前九 小蘭、やさぐれる

 見習い宮女たちの実習が始まって、ちょうど一ヶ月が経った。

 そうしてここに来たときと同じように、彼女たちは講堂に集められた。

 十九組百十四名の宮女たちの視線は、登壇した子宇に集中する。そんなことは全く意に介さない彼は、にこやかに笑顔を浮かべて言った。

「皆の者、よくひと月の間頑張った。これでお前たちは、奴婢たちの仕事がいかに重労働で、重要な仕事か理解したかと思う」


 彼女たちは辛い労働のことを思い出して、感慨にふける者、笑顔を見せる者、涙ぐむ者など、様々な反応を見せた。

 子宇は笑顔を消し、ごく静かな口調で言った。

「それでだ、指導官全員で協議した結果、お前たちにはもうひと月、奴婢たちの仕事を続けてもらおうということになった」


 その瞬間、その場にいた宮女見習いの全員が

「は?」

 という顔をした。


「理由は各人の適所をもっと良く見極めたいということだ。まあ一ヶ月間やり遂げたお前たちだ。もうひと月ぐらいは楽なことであろう。では、本日はこれにて休んでよい。明日からも精勤するように。以上、解散」

 そう言って子宇は、無表情で壇上から下りて退場した。見習いたちの指導官と補助の宦官たちも続いて講堂から出ていって、後には新任の宮女たちだけが残された。


 解散を命じられたにもかかわらず、誰も動こうとしない講堂内は静かなままだった。百十四名の見習い宮女たちは、石像のように固まって身じろぎもしない。

 やがて――

「いやああああ!」

 とひとりの少女が泣き出すと、一斉にそこかしこで阿鼻叫喚の絵図が出現した。

「ひと月だから頑張れたのに……もお無理!」

「何で私が下女の真似事を続けなきゃいけないのよっ」

「酷い! あんな仕事もうやりたくないよお……」

「うう、いっそひと思いにしてよお」


 見習い宮女たちの悲鳴を聞きながら、講堂から遠ざかりつつある子宇は全く意地の悪い処置だと渋い顔をした。

 実は最初から見習い宮女の彼女たちには、二ヶ月間奴婢の仕事をやってもらう予定だったのだ。それを初めにひと月と伝え、終わったと思わせて期間を延長したのは、彼女たちの性根を見る為であった。

 言われたこととは違うが、腐らずに仕事を続けられるか。気力体力は残っているか。仕事の習熟度はどうか。そして奴婢たちがどんな気持ちで働いているのかを彼女たちは十分理解したか見極めたかった、ということである。


「本当に趣味の良くない話だ」

 ぼそっと子宇は本音を漏らしたが、彼とて宮仕えの身である。上からやれと言われればやらざるを得ないのだ。

 それにしても、と彼は思った。あいつのいるあの組は一体何をやっているのかと。

 小蘭たちの組は講堂に来なかったのだ。

 聞けば若荏はひと月の間、ずっとあいつらに下水道の汚水処理をさせていたらしい。奴婢でさえきついと感じる、重労働の仕事場である。

 実習においては色々な部署に廻す予定だった筈なのだが、どうしてそんなことをしていたのか、一度若荏を問い詰めねばならないだろうと子宇は決心した。


 と。その噂の当人といえば。

 若荏は尻もちをついていたのだ、下水道の真ん中に。

 彼女は頭から汚水を被って全身汚物まみれであり、酷い臭いを発していた。若荏はまだ状況が理解出来ずに、茫然とした表情である。

 その若荏の正面に、小蘭が手をついて四つん這いになっている。勿論彼女も下水の中である。

 「あはは、ごめんごめーん」

 頭を掻きながら小蘭は若荏に謝った。その姿に悪びれる様子はない。完全に確信犯であった。

 若荏はゆっくりと眼鏡を外すと――


「うああああーーーん!」

 と号泣し始めた。小蘭を始めとして、その場の皆が目をぱちくりさせた。

「酷いよ~。こんなんじゃあのひとの前に出れないよ~。うううあああ~」

 これがあの冷酷な指導官? と秀麗らは信じられないといった表情で、お互いに目配せし合う。

「せ、ひくっ、折角奮発して良い香水を買ったのに~。全部台無しだよお、うあああん子宇さまあ~」

「「「「「子宇!」」」」」

 その場の全員がハモった。どうやら若荏は子宇に対して、想いを抱いているらしいと皆が知ったのだった。


 そんな中、小蘭は泣きじゃくっている若荏に近付いて、教え諭すように優しく言った。

「指導官どの、あの男は駄目ですよ? あんな傲慢で人でなしでいけ好かない男に想いを寄せたら、指導官どのは確実に不幸に――」

「ちょっと春蘭! それは言い過ぎじゃありませんこと!」

「春蘭、子宇様を自分が独占したいからって、その謀は黒すぎる……」

「通俗小説的に美しいは正義! なんだよ春蘭。死んで詫びなさい」

「他人を排斥して、あの方と単独協定を結ぼうなんて! この人でなし!」

「ななな……」


 いきなり味方だと思っていた同輩ルームメイトから、集中砲火を浴びせられた小蘭は動揺した。あ、アンタらさっきまでアタシのことを称賛の目で見てたじゃない! と同輩の豹変ぶりに小蘭は叫びたくなった。

「指導官、いえ若荏と呼ばせていただくわ。あのちんちくりんの言うことは気にしないで。あのは子宇様の素晴らしさが理解出来ない、可哀想ななんですもの。本当に可哀想なの、頭も身体もね」

「はあ⁉」

 何気に酷い言葉を吐き出し始めた秀麗に、小蘭は唖然とした。


「若荏、お風呂に行きましょう。お風呂で身を清めれば、あの方もそう気にしないわよ」

「で、でも酷い臭いが……ぐす」

 すっかり気弱になった若荏が、鼻をすする。

「大丈夫、実家から送ってもらった石鹸と香水がありますわ! どんな臭いもたちどころに消してしまえましてよ」

「本当?」

「本当よ。さあ行きましょう! お風呂場で子宇様の素晴らしさを存分に語り合うのですわ!」

 

 そう言って秀麗と若荏は連れ立って歩き始めた。雨依、珊妙、涛瑛もあとに続く。

 梓明は小蘭に声をかけた。

「春蘭、私たちもお風呂に行きましょう」

「……行かない。梓明は入ってきなよ」

 そう言って小蘭は口を尖らせて、秀麗らと反対の方向に向っていった。

 梓明はそれを見て、

「もう春蘭ったら……」

 と、すねた弟を見るような目で苦笑いするのだった。


 小蘭がぷんすかと腹を立てながら、何処へ行くとなしに歩いていると、曲がり角でばったりと当の子宇と出会った。

 お互いに吃驚して一旦足が止まり、一定の距離を置いて向かい合う。

 子宇は小蘭を見るなり眉をひそめると、彼女に言った。

「お前、臭うぞ。仕事上仕方がないとは思うが、もうちょっと身の回りに気を使ったらどうだ? お前女だろ? ……女だよな?」

「ぐはっ!」


 小蘭は一声叫ぶとばったりとその場に倒れ、そのまま動かなくなった。

 子宇はいぶかしげに小蘭を眺めていたが、あとは何も言わずにその場を立ち去った。

 小蘭は頬に地面の冷たさを感じつつ、

「もういいや……」

 とつぶやくと、しばらくそのまま倒れ伏していたのだった。

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