後六 小蘭、煽られてつい本気を出してしまう

 小蘭は夜空を見上げた。

 見上げると頭上には大きな満月が存在し、後宮全体を照らしている。

(ちょっと明るすぎるかな)

 幾筋もの雲がゆるやかに流れていて、月に照らされた部分と影の部分がくっきりと対比を成している。

 微風が小蘭の頬を撫でて、彼女に眉をしかめさせた。

(正直風は出て欲しくない)

 小蘭が今からやろうとしている弓による超遠距離狙撃は、わずかな風によっても大きくその軌道を変えられてしまう。出来れば無風でお願いしたいところであった。


 一刻が過ぎた。

 小蘭は目を閉じて片膝を着き、その姿勢で微動だにせず佇んでいた。

 と、ふと彼女は目を開ける。遠く、例の渡り廊下に人影が現れたのだ。

 先頭は保介である。その精悍な顔つきは、彼らがこの国で最も優れた武人たちであることを示していた。

 十名の保介のあとに、続いて煌びやかで豪奢な服を着たひとりの男が視界内に入った。


 帝である。

 この椋国三千万の民を束ねる頂点が、小蘭の前にその尊いお姿を露わにしたのだ。

 彼の後ろには幾人かの侍従、侍女が続き、そして後備には再び保介が付き従っていた。銅鑼は鳴っていない。夜間は省略されるのが普通だった。

 総勢三十名のその集団は、渡り廊下を粛々と移動していく。


 小蘭は静かに弓を構えて矢をつがえ、弦を引き絞った。

 集団に囲まれているその男は無表情である。

 小蘭にはその男の息を吐くさままで、良く視えたような気がした。


 帝が塔の陰に隠れる。

 彼が一歩目、二歩目と移動した姿が小蘭の脳裏に浮かび上がり、射ようとする意識なく、自然に指から矢が離れた。

 矢は漆黒の虚空に飛び去り、小蘭の視界から消えた。

 彼女が一鼓、二鼓、三鼓と数え終えたとき、塔の陰から再び男たちが現れた。

 そしてその真ん中にいる豪奢な衣服を羽織った男が一歩進み、二歩目を踏み出そうとしたその刹那、遥か遠くの屋根の上から飛来した矢が、男の身体のまさに中央部の鳩尾みぞおち付近に吸い込まれ――


 ――風が舞った。

 帝は何事もなかったかのように無表情で歩み続け、ついには渡り廊下からいなくなった。

 取り巻きの三十人も、全員が小蘭の視界の外に出た。

 渡り廊下にはもはや人影もなく、ただ静かに月明かりに照らされた中庭が、雅の粋を凝らした造形を小蘭の瞳に映し出していた。


 小蘭の右手には矢羽が残っていた。

 彼女は矢を射なかったのだ。

 小蘭は構えていた弓をそろそろと下ろして、ぽそりとつぶやいた。

「……やっぱ馬鹿馬鹿しい。何で仇でもない相手を弑さなきゃいけないのよ。ホント、阿呆みたい……」

 それは小蘭の偽らざる心情だった。

 確かに恩義ある爺からは帝を弑せと言われたが、小蘭は嫌で嫌でしかたなかったのだ。

「あーやめやめ! こんなことは忘れてもう寝よう! 爺には後で言い訳して――」

「どうした? 何故打たなかったのだ?」


 小蘭はびくん! と飛び上がった。

 彼女は心臓が一度止まったかというくらいに驚き、その拍子に弓と矢は足下に落ちてがちゃりと音を立てた。

 居るのは自分ひとりだけだと思っていた場所で、すぐ背後から声をかけられたのだ。

 小蘭は両手を高々と掲げた姿勢で硬直した。

 一拍。


 屋根の上でひゅうひゅうと風が鳴り始めた。

 小蘭は後ろにいる人物が誰か、振り返らなくてもわかっていた。 

 一度聴いたら忘れられない美声の持ち主である。

 問題はどうして彼がここにいるかだった。小蘭は自分の行動を誰かに監視されているとは思っていなかったし、尾行にもかなり意識を振り分けて注意していたのだ。実に不思議な話だった。

 その疑問は解消されることなく過ぎ去ることだろう。

 小蘭はもう終わりなのだ。

 小蘭は背後からふん、と鼻で嗤われたことを知覚したが、彼女はいまさら何をしても、何を言っても無駄なことだと悟っていた。


 そうしてかなり時間が経ったあとに、子宇がようやく言葉を発した。

「どうせ届くことすら難しい距離だ。ましてや動いている標的を射るなどという無駄なことを止めたのは、やっとお前は首席らしいさかしさを見せたということか」

 小蘭は勢いよく振り返った。

 子宇は無表情で腕を組んで小蘭を見下ろしていた。青白い月光が彼の美しい顔を照らし出している。


 彼は珍しく佩刀していた。

 小蘭に気付かれずに背後に忍び寄ったあたり、彼には武術の心得があると見るべきである。

 だが問題はそんなことではない。

 小蘭は怒りの表情を浮かべて指をさした。

 当たらないから止めたのではないということを証明する気になったのだ。

 目の前のいけ好かない男に対して。


「あそこの三番目の柱の手すり部分に、矢を当ててみせる」

 子宇の頬がぴくりと動いた。小蘭が指し示したのは、あの遥か彼方の渡り廊下の柱である。

 それを聞いて、子宇はまたも鼻で嗤う。

「何を馬鹿な――」

 ことをと彼に言い終える間を与えずに、小蘭は足下に落ちていた弓と矢を掴むと、流れるような動作で弦を引き絞って、狙いを定めた様子もなく矢を射た。

 子宇は目を見開いた。

 小蘭の行動を止めるという反応が、全く出来なかったのだ。

 その矢は小蘭の華奢な身体からは信じられない程力強く飛んで、ほんのわずかなあとに彼女が宣言した通り、三番目の柱と手すり部分の結合部にかんと突き立った!


 それを見た子宇は一瞬で顔色を変え、驚愕の表情を浮かべた。

 血の気の引いた子宇の顔を見て、小蘭はやっと溜飲が下がったのだった。

 胸をそらして、思わずふふんと鼻息が荒くなる。どうだ見たかと自慢してやりたくなった。


 子宇は血相を変えて小蘭の前から姿を消した。

 彼は登ってきたとみられる梯子を伝って、屋根を下りたようだった。そのあっという間の素早さに小蘭はぽかんとしていたが、しばらく経って例の渡り廊下に子宇が現れたのを屋根の上から確認出来た。

 小蘭が注視していると、彼は柱に突き立っている矢を力任せに引き抜いて、懐に隠したのが見えた。

 そして彼は辺りを見回して、慌ててその場から去っていった。

 その後は小蘭の視界から外れたので、子宇がどのような行動をとったのかはわからない。


 ぴうぴうと風の鳴る屋根の上に、ひとり残された小蘭はぼけっと突っ立っていたが、一言、

「帰ろ」

 とつぶやいて弓を背負い、梯子を伝って屋根を下りた。

 そして自分の宿舎に向かって、てくてくと歩き始めたところ、

「何しれっと逃げようとしてやがる!」

 と、小蘭の目前に髪を振り乱し、はあはあぜいぜいと肩を揺らして荒く息を吐いている子宇が立ちふさがった。


 小蘭は彼を一瞥して、

(アタシ、もう寝たいんだけどなあ……)

 と思いつつも逃げるでもなし、全てを諦めた境地でそこにぼんやりと立っていた。

 子宇は小蘭の右手をむんずと掴むと「こいっ」と言って彼女を引きずって行った。

 小蘭は全く抵抗せず、なすがままに身を任せた。

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