後十 子宇、望みが叶って、小蘭はやはり小蘭だった


 はあっはあっ、と子宇は肩で息をした。

 両手で強引に槍の軌道を変えたが、逸らしきれずに左袖は大きく引き裂かれ、腕からは血がしたたっていた。


「もういいっ! 槍兵どもっ下がれっ! おい弓兵隊、あやつらをハリネズミにしろっ!」

 玄単は自分の思い通りにいかない展開に、遂に癇癪を起こした。これでは、ただの生意気な孺子に、名を成さしめただけではないか! 彼は杯を床に叩きつけ、真っ赤な液体が花のように広がった。

 それを華蓉妃は無表情で眺めている。


 梁の上から、槍兵たちがぞろぞろと後退していく。

 彼らは一様に不満そうだった。もう一息であのふたりをし潰せるのが明白だったからだ。大金を逃した、という思いは彼らには残ったであろう。

 代わって弓兵たちが、子宇と皇后を射ることの出来る二階の踊り場に移動を開始した。その数三十名。

 子宇は剣をだらんと下げ、ぼんやりと彼らが目の前に展開する様を眺めていた。


 皇后は子宇の血がたれている左腕に、自分の衣服を裂いて血止めをしようと思った。

 彼女は子宇の左手首をふと注視し、驚愕した。先ほどの刺突で布が裂けている彼の手首に、皇族の証である痣があるのを認めたからだ。


 子宇は、よもや自分の最後がこのようなものになるとは想像もしていなかった。

 心残りはあった。が、いくら悔やんでも詮のないことであった。

 子宇は深く息を吐いて、振り向いて言った。

「陛下、これまでです――」

 子宇は目を見開く。

 皇后が、今までにない優しいまなざしで、自分を見つめていたからだ。


 皇后は、自分の袖をはだけて、左手首を子宇にさらした。

 そこには。

 痣があったのだ。子宇と同じ形の痣が。


 ――。


 音が消えた。

 音が消え、周りの景色が消え、ときが止まった。

 このとき子宇には、目の前の女性以外は存在しなかった。


 皇后が潤んだ瞳で子宇を見つめ、口を開く。

「子宇……愛しい我が子……」


「……媽媽マーマ

 子宇の瞳から――しずくが落ちた。


 子宇と皇后は抱き合った。

 皇后は血も涙もない女性ではなかったか。

 冷酷な計算高い女ではなかったのか。

 なのに何故。


 こんなにも暖かいのか。


 ――。


 梁の上のふたりを憎々しげに睨んでいた玄単は、周りの兵士たちに言った。

「ふん、何を話しているのか知らんが、とんだ茶番だ。さっさとあ奴らを射弑いころして、余をすっきりさせよ」

 

 弓兵隊は配置を完了した。

 あと数秒後には矢の雨が、自分たちに降り注いでくるだろう。

 だがもはや、そんなことはどうでもよかった。子宇は望みを果たしたのだから。

 子宇は皇后の耳元でささやいた。

「母上、出来るだけ私の後ろに隠れていて下さい」

 皇后は笑みを浮かべて答えた。

「いいのですよ、子宇。ただ、手は離さないでね」

「勿論です、母上」


 劇場は静けさに包まれた。

 三夫人、八嬪、侍従、兵士たちは皆、息をのんでふたりを見守っていた。

 弓兵隊長の手が上がる。

 それが下ろされたときが、ふたりの最後となるだろう。

 すう。

 弓兵隊長が息を吸い、まさにその手を振り下ろそうとしたそのとき――


「アンタはそんな性格キャラじゃないでしょーーーがっ!」


 がしゃあああん! という大音響とともに、西国から送られた高価な硝子ガラスが割れ、ひとりの少女が中に飛び込んできた。

 その場の全員が彼女の方を見た。

 小蘭である。


 彼女の手には三本の矢が握られていたが、それを床につく前に空中で一息に放った。

 どすどすどす。

 弓兵隊長、伍長、そして弓兵隊で一番腕が立つといわれた男が肩、腕、手の甲に矢を受けてうめき、床をごろごろと転がった。

 すたん! と床に着地した小蘭は、玄単に向けて啖呵たんかを切った!


「やい偽物! 似非皇帝! いくら偉そうにふんぞり返っても、助平親父の臭いは隠せないぞ! お前なんかに皇帝なんて無理無理無理だって! さっさと尻尾を巻いて煎餅せんべいでも食って満足して寝てろ馬鹿! あばよっ!」


 小蘭のよく通る声が劇場内に反響した。爺仕込みの悪口である。酷いものだった。

 それを聞いた全員がぽかんとした。

 玄単も初めは何を言われたのかわからずにほけっとしていたが、それが自分に対する罵詈雑言だと理解すると、瞬間に顔が真っ赤になり、頭から湯気が出た。

 怒りのあまり舌がよく回らない。

「あ、あ、あのっ、こっ、こっ、小娘――」

「あの躾のなってない駄犬をころして! 早くっ!」

 今まで無表情だった華蓉妃が、突然立ち上がって叫んだ。

 その声色には余裕などなく、悲痛な響きがこもっていた。

「あ? 誰が躾のなってない駄犬だあ? ああん? やんのか? ああ?」

 今度はそれを聞いた小蘭が激怒した。劇場は滅茶苦茶になった。


「あの馬鹿……」 

 梁の上で子宇は頭を抱えた。

 母との感動の再会の雰囲気は、きれいさっぱり吹き飛んでいた。

「子宇、あののことを知っているの?」

 皇后が小蘭に目を留めて訊ねてきた。子宇はため息をつきながら、

「ええ、実は――」

 と、今までの経緯を皇后に話し始めた。


「弓兵隊! あの小娘を先に弑せえ!」

 ようやくはっきりと発音出来た玄単は、標的を小蘭に切り替えた。

 隊長を倒された弓兵隊は、号令をかける者も指示する者もおらず、ただてんでんばらばらに小蘭に対して矢を浴びせる。

 小蘭は壁際をゆっくりと反時計回りに歩きながら、応射する。


 統制が取れていなくても三十名近い弓兵である。小蘭の周りには次々と矢が突き立った。上妃たちから悲鳴が上がる。

 至近に矢が通っても、小蘭は全く動じなかった。

 矢筒から矢を抜き、それを弦につがえ、矢を射る。微塵のよどみも些細なつかえもなく、素早く精確な動作は機械人形のようである。それをゆっくりとだが、歩きながら行っているのだ。踊り場の弓兵たちは、小蘭の弦がひとつ鳴るたびに、確実にひとり倒れた。だがそれは致命傷ではなく、戦闘能力を喪失させるにとどまっている。

 この期に及んでも小蘭は、ひとをあやめることをしとしなかったのだ。

 

 三十対一で始まったこの射撃戦は、兵士側がどんどん数を減らしていき、彼らは次第に焦ってきた。小蘭は列となって並んでいる彼らをきっちりと一人置きに倒していて、それが兵士たちにさらに不気味な思いを抱かせた。


 半数の弓兵が打ち倒されたとき、ちょうど小蘭の背負う矢筒の矢が尽きた。

 それを見た玄単は膝を叩いて喜び、囃し立てた。

「それ見ろっ、見るがよい! あの小娘の矢は尽きたぞ! ははっ! 皆の者、なぶってやれっ!」

 玄単の言葉をつまらなそうに聞いていた小蘭は、くるりと反転し、今度は時計回りに歩き出して、壁に突き刺さっている矢を引き抜いて射始めた。

 弓兵が、かつて自分たちの放った矢を受けて、ひとり、またひとりと倒れる。


「なっ⁉ ん、だとっ!」

 玄単は、ちょっ、お前、それはずるいだろ! という言葉を必死に飲み込んだ。

 そんなことを口走れば、皇帝の威厳など軽く吹き飛んでしまう。

 玄単はもっと打て! 早く倒せ! としか言えなかったのである。


 梁の上の子宇は、また違った意味で驚いていた。

「あ、あいつ、弓手ゆんで馬手めてを逆にして、矢を射れるのかっ!」

 そう、小蘭は反転した際に弓を持ち替えていたのだ。それで特に支障なく射続けているのは、信じられないことであった。それに加えて、矢が尽きることを予め想定しておいて、壁際を歩くなど。

「もしかしてあいつ、本当に厳老公の生まれ変わりじゃないのか⁉」

 子宇は、あの痩せぎすの少女の中に、何かがりついているんじゃないかと思ったのだった。


 さすがに残りが十名を割ると、弓兵たちは目に見えて動揺し始めた。

 自分たちが相手にしている少女は、すぐそばに矢が当たっても動じない。その動作は極めて精密かつ素早く、自分たちが一本射る間に三本は射てくる。狙いも精確で、今まで一本の外しもない。

 残兵が五名を切ったとき、弓兵たちは持ち場を離れて逃げ出し始めた。

 そんな兵士たちに対して小蘭は後ろから、続けざまに臀部を狙って矢を突き立てた。お前らには座ろうとしても苦痛を与えてやるぞという、情け容赦のない小蘭の仕業であった。


 弓兵隊は全滅した。

 玄単は怒りでぶるぶると震えるだけで、言葉もない。

 華蓉妃は信じられない、といった面持ちで茫然と玉座に座っている。

 小蘭は弓を放り投げると、舞台にいる玄単に向かって、だっと走った。

 玄単はそれを見て「お、おお、お……」と、うなるのみだ。


 舞台下に到着した小蘭は、息を大きく吸って叫んだ。

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