前八 小蘭、若荏に自爆攻撃を仕掛ける
小蘭が若荏に仕返しを決意してから、さらに十日あまりが過ぎようとしていた。
いつしか暦は
そんな中、下を向いていた秀麗が、唐突にぼそりと言った。
「これってつまり私たちは、汚水処理でひと月が終わってしまったということですの?」
「謀的にはそうなる」
「通俗小説的にもそう解釈出来るね」
「協定的には……全然関係ないのかしら?」
秀麗は作業の手をぴたりと止めると、持っていた柄杓を壁に叩きつけた。
「もおーやってられませんわっ! 一体何なんですのこの扱いはっ!」
「いや、この作業も今日で終わりだし。最終日に騒いでも、謀的には時すでに遅しだけど」
「主人公と恋敵がくっついたあとで抗議しても、通俗小説的には完結してるのよね」
「協定的には……どうでもいいかしら」
「謀も通俗小説も協定も、もうそんなの一切関係ないですわっ! 私たちは明らかに不当に冷遇されてますのよっ! 私、今気付きましたわっ!」
今気付いたのか、とその場の全員が心の中で秀麗に突っ込んだ。
「断固抗議すべきですわっ! 皆様もそうお思いでしょう!」
今更かよ、とその場の全員が再度心の中で秀麗に突っ込んだ。
「何を抗議するのですって?」
突然背後から声をかけられた全員は、ぎくりとして振り返った。
下水道に至る石積みの階段をこつこつと下りてきたのは、担当指導官の若荏である。秀麗たちは一斉に口をつぐんだ。
「なんて酷い臭い……」
若荏は顔をしかめて、小布で鼻を押さえつつ言った。
「抗議という単語が聞こえましたが、それは私に対する反抗とみなしてよいのですか?」
悪臭に混じって、ほんのりと甘い香りがした。
若荏のつけている香水の香りだった。
「そっ、それは違います! 私たちはそんなこと考えてもいませんっ!」
梓明が必死に釈明する。彼女は嫌な流れを感じたのだ。
「では、問題は全くないということでいいですね?」
「勿論――」「問題なんて――」「全く――」「ありま――」
「問題は大ありですわっ! 私たちは断固抗議致しますっ!」
梓明、雨依、珊妙、涛瑛が必死になって火消しに努めているその脇で、秀麗は燃料を盛大に火の中に投下した。若荏は秀麗に向けて言葉を続ける。
「それはこの組全員の総意とみて、よろしいのですか?」
「まさか――」「そんなこと――」「全く――」「ありま――」
「当然で御座いますわっ! 組の皆が憤っているのですわっ!」
秀麗を除く四人の肩が落ちた。秀麗当人は、ついに言ってやった! とばかりに胸を張って仁王立ちしている。
それを見て若荏は小布で口元を隠し、にんまりと嗤った。
彼女にしてみれば、秀麗らはただ成績が良いだけの未熟な宮女に過ぎない。とはいえ数年後には、自分を脅かす存在になるかもしれないのだ。彼女は優秀な若い芽は早めに摘んでおいた方が好都合だと、考えるに至ったのだった。若荏は口を開いた。
「良くわかりました。貴女方は本日をもって――」
「本日をもって何だって?」
若荏はぴくっとして振り返った。その他の皆も声のした方を見る。
下水道の出入口、その階段の一番上にひとりの少女が立っていた。逆光になるのでこちら側は影となり、その表情はよくわからない。
小蘭だった。
若荏はこの、かつて自分を言い負かした小娘が嫌いだったが、その目は小蘭の頭の上に釘付けとなった。小蘭は桶を頭の上方に掲げているのだ。
若荏は声を震わせながら問う。
「そ……その桶は何かしら?」
「桶? ああ、勿論汚水のたっぷり入った処分用の桶だよ」
小蘭が軽く揺らすとちゃぷん、ちゃぷんと汚水が桶の縁から飛んだ。満杯のようだった。
若荏はごくんと唾をのみ込んでから言った。
「ど、どうして頭の上に掲げているのかしら?」
「さあ? それよりさっきの話。本日をもって何て言おうとしたのかな?」
小蘭は桶を揺らしながら若荏に訊ねる。
位置的に、階上の小蘭の真下直近が若荏である。組の皆はその向こうにいる。
秀麗ら五名は下水道の水路の中に立っていて、若荏はその脇の側道にいた。
もしもの話であるが、仮に小蘭が桶を落としたとしたら、汚水を被るのは若荏ただひとりで、それも頭からかぶることになるだろう。
若荏は打ち震え、絶句した。
階上にいるあの小生意気な小娘の目は、やる気満々である。
後ろに避けようにも、避けるためには下水の中しかなかった。それでは避けた意味がなくなるのだ。
「う、うう……重い、重いよ……」
突然小蘭が喋り出して、ふらふらとよろけ始めた。だが、よろけている最中にもちら、ちらと若荏の方を覗き見ていて、実にわざとらしい仕草だった。
若荏は自分の敗北を悟った。
あんなものを被ったら、三日はこの悪臭が取れなくなるだろう。それではあのお方に顔見せ出来なくなってしまう。
そう考えると若荏の胸は張り裂けそうになった。
この後宮という閉塞された空間で、あのお方と言葉を交わすのは、若荏唯一の心の慰みであり愉しみであった。それが三日も断たれるのは、若荏にとって耐えがたいことであった。
彼女は夢想する。あのお方に自分の名前だけを呼んでもらえる日のことを。その為にはこの小娘たちの処分なぞ、些細なことであった。
若荏は小蘭に言った。
「貴女方は良く頑張りました。本日をもってここの作業を終了と致します」
そうして彼女はにこっと小蘭に微笑みかけた。
「わあっ、やった! あーーーっ! (棒)」
小蘭は喜びのあまり両手を万歳した。その拍子に偶然足が滑った、と後日彼女は同輩たちに語ったのだが、その言葉を信じた者は誰もいなかった。
「あーーーっ、あぶなーーーい! (棒)」
若荏は笑いを貼り付かせて目を見開いた。
自分に向かって汚物満杯の桶を抱えた小蘭が、一直線に
その場の全員が固まった。
数秒後の惨状を想像して――
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