後五 小蘭、行動を決意する

 りょうの国は、古大陸と呼ばれる陸地の最東端に位置している。

 その東は海である。

 この国は現在、椋王朝が支配している中央集権国家である。

 人口は三千万とも四千万ともいわれているが、戸籍制度が不十分な為に正確な数は把握出来ていない。

 国土は三十六の州に分かれており、州ごとに長官が置かれてその地域を統治している。


 首都はがいという都市で、中原と呼ばれる古来からひとが生活を営んでいる地域の真ん中にあった。

 ここに住むひとびとのことは中原びとと言い、彼らは中原以外に住まうひとびとのことを辺境びとと言いはやして蔑んだ。要するに自分たちは都会人で、お前らは田舎者だと馬鹿にしていたわけだが、どこかで聞いたような話であった。

 このため中央と地方の間で確執が起こり、それが徐々に悪化して、後の時代に中央対地方の対立を起こすことになるのだが、それは小蘭たちには関係のない閑話である。


 その凱都の宮城内に後宮はあった。

 小蘭が宮女の新任式に出たのは、仲春と呼ばれる二月朔日のことである。

 彼女らは意地悪な指導官にいびられて、一ヶ月間下水道で過ごす羽目になり、そうして同僚たちからも「酷い臭い」と、因縁をつけられてハブられたのだった。

 本当に暗いひと月であった、と組の者はしみじみと回想する。


 だが日はまた昇る。

 止まぬ雨はない。

 悪(指導官)は滅び、季春である三月に入って気温が上がった。それと同調するように小蘭たちの運気も上昇し、後宮の全女官の憧れの的、美貌の宦官子宇から遂にお誘いの声が掛かるのである。

 秀麗以下五名は狂喜して、その申し出を受けた。

 ただひとりを除いて。


 受諾した秀麗、雨依、珊妙、涛瑛、そして梓明の五名は、今や子宇の下で出世街道邁進中である。

 片や申し出を断った小蘭は物置部屋に追いやられ、奴婢と同様の生活を強いられている。

 両者の明暗はくっきりと分かれ、小蘭という少女は後宮内では終わった存在だと、皆から認知されるに至った。

 ――かに見えた。

 

 猛夏(四月)のある夜。

 見習い実習も三ヶ月目後半に入り、新任宮女もようやく落ち着いて仕事に臨めるようになった頃のこと。

 小蘭はいつもの位置に座っていた。

 確か燕宮という建物の屋根の上であったと思ったが、彼女はそんなことには全然興味がないので名前はうろ覚えだった。


 丁度そこは隣あった宮の屋根の継目部分で、両方の屋根よりも一段低くなっており、小蘭が屈めばすっぽりと隠れてしまえる空間があった。

 そしてその空間から前方を覗けば、遥か遠くの下方に渡り廊下が見える。柱と欄干が朱色に塗られており、かがり火が一定間隔で照らしていて、それを暗闇の中で輝かせている。


 その渡り廊下の向こう側は帝が住まう主宮であり、こちら側は貴妃たちの住処となっていた。

 あの渡り廊下は、帝が愛する貴妃たちに会いにいこうと思えば、必ず通らねばならぬ通路だった。つまり、そこを小蘭は狙うつもりなのだ。


 彼女の手には、後宮の武器庫からちょろまかしてきた長弓が握られている。

 小蘭は後宮ここに来てから何処で帝をころすか、考えて歩き回っていたのである。

 そして見つけた場所がこの屋根の上だった。

 周囲からは遮蔽されて発見され難く、かつこちらからは反撃されずに狙撃出来る絶好の場所だった。

 小蘭は弓には自信があった。

 帝の暗殺は初めから弓で行うつもりだったのだ。


 とはいえ。

 渡り廊下までの距離は、熟練した弓士ですら矢を届かせるだけでも難儀なものであった。

 加えて帝は移動しているのだ。未来位置を予測する必要がある。

 さらに渡り廊下の途中には、こちら側から眺めると手前に小さな塔があって、これにより廊下は二分割されている。

 これは非常に厄介なことであった。


 小蘭が渡り廊下に表れた帝を視認してから矢を射た場合、それが届く前に帝は塔の陰に隠れてしまう。また塔の陰から出てきた帝を射ても、やはり矢が届く前に帝は通路を渡り終えて姿を消してしまう。

 つまり――


 小蘭が帝に矢を当てようと思ったならば、帝が塔の陰を歩いているときに矢を射る必要があった。

 それは帝の歩速と矢の飛翔速度と距離を勘案して、ある一点で両者を合致させることが絶対必要条件で、もはや神業というべき領域の技術と考えられるのだった。

 歴史上で”聖弓”の名で讃えられている厳老公であれば可能かもしれないが、半ば伝説的な人物であり既に故人であるので、そのような射撃を実現出来る人物はこの世に存在しない――と、思われた。


 ふう、と小蘭は息を吐く。

 ここひと月ばかり、彼女はこの位置から帝の動向を観察していたのだ。

 帝の周りには精鋭の保介が固めていて彼と一緒に移動するが、さらに帝を中心として別な護衛部隊が、外側円状に警戒線を敷いているのが確認出来た。

 噂に聞く影と呼ばれる者たちだろうか? 

 現在の地点が彼らに見つからないぎりぎりの距離であると、小蘭は判断したのだ。これ以上近づけば、発見される確率はぐんと跳ね上がるだろう。そんな危険は冒せなかった。


 この射撃は一度きりのものだと、小蘭は十二分に理解していた。

 成功しても失敗しても矢が飛んできた方向から、遅かれ早かれ射撃地点はここだと容易に推察されてしまうのだ。

 そして熾烈な犯人探しが後宮ここで始まる筈であった。

 おそらく犯人が見つかるまで、何人たりとも後宮から外出する許可は出ないだろうし、そうなると当初の姐と入れ替わるという計画も、どうなるかもわからなくなる。


(あのくそ爺、本当に厄介なことを押し付けてきて!)

 小蘭は猛烈に腹が立ってきた。

 実行する方の苦労を全然考えずに、帝を暗殺してこいなどという、とんでもないことを言い出した爺にである。

(なーにがちょろいちょろいだあの爺! あーむかつく)


 それでも小蘭は今夜実行すると、覚悟を決めてここにきたのだった。

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