中二 小蘭、優位に立つも苦渋の決断をする
子宇がいうそれとは、約二十年ほど前に制定された『皇族不育の令』という法のことであった。
これは嫡子以外の皇族は、赤子のうちに親元から離されて、全く関係のない家に預けられて育てられなければならない、というものだった。親はその子供がどこに預けられるかも知らされず、また預けられる側の家の者も、その子が帝の血を引くとは知らされない。
実質、世継ぎ以外の子は捨てられる、ということを定めた法であった。
発案は現皇后だが、彼女が自分の子供を産んでからこの法を提案したわけではない。まだ貴妃のだれもが帝の世継ぎを生む前に、この法は制定された。その観点からみれば実に公平なことであり、その当時の貴妃たちは皆賛成したのだった。
この法が制定された理由は、兄弟間での世継ぎ争いを防ぐ為である。
一世代前、前帝の血を引く男児は八名いたが、兄弟相争って生き残ったのは現皇帝ただひとりであった。
そのせいか現皇帝はあまり感情を外に表さない、起伏の乏しい人物となってしまった。深く心に刻まれたものがあったのだろうと推測されている。
その争いに巻き込まれて、貴妃たちの実家などが多数この世継ぎ戦争に参加したが、結果は多くの血族の損失と、名家の滅亡であった。
その悲劇を繰り返すまいとして、この法は生まれたのだ。
だが。
この法は皇后と他の上妃たちとの関係に、のっぴきならない亀裂を徐々に発生させた。
自分のお腹を痛めて産んだ我が子を取り上げられるという行為は、いかに法で定まっていたとはいえ(さらにはその成立に、かつて自分が賛成していたとしても)狂わしい感情を貴妃たちの内に呼び起こしたのである。
その憎悪は現皇后に向いた。
(たとえ遠く南蛮の地に遠征していたとしても)唯一自分の子を手元に置いておける皇后に。
そしてその溝は深く、現在も拡がり続けているのだ――
だから皇子のひとりがここ、後宮にいるという事実が発覚すると、椋王朝にとっては非常にまずいことになるのだった。宮中は分裂し、大混乱に陥る可能性があった。
「そこまでの危険を冒して、どうしてアンタはここに潜入したのよ?」
それは小蘭が疑問に思った点だった。
以前慶文からちらと聞いたのだが、子宇は官僚登用試験に合格したという。それならば、わざわざ後宮の宦官を装う必要はないと思うのだ。
表から、堂々と入ればいい。
陰からこの国を支えたいというなら、その方が効果的でもある。
小蘭はじっと子宇の顔を見つめる。
彼は脇を向いていたが、そのまま消え入るような声で言った。
「母上に少しでも近づきたかったのだ……」
あまりにも意外な言葉に、小蘭は全く対応出来なかった。
ふたりは全く動かず、ただその場に立ち尽くした。
やがて。
ふう、という息をついて、妙にすっきりとした表情で、子宇が小蘭の方に向けて言った。
「で、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
突然の問いに小蘭はどもった。
「え? あ。だ、だから……」
そこで小蘭ははたと気が付く。子宇の命令には、今後従わないことに決めた。決めたはいいが、じゃあ自分は何をすれば良いのだろうか?
まだ、姐と入れ替わる日までは、ひと月以上はたっぷりとあった。
それまで何をして過ごそうか?
「部屋で食っちゃ寝の生活、とか?」
「馬鹿者、そんなことが許されると思っているのか」
「……だよねえ」
さすがにそんな引きこもりのような、贅沢な身分になれるとは小蘭は思ってもいなかった。食うためには働かなくてはならないのだ。
そして。
そんなことをして過ごしていれば、悪目立ちしてしまうことは間違いがない。そうすると、入れ替わったのちの姐に、思い切り迷惑をかけることになる。
(っつか、そんなことになったら、間違いなく
小蘭は姐の苛烈さを思い、ぶるりと身を震わせた。
小蘭は、ちらと子宇のことを見る。
彼はいつもの能面のような無表情さで、小蘭のことを見返しているだけだ。小蘭は汗をかきつつ、小さい声で訊ねた。
「ど、どうすればいいのかなあ?」
子宇はため息をついてそれに答える。
「はー、お前はここで今までのように、私の命令に従って仕事をしろ。どうしても嫌なことは拒否してもよい」
つまり、以前と変わりない日常を送るのが、最善の策と言えそうだった。
「……よろしくお願いします……」
小蘭がぺこりと頭を下げて、子宇は鷹揚に頷いた。
何だかんだあったが、結局は元の鞘に収まったふたりであった。
「ところでアンタは、誰から自分が皇子だと知らされたの? ソイツも法律を破ったことになるよね」
小蘭は思いついた疑問を言ってみた。子宇はちょっと考えてから答えた。
「……差出人不明の書簡が、私の元に届いたのだ。『貴方は帝の血を引いておいでですよ』と。元々私は官僚登用試験を受けて、そこから身を立てるつもりだったのだが」
「官僚登用試験って……滅茶苦茶難しくて、倍率が凄く厳しいやつだよね?」
「子宇様はその難しい試験に、実は首席に近い成績で合格なされたのですよ」
慶文が胸を張って、誇らしげに言った。
現在、この椋の国で身を立てるには、みっつの方法があった。
一、軍で武功を立てる。
二、登用試験に合格して、上級官僚になる。
三、宦官になり、上司もしくは妃のお気に入りとなる、である。
ちなみに商人の地位は低かった。そして商家出身の者は、官僚にはなれないきまりがあった。商人より農民の方が地位は高かったのだ。例えその日の飯に事欠く有様なほど貧しかったとしても。
後年、椋王朝の力が弱まると、地位を金で買う商人が現れ始めた。それは瞬く間に国中に広がり、それがまた、王朝の権威を衰えさせる原因のひとつとなるのである。
「で、その差出人不明者のいうことを信じたの? 馬鹿正直に?」
「言い方がちと気になるが……見ろ」
そう言いながら子宇は袖をまくって、左手首に巻いた布をほどいた。
現れた左手首に、三センチほどの黒いあざがあった。
「皇家の血を引くものに現れるとされるあざだ。帝と交わると母方に出現し、その母親と同じあざが子に引き継がれる、と言われている」
小蘭が見るところそのあざは、鳳凰の形に見えなくもない。
「つまりこれと同じあざを持つ貴妃が、私の母親ということになる。その者の言を信じるならば、私の母親は皇后、それに三夫人のうちの誰かだそうだ。八嬪の貴妃たちの子は皆、女児だそうだからな」
小蘭は遠目で三夫人全員を見掛けたことがあるが、子宇に最もよく似ていたのは陽夫人だった。目元付近にその面影があるのだ。だが。
「……まさかねえ」
小蘭は半信半疑である。
子宇が再び手首に布を巻きながら言った。そして何かに気付く。
「ん? お前も左手首に布を巻いているな?」
子宇は小蘭の左腕を見て言った。どうやらそれは包帯のようであった。かなり汚れてはいるが。
「ああ、これ?」小蘭は左手を持ち上げる。
「これ、小さいときに
そう言って小蘭はその包帯を外そうとする。子宇は慌てて止めた。
「いや、いい……止めろ」
小蘭はにやりとして左手を下ろし、あらためて子宇に問う。
「ところでさ……その情報って、本当に信用できんの?」
疑わしい目つきで小蘭がそう言い、それに子宇は真顔で答える。
「私に書簡を出したのは、
小蘭はそれを聞くと、もはやそのことに興味を失ったようで、気のない言葉を子宇に返した。
「少なくとも祁北州の山野で育った小娘よりは、信用出来るんじゃない?」
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