中終 小蘭、姉妹の真実を知って涙する

 小蘭と慶文は連れ立って、呉淑妃の部屋に向かった。

 その彼女の顔つきは険しい。

 先ほど慶文から聞かされた事実の胸くそ悪さに、むかむかとしていたのである。

(帝の替玉である玄単シュアンゼンは、嫌がる呉淑妃を無理矢理抱き、彼女はその為に本物の帝の寵愛を受ける権利がなくなってしまった。あとはあの隔離された鴝鵒宮に閉じ込められて、玄単の愛妾として一生涯、あそこで暮らさねばならなくなった筈だ)

 それを悲観して彼女は、自ら命を絶った可能性が出てきた。


「下衆め……」

 思わず洩れ出た小蘭の怒気に、慶文は眉をひそめた。

(小蘭、怒りを収めて下さいよ。貴女が本気で怒れば、龍が暴れてしまうのです)


 内侍尚からいくつもの回廊と通路を経て、小蘭と慶文は下妃の住まう烏鵲宮に到着した。

 宮内は静かだった。普段であれば侍女や宦官、そして使用人らが忙しく行きかう回廊は、今は歩いている小蘭と慶文の足音がかつん、かつんと響くのみである。他の人影は全くなかった。


 目的の呉淑妃の部屋に到着した。

「彼女の侍従らには、今は別な場所で寝泊りしてもらっています」

 そう言って慶文は、鍵穴に鍵を突っ込んでがちゃりと外し、扉を開いた。

 開くときにわずかにききいと音がして、それきり静かになった。

 小蘭は中に踏み込んだ。

  

 部屋の中は薄暗く、ややひんやりとしていた。歩くと埃が舞ったが、これは事件が発生してから一度も清掃をしていないからである。窓は全て閉じてある。

 小蘭は寝室まで歩を進め、その小部屋の中央に立った。

 慶文は寝室の外に待機して、その間、小蘭の背中をただじっと見守っていた。


 長い沈黙の刻が過ぎ、慶文が軽く肩をほぐそうとしたときに、

「酷い……」 

 と小蘭が小さくつぶやくと、くるりと向き直って、彼の方に歩み寄ってきた。

「……ここはもういいから、次は彼女が発見された場所をお願い」

 と言って慶文の前を通り過ぎ、部屋を出た。

 慶文は、彼女はもうここには居たくないのだろうと推察してあとに続く。

 自分の側を通り過ぎるときに小蘭の顔色は真っ蒼で、肩が震えていたのに慶文は気が付いていたのだ。


 ふたりは烏鵲宮を出て、今度は西に向かう。

 天気は快晴で、夏の日差しは小蘭らを照りつけていた。が、それにも関わらずに、ふたりの周りに暖かな空気は全く感じられなかった。

 しばらく中庭を歩いていると、西壁が樹木の間から見えてきた。

 慶文は小蘭に話し掛ける。

「姉妹が西壁を抜け出た穴はこの先にあるのですが、今は封鎖してありますので、西門から向こう側に行きましょう」

 こくりと小蘭は頷いて、ふたりは西門に向かって歩いていく。


 慶文が内侍尚所属の証である印璽を門番に見せて、ふたりは西門をくぐり壁の西側に出た。と、その先を小蘭が眺めると、豪奢だが全く手入れがされておらず、やや色あせた建物群が建ち並んでいた。夏草は伸び放題で、視界内に人影は全然見掛けなかった。

 さんさんと照りつく日の光が陽炎を作り出して、遠くが歪んでみえた。

 ここでは日が落ちると、魑魅魍魎が跋扈ばっこし始めるという噂だが、とてもそのような雰囲気には見えない。ただかつてはひとびとが行き交い、喧騒に満ちていたであろう光景を思い出させて、ここに来る者に寂寥の感を呼び起こさせるのである。


 「ここら辺はまだそれ程荒れていません。もっと西に行くと段々と酷くなるんです。崩れかけた建物から、瓦が落ちてきたりしますので、危ないのです」

 慶文が歩きながら説明してくれる。その後ろを付いていっている小蘭は、この場所に溜まって澱んでいる色々な思念を感じていた。極力それらを無視しながら、ふたりは先に進む。


 と、地面の所々に穴が開いているのが見えた。

「下水道が地下を走っていますが、その天井が崩れて抜けた穴です。そのうちのひとつに呉淑妃は落ちてしまったのです」 

 昼間であれば問題はないだろうが、夜などの暗い時分は、この穴は危険な罠になりえるだろうと小蘭は思った。呉淑妃はその罠にまんまと引っ掛かってしまったのだ。


 以前は大層な名前が付いていたであろう建物の角を曲がり、小蘭と慶文は下水道の

 隧道に下りる階段に到達した。

 「天井が所々抜けて日が差し込んでいますので、明かりがなくても大丈夫だと思います。発見現場はすぐそこですし」

 そう言って慶文は石の階段を下りていく。小蘭もまたそれに続いた。

 

 十も数えないうちに慶文が立ち止まって、指をさした。

「小蘭、あそこです」 

 その示された場所は、天井が抜けて土砂と組石が山になって盛り上がっていた。ちょうど差し込んだ日の光が、遺体が発見された場所を照らしている。

 小蘭はその場所に近づく。慶文は現場からちょっと離れた所に立った。


 小蘭は、その日が照らされている場所の前に屈む。

 国の妃のついの場所としては、いささかお粗末なのではないかと思った。

 血が飛び散った形跡は、慶文の言う通りに全く見られなかった。おそらく落ちた衝撃で、身体の自由が利かなくなってしまったのだろう。背の大骨が折れると、立てなくなるのだ。


 小蘭は目を閉じた。

 慶文はそれを見て、姿勢を正した。彼は目を瞑って佇んでいる小蘭に対して、ある種の神聖さを感じたのだった。


 そうして、幾ばくかの刻が経ち――


 慶文は目を見開いた。

 目の前の娘、小蘭の両のまなこから、ぼろぼろと涙が流れ落ちているのを認めたからだった。その涙はとめどなく滴り落ち、たちまちのうちに小蘭の足下に濡れた滲みを作りあげた。

 

 慶文が息をつめ、瞬きもせずに小蘭を凝視していると、彼女は一度目を瞑り、再び開いてから天を仰いで、

 「酷すぎる!」

 と一言叫んで、意識を手放した。


 小蘭が地面に倒れ込む寸前に、慶文は慌ててその華奢な身体を抱き留めた。

 慶文は思わず、深く長い安堵の息を吐いた。

 その小蘭は慶文のかいなの中で、ぴくりともしなかった。

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