前四 小蘭、事件にどっぷりと関わってしまう

 その日の朝。

 小蘭は食事をとってから、内侍尚のいつもの部屋に到着したが、何か周囲がざわめいているのに気が付いた。そしてこの部屋の主である内侍尚次官の子宇は、既に出かけていていないということがわかった。また侍従の慶文も子宇に付き従っているらしく、姿が見えない。


 小蘭が自分の席に着くと『読んでおくように』という置き手紙と、紐で結ばれた書類十数枚の束が置いてあった。

 小蘭はうるさい監視役がいないことに解放感を覚え、壁際の長椅子に寝っ転がって伸びをして横になった。

「毎日毎日書類なんか見てられませーん」

 とうそぶいていたが、いつしか小蘭は眠りに落ちるのだった。


「――」

「――おい」

「んんん? もう食べられないよお~」

「起きんかこの馬鹿者があーーー!」

「うひゃああい⁉」


 小蘭は耳元で怒鳴られて飛び起きた。眠気は一瞬で吹っ飛んだ。彼女が脇を見ると、怒りの形相で子宇がこちらを睨んでいた。

「お前、ちゃんと書類は読んだんだろうな?」

「え、ええと……まだ読んでないけど、その心は伝わったよ?」

 わけのわからないことを言い出した小蘭に、子宇は雷を落とした。

「この、大馬鹿者があ!」

「ひえっ」

 いつもの子宇とは違った怒りに、小蘭は戸惑った。

「駄目ですよ、小蘭。言われたことはやっておかなくては」

「ご、御免なさい」


 疲れた表情で子宇は自分の席に着く。心なしか、小さくため息をついたように見えた。小蘭は側に立っている慶文に訊ねた。

「何かあったの?」

「下妃が失踪してしまったのですよ」

「失踪? って、いなくなっちゃったってこと?」

「他にどんな意味があるか阿呆。馬鹿な質問をするな馬鹿」

「うっ、うう……」


 普段よりさらに棘のある子宇の物言いに小蘭の心はぐさっときたが、つい先ほど居眠りという失態をした引け目があったので、何も言い返せない彼女だった。

「私がこの任に就いてからは、一度もなかったのだが。とうとう起こってしまったか……」

 子宇の言葉から小蘭は、以前にも妃が失踪したことがあるのだと悟ったのだった。どうやら子宇と慶文は今朝、いなくなった下妃の部屋を直接訪れて、状況を聞き込んできたらしかった。


 慶文が子宇と小蘭にお茶を淹れてくれた。茶は高価なものだが、小蘭はそれをずずずと音を立てて無造作に飲んだ。それを見て子宇は顔をしかめるが、何も言わずに自分も茶を口にした。

 しばしの間のあとに、子宇が喋った。

「お前に読んでおけと言った書類は、失踪事件に関するものだ。見てみろ」

 そう言われて小蘭は、書類の束を手に取って眺めてみた。

「”妃嬪ひひん失踪に関する覚書”?」


 ぺらりと頁をめくる。

 表紙をめくると元号、月日、妃嬪名、状況等が記された一覧が出てきた。

 小蘭が数えてみると、二十八の名前を数えた。彼女はじいっと表を見つめていたが、そこに書かれた人物は全員が下妃だと気付いた。

「この六年間で失踪した下妃は二十八名にのぼる」

 子宇がため息をつきながら言葉を続けた。

「それも今朝、三十名になったがな……」

「三十!」

 小蘭は驚きの声を上げた。

 子宇の言う通りなら、今回の失踪事件では、ふたり同時にいなくなったということになる。


 やや疲れた声で子宇が言った。

「三十という数字を多いとみるか、少ないとみるかは難しいところだが」

 小蘭は彼の次の言葉を待った。

「生きている者なり死体なりが、全く発見されていないことが問題なのだ」


 事件が起こったとき、後宮内ではその度にかなり大規模な捜索が行なわれたのだが、失踪した二十八名は露程もその痕跡すら見つからなかった。子宇の言うように死体ひとつ発見されなかったのだ。

 つまり子宇たちが把握していない抜け道が、この後宮内に存在しているかもしれないことが問題なのだった。


 後宮は凱都の北部に位置する宮城の西側にある。

 宮城は高い壁に囲まれているが、後宮はさらに四方を壁で遮閉され、二重に外界からは途絶された環境にある(街の城壁を数に入れると三重になる)。

 北壁の外は街の郊外で、森と山が広がっている(宮城の壁と一体になっている)。

 東壁は宮廷(前宮)に接している。

 南壁の向こう側は宮城内の官舎街である。

 残るは西壁のみであるが――


「炎龍帝は一万名の愛妃、それに仕える宦官、女官合わせて十万名が住まう後宮を造り上げたが」

「一万! 十万!」

 小蘭は目をくりくりさせて子宇の話を聞いている。

「その広大な後宮のが、現在西壁の向こうに広がっているのだ」


 かつて巷で『名花一万が咲き乱れる』と評された巨大で絢爛な後宮は、今やそれを維持管理する金もなくひともおらず、荒れるに任されていた。

 現在の後宮は、その炎龍帝時代の広大な設備の一部を流用しているに過ぎない。

 炎龍帝以降、歴代の皇帝は後宮を縮小し続けてきた。それは主に利便性を鑑みて、より宮廷(前宮)に近い東側方向に移動したのである。


 現後宮は、最盛期の二十分の一ほどの広さしかない。

 人員も妃嬪が上妃、中妃、下妃合わせて三百名ほどであるし、それに仕える宦官、女官、奴婢も二千名程度である。この質素さは帝の性格に加えて、何よりも時代の流れともいえるものだった。


 そうして。

 後宮が縮小される度に西壁は作り直され、人の住まなくなった西壁の西側は、手入れもされずに荒れに荒れた。廃墟となったかつての後宮には魑魅魍魎がはびこり、妖魔の類が住みついているのだ、というもっぱらの噂であった。

 それも早期に放棄された西側に、行けば行くほど酷くなると言われていた。


「何か廃墟の方で、鬼火を見たって報告があるけど……」

 ぺらりぺらりと書類をめくっていた小蘭が、ぼそりとつぶやいた。

「警備兵が夜警の際に、物見台から見たというヤツだな。本当かどうかは怪しいものだが……。それより――」

 どうやら子宇は、怪異の類は全く信じない性質たちらしかった。小蘭は実にアンタらしいよと、納得したのだった。

 

「その西壁にひとの通れる大きさの穴が見つかり、最近誰かがそこをくぐり抜けた形跡があったのだ」

「ガバガバじゃん!」

 ばさりと書類を机に叩き置き、小蘭は呆れ顔をした。死体が発見されないのも当たり前だと思った。抜け道があるのだ、この後宮のすぐ側に。

「もう答えは出てるよね? 西の地区を集中して捜索すればいいんじゃないの?」

「勿論、現在進行中だ」


 以前失踪した二十八名の下妃全員がそうかは知らないが、おそらく今回のふたりがその西壁の穴から脱したことは疑いようがなかった。

 問題はそのあとだ。彼女らはそこからさらに街の外に出たのか、あるいは……。

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