後終 小蘭、子宇に首輪を着けられてしまう

 長い沈黙のあとに、ぼそりと子宇は言った。

「今夜のことは私が預かることにする」 

「え?」

 呆けた顔で小蘭は答えた。

「お前は明日からも、今まで通り過ごすがいい」

「獄吏に引き渡さないの?」

「引き渡して欲しいのか?」

 小蘭はぶるぶると首を横に振った。

 獄吏という人種は必要もないのに、ひとを痛めつけることに喜びを感じる加虐嗜好の変態ばかりだと、爺が言っていた。言葉の意味は良くわからないが、関わりを持たない方が正解なのは確かだと、小蘭は思っていたのだ。


「で? それでどうして主上を打つことを止めたのだ? お前ならば命中させられたろうに」

 子宇はこの少女が、恐るべき弓の腕前を持っていることを認めた。それは彼自身も剣には腕に覚えがあったからである。

「そりゃいくら爺の言葉だからって、恨みもないひとを弑せないよ。何か爺に試された気もするしさ」 

 子宇が見るところ、それは小蘭の本心らしかった。彼は安堵した。この少女が殺人鬼じゃないことを。

「それにあの帝は偽物だったしね」


 ちょっとした間のあとに子宇は声を絞り出す。彼は声が震えないようにするのに必死だった。

「今、何と?」

「あの帝は替玉だって言ったのよ。アタシとおんなじね」


 またしても間。

 子宇は気付かれないように、息を整えてから言った。

「何を馬鹿なことを言っているんだ? あの御方は紛れもなく御本人だぞ」

「ふ~ん」

 

 それきり小蘭は窓の方を向いて黙った。窓の外は真っ暗である。彼女は何を見ているのだろうか。いくばくかの時が経つ。

 子宇の額から汗が一筋流れ、彼はとうとう観念した。

「……そうだ、奴は替玉だ。何故わかったのだ?」

「歩き方が違う」

「何だと⁉」


 子宇が見る限り、本物と替玉が揃って歩いても違いはわからなかった。

 歩く姿勢から足の運び、体重移動からちょっと首を傾げる癖まで、何から何まで鏡に映したように瓜二つなのだ。

 それは皇后を始めとして、主上とよく接する貴妃たちも同様で、彼女たちも歩いている姿だけでは本物と偽物の区別がつかないらしい。喋ればすぐにわかるのだそうだが。


 本当のことはと言えば、小蘭は歩き方に加えて帝の発する雰囲気、気配で判別したのだ。それはひとによって違う。だがそのことを言っても、おそらく子宇は信じないだろうから小蘭は黙っていることにしたのだ。

 代わりに彼女は何気なく次の言葉を発した。


「まあ、よく似てるとは思うよ三人とも」

「‼」

 子宇はまたしても少女の言葉にがん、と頭を叩かれたような衝撃を受けた。

 そう、実は帝の替玉はふたりいるのだ。このことは近侍の中でも、本当にごく少数しか知らない秘中の秘である。

 子宇にしても、ようやく最近教えてもらえたのだ。

 そのことをこの少女はあっさりと看破し、事もなげに言う。

 しばらくして、子宇はおかしさがこみ上げてきたのだった。


「くっくっく……」

「?」

 小蘭は突然笑い出した子宇を不思議そうに見る。

「あっはっはっは! お前、これでお前は後宮ここから死ぬまで出ることは叶わなくなったぞ。何しろ替玉がふたりいるということは、わが国の最高機密なのだからな!」

「……! えーーー!」

 茫然とする小蘭に子宇は追い討ちをかける。

「全く、余計なことまで口にするから災難に遭うのだ。お前は私専属の奴隷、奴婢として死ぬまで仕えて貰うことに決めたからなっ!」

「……え~?」


 最初の驚きの声とは違って、二回目の「え~」には多分に「アタシは不満です」という感情が含まれていた。

 その反応を敏感に嗅ぎ取った子宇は、心中面白くなくなって仏頂面になった。

 不満そうな少女と不機嫌な青年は、一言も喋らずに向かい合う。

 刻が緩やかに過ぎていく。


 静けさを破るように子宇が念を押した。

「わかっているとは思うが、今夜のことは他言無用だからな」

「はあ、こんなこと、誰にも話せないよ……」

 子宇はこの不遜な少女と秘密を共有することに、不思議な高揚感を覚えていた。

 それはいたずらをした共犯者に対する、親近感に似た感情を彼にもたらしたのである。

「逃げたら九族誅殺だぞ。それを理解したなら今夜はもう休め。お前の部屋は新しく用意してやる」

 目前の少女は絶対に逃げることはないだろうと確信しつつも、子宇は立場をわからせるために宣告する。

「うう、はああ~」

 そうつぶやいて小蘭は、肩を落として部屋から出ていった。


 彼女の姿が消えてしばらくしてから、子宇は大きくため息をついた。

 肩から力が抜けて、今の今まで自分が酷く緊張していたのを自覚する。

「皇帝暗殺未遂に身分詐称、加えて龍眼持ちか……しかも替玉の数も、しっかりと見抜かれるとは」

 子宇は邪眼のことを正式な名称である龍眼と言い換えて言った。


 彼はもし彼女の存在が公になれば、後宮ここは大騒ぎになるだろうと思った。

 何せ暗殺者が登用試験をくぐり抜けて、主上の御側にまで近づき得る距離まで接近出来たのだから。

 あの少女が”信義”も何も持っていない、生粋の暗殺者であれば、今頃主上はおそらく生きてはいなかっただろうと子宇は身震いした。替玉は見破られていたのだ。


 子宇は顎に手をやり考える。

 まず、暗殺を示唆した老人のことを調べねばなるまいと彼は思った。

 ひとを派遣して正体を探る。捕縛は情報を集めてからと方針を立てた。

「彼女の性質たちが善であったことが唯一の救いか。あの不思議な老人の声に助けられたのも僥倖だった。だが彼女がいつ何時、心変わりするかわからんからな」

 子宇は片時も小蘭から目を離すまいと決心するのだった。

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