第一幕

前一 小蘭、子宇と出会う


                  *


 夜が明けて、日が変わらずに上り、椋国臣民三千万の安寧が保たれるのは、全て余のお陰である。朝議においては宰相が首を垂れ、英才官僚たちが徹夜で作り上げた草案を差し出してくるが、採用とするか廃案とするかは、全て余の胸三寸である。閲兵観覧席に座り、眼下を行進する近衛十万の進退を決めるのも、全て余の指先ひとつである。この世の全ては、椋国皇帝である余のお陰で存在し、繁栄する。余は絶対的で、不変で、最高位で、未来永劫皇帝である。それが全てなのだ――


                  *


 がいの都は絢爛な宮城を備えたりょう国の首都である。

 その街中は忙しそうに行きかうひとであふれる。ここは領地四方の品々が全て集まる一大集積地であり、消費地であった。


 宮城は前宮と後宮に分かれており、前宮がおおやけの場、後宮が皇族のわたくしの場である。

 公の場には超難関と呼ばれる登用試験をくぐり抜けた三千もの官僚たちが、この国の屋台骨を支えるために日夜奮闘している。そして後宮であるが――


「……迷った」

 小蘭は途方に暮れていた。

 広大な山野ではただの一度も道を違えたことがない彼女は、生まれて初めてひとが造ったこの複雑怪奇な構造をもつ建築物の樹海の中で、自分の所在地を見失ったのだった。

 仮にも帝の住まう場所である。で、あるからには厳重な警戒がかれていて然るべきだと思うのだが、何故か護衛兵のひとりの姿も見えなかった。

 宮殿の窓から「にゃ~ご」という猫の間延びした鳴き声だけが聞こえた。


「困ったなあ……」

 小蘭は、自分は踏み込んではいけない方向に進みつつあるんじゃないか、とおぼろげに思いつつも前に歩を進める。案内板もなければ、道を尋ねられるひともいないのだ。まずいとは思いつつも、何とか集合場所にたどり着かなくてはならなかった。そこで行われる式典に、小蘭は出なければならないのだ。


 と。

 遥か前方から女官が近づいてくるのを小蘭は認めた。小蘭は弓を使って猟をするので、遠目が利くのだ。 

 小蘭は最初、彼女を貴妃かと思った。黒黒とした長髪は艶やかで、涼やかな目元のその美貌は、さすが帝の愛妾に相応しいと思ったからだ。

 だが、何かがおかしいと小蘭は気が付いた。それは――

「おいっ、そこの下女! こんな所で何をしている!」

 その女官は女らしからぬ声を張り上げた。明らかにその声色は女のものではなく、やや高いが男のそれであった。 

(女……じゃなくて男⁉ あ、宦官!)


 小蘭は目の前の美しい女官だと思った人物は、声を聞いて男だとわかった。服装も官吏のそれである。違和感を感じたのはその為だった。後宮内に存在できる男性は、皇族でなければ宦官のみであった。

 現在後宮にはとある理由により、帝以外の男の皇族はいない筈であった。小蘭は事前に帝は五十半ばの初老の男性だということを聞いていた。ということはこの人物は、皇族でもなく男でもないということである。

 つまりそういうわけで宦官だと、小蘭は結論を出したのだった。


 その美人(?)の宦官は声をいからせながら続けて言った。

「ここは主上のおわすお住まいに、極めて近い場所だぞ! お前のように許可なき者が居てよい場所ではない!」

 小蘭はその怒気を帯びた宦官に小さく答えた。

「迷いました……」

 彼は小蘭をじろりと睨みつけると、ちっと舌打ちした。

(舌打ちされた⁉)

 こうもあからさまに舌打ちなどされたことのなかった小蘭は、あっけにとられた。その宦官はやや落ち着いたのか、静かな口調で小蘭に言った。あらためて聞けば、見事な美声である。

「宮女見習いか。今日は新任の式が講堂で行われる筈だろう。お前はそれに出席しなければならんのだぞ、全く。ついてこい」

 そうして半ばあきれ顔の美貌の宦官は、小蘭の返答も聞かずにすたすたと歩き始めた。

「ちょっ」

 小蘭は慌てて、その後ろから付いていくしかなかった。


 ふたりは鮮やかなだんだら模様の石がはめ込まれた、後宮の小路を進んでいく。やはり護衛兵は、ひとりも見当たらなかった。

 かなり奥深くまで迷い込んでしまったことにやっと気づいた小蘭は、おそらくは国の名匠と呼ばれる大工たちが、腕を振るって造り上げたきらびやかな宮殿の造形に目を奪われた。ようやく心に余裕が出てきたのだ。


 そしてその開口部である窓から、姿は見えないが小蘭はいくつかの視線を感じた。どうやら中にいる住人から注目されているようだが、お目当ては自分ではないだろうと思った。

 目の前を歩く宦官である。無理もないかと小蘭は納得した。

 その美貌を一目見てしまえば、麗しき姿は瞳に焼き付けられ、忘れることなど叶わなくなるだろうし。まあ小蘭にしてみればどうでも良いことだったが。


「お前、名前は?」

 歩きながら小蘭は唐突に尋ねられた。ぴくりとしたあとに、こいつに目をつけられなければいいなあと祈りつつ、姐の名前を出した。

祁北きほく州の春蘭です」

 ぴたりと宦官の足が止まる。

 小蘭はそれに反応出来ずに、彼の背中にどしんと追突した。

「あだっ」


 涙目で鼻を押さえた小蘭は、件の宦官が目を剥いてこちらを凝視しているのに気付く。

「……な、何ですか?」

「お前が祁北州の春蘭……だと⁉」

「は、はいい?」

 小蘭は彼の変化に戸惑いつつも何とか肯定する。何か気に障ることでもあっただろうか。

 宦官はしばらく小蘭を見続けたあとに、

「はああああ~~~」

 と、長いため息をついた。


 小蘭は今までに、ひとから何度も呆れられてきたが、その彼女にしてもこんなに長いため息をつかれたのは初めてであった。

(ん、な、何なのよっその反応はっ!)

 彼女のその疑問は、彼の次の言葉で氷解した。

「お前が今回の首席だというのか……ありえん……全く、信じられんことだ……」

(は? 首席? はあっ⁉)

 宦官は頭を振りつつ歩みを再開する。

 一方、驚愕の事実を知った小蘭は、心の中で絶叫した。

(姐ちゃん! 出来るだけ目立つなってアタシに言ったよね! 言ったよねえええっ!)

 小蘭が姐の身代わりとして後宮ここに来て、まだ一日目であった。

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