前六 小蘭、梓明の為に一肌脱ぐことを決意する

 それを見た梓明は、慌てて若荏に声を掛ける。

「あっ! あの~指導官様、私たちはどうなるのでしょうか?」

 若荏は顔を梓明に向けて、やや気の毒そうなまなざしで彼女に告げる。

「可哀想だけど貴女たちも解雇ね。連帯責任だから」

「そ、そんなあ~」


 その若荏の返答に、梓明の目にじわりと涙が溜まり始める。

 梓明の実家は貧しい農家だと、小蘭は聞いていた。彼女はそこの長女である。帝のお膝元に宮女として勤められれば、かなり良い給金が貰える筈であった。

 その為に彼女は働きながら、寝る間を惜しんで勉学に勤しんできたのだ。その甲斐あってこの宮女登用試験に、見事合格することが出来た。


 彼女にとってここ、後宮で働くことが出来るかどうかは、彼女の家族も含めて極めて重大な死活問題だった。そんな彼女の事情も全く考慮せずに、目の前の冷たい女は事務的に処理しようとしている。

 小蘭は猛烈に腹が立ってきた。

 そうして彼女は生まれて初めて他人ひとの為に、一肌脱ぐ気になったのだった。小蘭は息を吸いわざと堅苦しい言葉遣いで、立ち去ろうとしていた若荏の背中に言葉を投げた。


「それでは筋が通りませんが指導官どの?」

 若荏の足がぴたりと止まる。そして振り返った。相も変わらずその表情に変化はない。

「何が筋が通らないのかしら、首席さん?」

「”連帯責任”についてです」

「同じ組員の不手際は、同じ組全員で責任をとる。古来から続くですよ?」

「その説明はなされていませんでした。不公正アンフェアだと抗議します。もし連帯責任があると聞いていれば、尻をひっぱたいてでも、あいつらを整列させました」

 若荏が細目をさらに細める。

「”暗黙の了解”ってご存知かしら?」

「世間を知らない、ましてや後宮のことなど何ひとつも知らない小娘に、それを求めるのはいささか”不親切”かと思われますが」

「質問の機会は与えた筈です。その機会を生かさなかった方が、悪いのではないかしら?」


 ここだなと小蘭は思った。この女を説得出来る機会はここしかない。

 これで駄目なら諦めるしかないと、小蘭は覚悟を決めた。

「指導官どの、アタシたちはまだ貴女様に”指導”されておりませんが? 御自分ではこれで職務を全うされたとお思いで?」

 小蘭の言葉にほんのちょっと若荏の表情が動く。それは本当にわずかな変化だったが、小蘭には彼女の心が大きく揺らいだのがわかった。


 かつて爺は、”矜持のあるひと”の心を動かすのは、実に容易いと言っていた。

 怒らせればよいのだと。

 小蘭は若荏に対して、貴女は偉そうなことを言ってるけど、結局は職務放棄するつもりかと揶揄やゆしたのだ。言葉の裏を読める人物ならば、そう受け取った筈である。

 そして若荏は、まさに言葉の裏が読める人物だった。


 小蘭は爺と付き合っていた上で、数えきれない程の言い合いをしたが、一度も爺をやりこめることが出来なかった。

「屁理屈だっ!」

「ほっほっほ、屁理屈も理屈のうち。儂の勝ち!」

「ぐぬううう~、ずるい!」

「ずるくても儂の勝ち! ほっほっほ」

 そんな下らない経験が役に立つ日が来るとは、小蘭は思ってもいなかった。だが、爺の得意満面な顔を思い浮かべると、いまだにむかむかするのも事実である。


 若荏の目に怒りの火が灯った。

 しばらく彼女は沈黙していたが、じっと小蘭を睨みつつゆっくりと口を開いた。

「……いでしょう。一度だけ見逃してあげます。ですが次はありませんよ」

 厳しい指導官の前だったが、その言葉を聞いて梓明は、勢いよく小蘭に抱きついた。

「有難う春蘭! これで家の皆が飢えなくてすむよっ!」

「あはは……」

 小蘭は全く自分らしくないことをしたと、今になって頬を赤くした。そこに梓明の涙が降りかかる。

 そんなふたりを無言で眺めていた若荏は、青ざめている四人組の方を向いて言った。

「貴女たち、聞いていたわね。二度目はないわよ。そこのふたりに感謝して、さっさと服を着替えてここに並びなさい!」


 ようやく東の空が紫色に染まる時刻になるところである。

 こうして小蘭の、後宮での二日目は始まったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る