前八 小蘭、後宮の暗部についうっかり触れてしまう

 小蘭と慶文は執務室に戻って来た。

 そこにはやや疲れた表情の子宇が座っていたが、

「それで、手掛かりは見つかったのか?」

 と訊ねてきたので、小蘭は両腕をいっぱいに広げて、子宇に入手品を示した。

「?」

 初めは怪訝な顔をした子宇だったが、両手の間にぴんと張られた一筋の髪の毛を認めて頷いた。

「よし、よくやった。では早速始めてくれ」

「本当は人気ひとけのない夜が良いんだけど……ま、いいか」


 小蘭は手に入れた髪の毛を触りつつ眺め、精神を集中した。

 側でそれを見ている子宇と慶文にはわからないが、今小蘭の頭にはこの髪の毛の持ち主の思念やら過去の出来事やらが、怒涛の如く流れ込んできていたのだった。

 小蘭はその奔流に流されまいと、必死になって目的の情報を探す。

 そして彼女は、その夜になって――


「……おそらく彼女は、失踪の直前に文をもらってる」

 突然喋り出した小蘭に、子宇が問いかける。

「文? 誰からだ?」

「そこまではわからない。でも、これから彼女と同じ経路を辿ってみようと思う」

 という小蘭の言葉に、子宇は本当にそんなことが出来るのかと、不可思議なものを見るようなまなざしで小蘭を見た。 


 小蘭は立ち上がって、髪の毛を手に部屋を出ていく。

 子宇と慶文はあとに続こうとしたが、ちょうどそのときに部下が入ってきて、内侍尚長が呼んでいると子宇に伝達してきた。

「やむを得ん。私はそちらに行くから、慶文はあいつに付いていってやってくれ」

「わかりました」

 子宇と別れた慶文は、小蘭のあとを追おうと通路に出たものの、

「え? いない⁉」

 姿が見えなくなってしまった小蘭に、珍しく彼は焦った。

「ほんのわずかの間、目を離しただけなのに! 一体あの娘は何処へ……」

 いつもの冷静沈着な彼らしくなく、慶文は大いに慌てたのだった。


 一方、小蘭はまず下妃たちの住まう宮のひとつである、烏鵲うじゃく宮へと向かい、彼女の部屋からその髪の毛が指し示す方向へと歩き出した。

 現在の後宮が狭いとは言っても、それはあくまでも王朝基準であって、庶民の感覚にしてみれば、その敷地面積は信じられない程広かった。

 

 後宮内には様様な時代の建築物が林立し、華やかな装飾が後宮ここに相応しい絢爛さを醸し出せば、またその前にある庭園も趣き深い重厚さを演出していた。

 ここは平坦な土地ばかりではなく、山があり谷があった。岩石による小高い丘、仮山が深山を表し、木々の隙間を走る細長い小川が幽谷を表現する。

 小蘭はここに来て三ヶ月以上経っていたが、このように色とりどりの人工の景観をじっくりと眺める機会はそうなかったのだ。


 小蘭は手に髪の毛を持ち、すたすたと歩いてゆく。

 とはいえ、とても余裕のある表情とは言えなかった。

 彼女の思念は徐々に強くなり、文字通り小蘭は何かに引っ張られるようにして、後宮の北西を目指していた。

 主殿、主宮からはとうに遠ざかって、辺りは人気の少ない、森ともいえる青々とした葉の茂った木々の中に、小路が続くのみとなっていた。

 木漏れ日にときたま当たりながら、小蘭は前に進んでゆく。

 彼女の額には汗が浮かんでいたが、暑さの為では決してなかった。


 と、木々が途切れて、林の中にちょっとした開けた空間が小蘭の目の前に現出した。そこには黒黒とした色合いの建築物が、ひっそりと建っていた。

「ここだ。でも、何と言うか……」

 小蘭はその建物を見てつぶやく。

 確りとした造りで歴史がありそうだが、まるで他から隔離されている感があった。

 建っている場所も後宮の外れであり、ここを訪れるひともそう多いとは思えなかった。


 とはいえ建物とその中庭は素晴らしい出来で、ちゃんと綺麗に手入れがなされている。完全に放置されているわけではないようであった。 

「多分、妃の住む宮だよね。誰の、何という名前の宮だかわからないけど……」

 と、そのとき。甲高い声が辺りに響いた。

「そこな下女、誰の許可を得てこの鴝鵒くよく宮に足を踏み入れたか!」


 小蘭は、はっとして声のした方を見た。そこには侍女ふたりを従え、目を怒らせた妃がいた。ややつり目の、瞳の大きな少女で、年のころは小蘭と余り違わない容姿である。その少女が小蘭の方に近付いてくる。

 小蘭は片膝を地面に着いて腕を組み、首を垂れた。

 少女の着ている服装から、彼女が中妃だとわかったからだ。そしてこの建物が鴝鵒宮ということも。

 少女は首を垂れている小蘭のすぐ側まで来て、足を止めて言った。

「そこな下女、おもてを上げよ」

 その言葉に従い、小蘭は顔を上げた。

 その瞬間、火花がはしった。


 最初小蘭は何が起こったのかわからなかったが、目の前にいる妃の手に小さな鞭が握られているのを見て、あれで自分の左頬を叩かれたのだと理解した。

 その少女は声を荒げて言った。

「何故わらわを前にして、額を地に着けぬ。無礼者めが!」

 小蘭は、ええ、アンタ中妃でしょ? これで十分じゃないの? と思い黙って少女を見上げていた。

 その小蘭の薄い反応がお気に召さなかったのか、少女は再度鞭を振り上げた。

 お付きの侍女は制止しようともせず、ただ後ろに佇んでいるだけだ。


 鞭が振り下ろされた。

 が、小蘭はひょいとそれを避ける。鞭は空を切り、少女がよろける。

 それを小蘭は、ただそこに突っ立って眺めていた。

 少女はまず信じられないという表情をし、さらに頭に血を上らせたようで、小蘭が見ていると、みるみるうちに彼女の顔が真っ赤になっていった。

 そして彼女は吠えた。 

「こ、この無礼者めがっ! わらわは皇后ぞ! 控えんかっ!」

 その言葉を耳に入れた小蘭は「は?」と、一時思考が停止した。


 そこへ再び少女の鞭が飛び、今度はきっちりと小蘭の顔に命中した。

 それは左目に近かった為に、小蘭は思わず手で押さえ、「うう……」と呻いてうずくまる。

 その姿を見下ろしてようやく少女は満足したらしく、唇を釣り上げて小蘭のことを嗤い、言った。

「自分の分際を知ったか下女が。お前がわらわと同じ空間に存在し得るのは、ひとえにわらわの寛容さのおかげと感謝するがよい、虫けらめ」


 その少女の言葉を聞きながら小蘭は、かつて爺が言っていたことを思い出していた。

「世の中には身分を鼻にかけ、さもあがめられることが当然であるが如く振舞う輩がいる。傲慢かつ度し難く、矯正不能な連中でな。そんな奴らに出会ったときは――」


 叩かれた頬は熱かったが、小蘭の心は冷え切っていた。

 下を向いて地面を眺めていると、尺取虫がひょこひょこと移動しているのが目に入った。ふっと小蘭は微笑む。

 どんな生き物も必死になって生きているのである。それに比べて。


「面を上げよ下女。性根を入れ替えるまで、打ち据えてやるわ」

 そんな声が遠く聞こえてきたが、それはもはやどうでも良いことであった。

 小蘭は言われた通り、ゆっくりと顔を上げる。

 少女の下半身が目に入り、そこから上半身へと徐々に視界が上向いていく。


 もし。

 小蘭は今までに一度も試したことがなかったが。

 もし、、自分が他人と目と目を合わせたら?

 

 少女のほっそりとした、白い首が見えた。

 次に顎が見え、続いて鮮やかな紅色のゆがんだ唇が見えた。彼女は嗤っていた。

 誰に対して?

 静かな怒りをめて、小蘭は顔を上げた。

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