事なものをお見せします、というのはそれなのか。要するに父と娘、禁断の行為を演出した訳だ。なるほど、目にとめてもらう為の下妃の、涙ぐましい努力と言えるだろうな」
私はお父様が何を言っているのか、さっぱり理解出来なかった。
――暗転――
そして私は押し倒された。最初は何をされたのかわからなかったが、お父様が”実の娘”である私と、本気で行為に及ぼうとしているのを知り、私は叫んだ。
「嫌! 誰か――」
あとの言葉は続かなかった。お父様、いや、目の前の男に口をふさがれたからだ。侍女は遠くに控えており、誰も私を助ける者はいない。ああ……。
――暗転――
明け方になって、男は引き揚げたようだった。
あまりよく覚えていないのだ、昨夜のことは。
全ては終わった。
終わってしまった。
自分が想い描いていた感動の再会など、どこにもなく。
――暗転――
その日は一日中、妹が私を慰めてくれたが、ほとんど上の空だったと思う。
そして昏くなってから私は思い至ったのだ。
私の父親は実の娘に興奮する
私は妹に昨夜の全てを話し、ここから早急に逃げ出す必要性があることを説いた。
妹は私に起こったことを知って絶句し、出ることに賛同した。
そうと決まれば水と食糧、それと幾ばくかのお金を用意しなければならない。
――暗転――
次の日の朝。まだ暗いうちに私と妹は部屋を抜け出した。
脱出する方向は事前に決めていた。西だ。炎龍帝が造ったとされる広大な後宮の廃墟が、西には広がっていると聞いていた。管理が行き届いていないならば、隠れられる場所は多いだろうし、抜け道もきっとあるだろう。
――暗転――
西壁に到達した。少し探すと案の定、茂みの陰に壁が崩れかけた箇所が見つかった。側に落ちていた杭を拾って、穴を拡げる作業を始める。ふたりで代わるがわる作業を進めるが、なかなかはかどらない。巡らの警備兵が近くを通るたびに、作業は中断した。だが、見つかっては元も子もないのだ。
丸々一日作業した結果、何とかひとひとり通り抜けられる穴が出来た。
そこをくぐって西壁の外に出る。
あたりはすっかり昏くなっていたが、目の前の絢爛な建築物の残骸に、私は目を奪われた。かつて威容を誇ったものの成れの果てが、ここにはごまんとある。どんなに栄えたものもひとも、結局は塵に帰るのみ、なのだろうか。
――暗転――
辺りは闇に包まれ、目視することが厳しくなっても、今はまだ明かりをつけるわけにはいかなかった。もうちょっと、壁から離れなければ。
日中の作業が影響していたこともある。
疲労により、足元がおぼつかなくなっていたことも原因だ。
注意力も散漫だった。要するに悪いのは自分自身だったのだ。
あっと思ったときには、私は地面に開いていた穴に落ちてしまっていたのだ。そして私は意識を失った。
――暗転――
目を開くと、心配そうにのぞき込んでいる妹の顔が見えた。彼女の背後の壁は石が組まれていて、ここが人工の地下道だということがわかった。そして私は。
私には――全身の感覚がなかった。
それで、私はここで終わるということを悟ったのだ。で、あるならば、妹の安否を最優先にしなければならない。私は妹に対して言った。
「いい? 私が死んだら左手首を切り落としなさい。皇族の証である痣を見つけられてはいけないから。でも左手首だけでは勘繰られるから、同じようにして右手首、それと両足首も切り落としなさい。偽装するのよ。それと首も。私の死に顔は誰にも見せたくないの。わかった? お願いね」
私の言葉を聞いているうちに、妹の顔は涙でくしゃくしゃになった。
ごめん。馬鹿な姐で。妹にそんな顔をさせるなんて、私は姐失格だわ……
――暗転――
場面は薄暗い下水道内。そこでは、泣きながら姐の四肢を切断している呉涼妃の姿があった。廃墟から拾ってきた包丁は錆びついていて、なかなか切れない。
「うう……お姐ちゃん……お姐……」
*
「慶文、
慶文から離れた小蘭は、そう言った。
「……呉涼妃は身分がばれないようにする為だけに……姐の四肢を切り取ったのですか?」
「その通りだよ、慶文」
と、冷たく答えた小蘭の顔は、全くの無表情だった。
「誰が彼女たちに、皇族に連なる者だと教えたのでしょう?」
「それがわかっても、彼女はもう生き返らないよ」
慶文は、知らず知らずのうちに拳をぎゅっと握りしめる。
そう、真実は
玄単は皇族の証である痣のことを知らされていなかった。
呉淑妃と呉涼妃は、実の父親の姿を見たことがなかった。
そんな状況で皇帝と会おうとしたこと。
それが、姉妹の悲劇の始まりだったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます