後終 各々、役割を果たし、長かった夜が終わる

「やい、替玉! お前が本物の皇帝なら、アタシの目を見て言ってみろっ!」

「何だとっ! 小癪な小娘が! おおっ、言わいでかっ!」

 小蘭の挑発に、玄単は口角から泡を飛ばして応酬した。

「余は第十二代椋国皇帝――」


 玄単は視た。

 眼下の少女の瞳の中に、原初のくらい深淵を。

 そしてその奥の最も深く昏い場所に、自分が落ち込む感覚を覚えて――落ちた。


 そこは漆黒よりも黒い海であった。

 玄単は真黒い波間にたゆたう。

 と。黒い水だと思っていたそれは――うねうねと動くひもであった。

 うねうね、うねうねと。

 それらは玄単の孔という孔へ潜り込もうとしてきた。

 眼、鼻、口、耳、肛、そして――


「うわああああっ、ひいっ、やっ、やめろおおっ」

 突然玄単は頭を掻きむしり、叫んだ。彼は両手を何かを払うように、滅茶苦茶動かした。隣にいた華蓉妃は目を見開いて、自分の主の異変をただ言葉もなく見つめるのみ。

 そして玄単はよろよろと立ち上がって「ひい、ひい」とうめいている。その彼の血走った眼は、一体何処を見ているのかわからない。

 そうして玄単は、せり上がった舞台の端に到達し、劇場内の全員が、彼に注目している中、彼はそこから――落ちた。


 全く音のない空間が現出し、玄単は薄暗い舞台の下に横たわっている。その首は、ありえない方向に曲がっていた。

 それを見た小蘭はよろよろと舞台の端まで行くと、とさりとそこに腰を下ろした。

 彼女もまた、何かが抜けたような表情になっていた。


「へ、兵士たちっ! ここにいる者を皆殺しになさいっ!」

 華蓉妃が立ち上がって大声で叫んだ。

 叫んだが、誰も動かない。

「何をしているのですかっ! 皇后が命じているのです! ただちにこの者たちを――」


「全員、武器を捨てて投降せよっ!」

 突如として四方の出入り口から、兵士が溢れ出てきた。

「内侍尚長の陶悳が命じる! 外は全て制圧した! 反乱は失敗に終わった! 武器を捨てぬ者の身内は九族誅殺ぞ! ただちに武器を捨てよっ!」

 兵士の中に混じって官服の老人が、厳とした声で命じた。とても八十半ばの齢とは思えない張りがあった。反乱軍兵士たちは次々に武器を捨て、投降した。

 小蘭はその老人の脇に、頼れる侍従の姿を認めた。そして小さく言った。

「はああ、慶文はホントに凄いヒトなんだよねえ……」


 華蓉妃はせり上がった舞台の上で、静かに崩れ落ちた。

「わらわは……わらわは皇后ぞ……わらわが皇后にならねば……部族の皆は……」

 彼女は兵士に拘束されるまで、ずっとつぶやいていたのだった。


 子宇は皇后を背負って梁の上を渡り、階段を下りて踊り場に出た。

「子宇、ちょっと恥ずかしいわ」

 はにかんだ皇后の言葉に、子宇は優しく答える。

「もう少しだけ、下に着くまで孝行させて下さい、媽媽」

「全くもう……」そう言いつつも皇后は、本当に嬉しそうであった。

「でも、取っちゃったのよねえ。いい男ぶりなのに……勿体なかったわねえ」

 と言う皇后のひとり言に、子宇はしばしの沈黙のあとで、

「いえ、母上……ちゃんと、ついてます……」

 と、ばつが悪そうに答えた。皇后はそれを聞いて、

「あ、あら、まあ。ほ、ほほ、ほほ」

 と誤魔化すように笑い続けるのだった。


 下に着いた皇后を迎えたのは、床に額をつけて稽首礼を行っている十一名の上妃たちであった。皇后は小走りに彼女たちに近付くと、膝をついて三夫人の手を取り、言った。

「顔を上げなさい、貴女たち。間違っていたのは私の方でした。本当に御免なさい」

 その言葉に上妃たちは、驚きの表情で皇后を見た。皇后は続けて言った。

「とがめはありません。以前通りに接して下さると嬉しいわ。それと、貴女たちへの償いになるかどうかわからないけど、『皇族不育の令』は廃止となるでしょう」

 そう言ってその場を立ち去った皇后の後ろ姿を十一名の上妃たちは、ただ茫然と見つめるのだった。


 小蘭は劇場の片隅で膝を抱えて座っていた。彼女は落ち込んでいた。

 悪党とはいえ、とうとう自分の能力を使ってひとを弑してしまったのだ。

「はあ……何かもう、どうでもよくなってきたなあ……」

 そんな彼女の背後から、誰かが近づいてきた。小蘭は足音で気付いていたが、誰であろうとどうでもよかった。関心など、かけらもなかったのだ。


 その謎の人物は小蘭の隣に来た。小蘭は振り向きもしなかったが、両頬がその謎の人物の手で挟まれ、無理矢理に振り向かされた。

 その人物は、皇后だった。

 皇后と小蘭は至近で顔を合わせた。小蘭はあっとなった。彼女の目と目が合ってしまったからだ。その瞬間――


 小蘭の視界は真っ白い光で包まれた。それは柔らかい光でまぶしくもなく、何か、ほかほかと暖かい感じがした。そして、声が聞こえた。やはり暖かい声だった。

『貴女の罪は私が引き受けます。貴女はただ、健やかに――』


 そうしてふっと気が付くと、皇后は少し離れた場所に立っていた。

 小蘭はさっきまでの厭世感が全くなくなって、心が軽くなっているのに気付いた。

 小蘭は首を傾げる。先ほどのあれは一体何だったのだろうかと。


「貴女、幸せ?」

 唐突に皇后が問いかけてきた。優しい声だった。 

「家族は好き? 仲はいい? 優しくしてもらってるかしら?」

「ん~、家族とは仲がいいと思うよ。姐ちゃんは怖いけど……」

 小蘭は皇后の質問に、素直に答えた。


「あら? 貴女、左腕に包帯をしているのね?」 

 皇后が包帯に気付いてそう訊いてきた。小蘭は子宇にしたような同じ説明をする。

「これね。小さいときに疱瘡にかかっちゃって、皮膚がぐずぐずになっちゃったんだ。見る?」

 そう言って小蘭は包帯をほどこうと手を掛けたが、皇后に押しとどめられた。

「止めなさい。いいのよ、貴女が幸せなら。それを解く必要はないの」

「? 言ってることがよくわからないけど、まあそれなら」

 小蘭は包帯から手を離す。


「夜が明けてしまったわね」

 皇后はしみじみと言う。

 小蘭が飛び込んできた窓から、朝の日差しが劇場の中に差し込んでいた。

 この場の誰もが長い夜だった、本当に長かったと感じていた。


 こと切れた玄単が、兵士たちの手で運ばれていった。

 そして舞台に倒れていた本物の帝も、兵士たちによって連れていかれた。

 それをじっと目で追っていた皇后は、

「あのひとは、もう駄目ね……」

 と諦めたようにつぶやいた。


 皇后は遠い目をして、小蘭に向かって言った。

「もう少し涼しくなったら貴女の季節になるわね。ここの庭園に観賞出来るいい場所があるから、そのときになったら一緒に観ましょうか?」 

 どうしてこの皇后ひとは、自分にこんなに話し掛けてくるんだろうと、小蘭は疑問に思いつつも答える。

「アタシ、もう故郷に帰るんだ。だから……」 


 それを聞いた皇后は、残念そうな表情を見せたが、髪をとめているかんざしの一本を引き抜くと、それを小蘭に手渡した。

「それを門衛に見せるといいわ。何時でも私に会いに来れますからね」

 小蘭は多分、これを使うことはないだろうと思いつつも「ありがとう」と言って簪を受け取った。


「子宇、貴方も何か小蘭に贈りなさい。彼女は命の恩人ですよ」

「はあ」

 気のない返事をして子宇は何かを考えていたが、腰に下げていた剣に気付くと鞘ごと引き抜いて小蘭に差し出した。

「これをやる。受け取れ。逸品だぞ」

 尊大に言い放った子宇に、それを見た小蘭は興味なさそうに答える。

「え~? いらない。重いし、血のりべったりでしょ、それ?」 

「何だと貴様! 私が折角やると言っているのにお前は――」「子宇」

 子宇の言葉は皇后に遮られた。皇后はため息をつきつつ我が子に教え諭す。

「子宇、小蘭は女の子ですよ。女の子に剣を贈ってどうするのですか?」

「はっ、ですが母上。しかし……」

「貴方はもうちょっと、女の子の気持ちを考えないといけませんね?」

「はあ……」

「そーだそーだ。この朴念仁!」

「何だと⁉ こいつ、何時までも調子に乗るなよ!」


 ぎゃーぎゃーと言い合いを始めた二人を皇后は、優しいまなざしで見守っていた。

 それを小蘭と子宇の二人が気付くことはなく―― 

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