後三 小蘭、噂になるも本人は露とも知らない

 内侍尚の執務室のひとつでは、美貌の宦官が難しい表情で机に向かっていた。書類は山積みだが、手に持った筆が動いていない。

 子宇である。

 それを側で眺めていた侍従の慶文が、見かねて声をかけた。

「子宇様、お仕事が進んでいません」


 子宇は筆置きに筆を収めて、顔を上げて言った。

「一体何なんだ、あいつは!」

 だん! と彼が机を叩くと、上のものがぐらぐらと揺れた。

「子宇様、お行儀が悪う御座います」

「慶文、私は下の者からこんなにも軽んじられたのは初めてだぞ?」

「世の中は広う御座います故」

「そういった問題ではない!」

 子宇はもう一度苛立たし気に机をだん! と叩いた。

「子宇様、お行儀が悪う御座います」

 そして侍従の慶文が同じようにたしなめる。


 子宇は面白くなさそうに、椅子の背もたれに寄りかかった。

 最近彼の頭に思い浮かぶのは、ひとりの少女のことばかりである。

 そういうと、まるで恋にでも落ちたようにも思われるが、事実はまるで逆であった。子宇は思い通りにならない少女に、いまいましさを感じていたのだ。


 自分の美しさに欠片も価値を見出みいだしていない少女。

 子宇は自己愛好者ナルシストではないのでそれはそれで構わないのだが、自分の武器のひとつが全然通用しないというのは、面白くない事実だった。

 

 自分の抜擢を断った少女。

 子宇が最も腹立たしく思っていたことの原因がこれだった。こちらが引き上げてやろうとして、差し伸べた手が無造作に振り払われた感触である。

 そのことを全く予期していなかったので、子宇は軽く衝撃ショックを受けていたのだ。


 腹いせにあの少女を酷い環境に追いやったことも、不快感のひとつだった(当の本人は、物置部屋に移動させられて喜んでいたのだが)。

 まるで自分が権力を振りかざす小物になったように感じて、子宇の心の中に自己嫌悪の感情が湧いてきたのだ。その自己嫌悪感を湧かせた元凶として、あの少女の顔を思い浮かべると、またあらためて腹立たしさが起こってくるのだった。

 負の連鎖である。


「くそっ」

 子宇は思わず毒づいた。

「子宇様、お行儀が悪う御座います」

「……気を付ける」

 慶文と子宇は幼い頃からずっと一緒に育った。お互いに気心は知りすぎるほど知っているし、ふたりの間に隠し事は一切ない。そういう関係である。

 

「大体なんだあいつ、字が読めないなどとあからさまな嘘をつきやがって」

 子宇はあのあとすぐに祁北州に使者を出して、春蘭なる少女が本当に文字が読めないか確認するつもりだったのだ。それを慶文が笑いながら止めたのである。

「慶文! お前あのとき、あいつに助け舟を出すような発言をしたな?」

「よいではないですか。あんな嘘とわかる嘘、久しぶりに聞きましたから」


 小蘭は本気で(騙そうと)喋っていたのだが、周りはどうもそのようには受け取らなかったようだった。

「いけしゃあしゃあと言いやがって。どういう腹づもりだ?」

「私は子宇様に幸せになって欲しいだけです」

「何処をどう解釈すれば、そのような言葉が出てくるのだ?」

「子宇様はあのと接しているときは、実に楽しそうにしていますので」

「は⁉」


 一体何処を見ればそのような感想が出てくるのかと、子宇は慶文を睨みつけた。

 慶文は澄まし顔である。

「……まあいい。そちらの方は些細なことだ。それより、おい――」

 話を切り替えた子宇は、内侍尚の部下を呼んで指示を与え始めた。

 慶文は一歩下がって主人の斜め後ろに控える。


 慶文は自分の敬愛すべき主人がこの地位についてから、相当無理をしていると感じていた。敵も多く、そいつらは隙あらば子宇を追い落とそうと陰で動いている。

 自分の主人には重大な秘密があった。

 それが露見すれば、後宮ここが揺らぎかねない程の秘密である。

 で、あるからこそ子宇は常に神経を尖らせており、自然とひとに対する態度もそのようになる。それがまた、彼に敵意を持つ人間を作ってしまう原因となった。


 また子宇が後宮内での地位を引き上げられた理由としては、内侍尚の頂点トップが動いた経緯があった。彼は後宮内の宦官のトップでもあるのだが、勿論それは子宇の秘密を知った上でのことである。

 彼は現在、子宇の実質の後ろ盾であるが、いつ何時心変わりするかわからない。それがまた自分の主人に、四六時中の緊張を強いているのである。


 そんなところにあらわれたのがあの娘だった。

 子宇は彼女の不遜な態度に腹を立てながらも、そのやりとりを楽しんでいるようなフシがあった。

 全く権力争いや出世競争、世辞や追従、保身とはまるで縁のなさそうな、のまま自然から飛び出てきたような少女に、自分の主人は新鮮な驚きをもって接しているように思えたのだ。


 だが子宇は素直ではない。屈折している。要するにへそ曲がりの依怙地な人間である。

 慶文があの少女を侍従として、側に置けばよいではないですかと進言しても、おそらく主人は馬鹿なことをと鼻で嗤うだけであろう。

「全く素直でないお方ですね」

 そう慶文は笑うのだった。

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