前三 小蘭、自ら墓穴を掘りつつも窮地を脱する
「ふああ~」
小蘭はあくびを噛み殺しながら、式典の終了を待っていた。
だが、式典の進行は止まっていた。当の小蘭が『答辞』を行わない限り、式はそれ以上進行しないのだ。そして小蘭といえばただ「早く式が終わらないかな~」などと、呑気に構えているだけだった。
悪循環の極みだった。
このままでは百年経っても式典は終わらないだろう。陽夫人を始めとして、この場の全員が骨と皮だけになっても、小蘭の答辞を待ち続ける羽目になる筈であった。
と、そのとき、小蘭の背筋にぶるりと悪寒が走った。
これは山で猛獣に狙われたときや、姐の癇に障ったときに感じる良くない兆候だった。小蘭は警戒度を上げ、密かにその原因を探った。そしてそれはすぐに判明した。
先ほどまで一緒にいた美貌の宦官が、こちらを凄い形相で睨んでいるのである。
瞬間、小蘭の身体に電流が走り、ここに来る前のことを鮮やかに思い出させた。
彼に言われたことを。
そうして周りを眺めてみれば、全員が自分のことを見ているのにようやく気が付いた。
「ヤバイ……」
小蘭は弾かれるように両手で裾を持って、陽夫人の座する壇の下まで小走りで近寄り、両膝を着いて両腕を組み、首を垂れて額を床に着けた。そして子宇に教わった通りに口を開く。
「かしこくも陽貴妃殿下におかせられましては、臣春蘭謹んで奏上のお許しを賜りたく存じます」
「
という陽夫人からの形式通りのお許しが出たので、小蘭は両手を床に着いてやや顔を上げた。だが、陽夫人を直接見ることは許されないので、視線を斜め下に据えて前方を見る。進行役の宦官たちはやれやれと安堵した。
そしてその姿勢で小蘭の奏上がようやく始まった――かにみえた、が。
「え~……」
静粛。
小蘭は口を開いたまま、その姿勢で
式が再開して、ほっとしていた進行担当の宦官たちは、一斉にぎくりとした。またトラブルが発生したのか!
そのとき小蘭の頭の中では、必死になって言うべき文言を探しまくっていたのだった。こう見えても彼女は、四書五経を
この意外な事実は、一体どのようにして成されたのだろうか?
それはまだ彼女が汚れなきとき、爺と賭け事を始めたことに端を発している。
賭け事とはいっても、次に遭遇する動物は何だとか、あの岩まで競争するとか他愛のないものである。そして爺は小蘭を負かすと、決まって経典を暗記させたのだ。
彼女が嫌がったときは、わざと小馬鹿にするように煽って負けん気を利用した。相手を怒らせるのは、爺の大の得意技だった。純心だった小蘭は、まんまと爺の策略に引っ掛かった。
そして気が付けば小蘭は、古典とよばれた殆どの書物を暗記していたのだ。
その内容も理解せずに。
それらの書物は小蘭の頭の中の引き出しに綺麗に仕舞われており、いつでも取り出すことが出来た。
――というのは数年前の話であって、長らく使われなかったその引き出しはがたがたと立て付けが悪くなっており、一部錆び付いていたりした。
そんな訳で現在、外見上はただ固まっているだけに見える小蘭の頭の中では、あっちの引き出しを開けてはこっちをひっくり返すという、大規模な捜索活動が行われていたのだ。つい先ほど子宇から教わった文言であるが、適当にどこかへ放り込んだ為に行方が不明だった。
またしても嫌な沈黙が講堂を覆った。
小蘭の様子をじっと睨んでいた子宇のこめかみに、ぴきりと青筋が立つ。
その怒気を感じ取った小蘭の身体がぞくりと震え、彼女はからくり人形のように口を動かし始めた。
「――将の
突然訳の分からないことを喋り出したと思ったら、いきなり叫んだ小蘭に二名を除く講堂の全員がびくん! と跳ねた。
ちなみにその二名とは、鉄面皮のように表情を変えない壇上の陽夫人と、すっと目が据わった子宇である。
全く見当はずれの言上をしてしまった小蘭は、増々怒りの波動を強くする子宇に怯えつつ検索を再開し、急いで奏上をやりなおし始めた。しかし半ば
「え~と、サイタ サイタ サクラガ サイタ……じゃないって! 馬鹿かっ!」
その場の全員(二名を除く)が、今のは一体何の呪文なのだろうかと怪訝な表情をした。
小蘭はだらだらと汗をたらしながら、ちらりと件の宦官を窺う。
麗しの宦官は、口の端を若干上げて笑っていた。
猛獣が獲物に飛び掛かる前の、あの笑みである。凄絶な美しさだった。
瞬時に小蘭の頭の中は
「春のうららかなこの善き日に、輔弼の一端を担う大任を受け賜わりましたこと、
そう言い切ると小蘭は再び腕を組んで額を床に着けた。
壇上から陽夫人の、
「期待します」
とのありがたいお言葉が下賜され、その場の新任宮女全員が首を垂れる。
そのあとに進行役の宦官の、
「陽貴妃殿下、ご退場!」
の宣言により陽夫人が席から立ち、しずしずと侍従を従えて退場していった。
おそらくはこれが最も嬉しい事実とばかりに進行役の宦官が声を張り上げる。
その表情は明るかった。
「これにて新任式を終了する!」
その宣言を聞きながら小蘭は汗を流しつつ、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
(姐ちゃん、アタシ良くやったよね? やったって言って!)
絶対にそちらを向いてはいけない宦官の視線を感じながら、小蘭は自分を慰めるのだった。
余談になるが、自分の宮に戻った陽夫人は唐突に爆笑し、お付きの侍女たちを唖然とさせたという。
作者注)本文中で『三略』(眞鍋呉夫訳、中公文庫)から一部引用致しました。
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