前終 小蘭、知ってはならない秘密を知る
小蘭は珍しく内侍尚の食堂にいた。
ここは内侍尚に属する者のみが利用出来る場所である。内侍尚内では、小蘭は何かと有名人であった。
宮女登用試験に首席で合格。
新任式で、前代未聞のやらかし。
あの子宇に仕えて、未だにもっている。
あの子宇とやり合って、一歩も退かない。
その噂の渦中のひとである小蘭の目は据わっていた。
酔っていたのである。
この食堂は、夜は望めば酒も出した。一般の使用人の食堂にはない特典だった。
現時刻は宵の口である。
厨房の料理人である親父(宦官)は、小蘭の様子を見て首を傾げていた。
「おかしいなあ。あの山羊の乳で造った酒は、米や
小蘭は、その据わった目でじろり、じろりと食堂内を睥睨していた。
食事をとっている宦官たちは、
そんな中、小蘭の視線は一点に据えられた。見知った人物を見つけたのである。
「指導官どの! 指導官どのではありませんか! こっちに来て一緒に飲みませんかっ!」
食堂内に小蘭の大声が響き渡る。
他の宦官たちは、いつもより大分早く食事を終えて、そそくさと食堂を出ていった。
名指しで呼ばれた若荏も、ひとり夕食をとっていたが、極力小蘭の方を見ないようにして食事を終え、すっと席を立って――
「指導官どの……まるっきり無視とは、あまりにも酷くないですか?」
「ひいっ!」
突然耳元で囁かれた若荏は、びくん! と肩を跳ねさせて思わず悲鳴を上げた。彼女が恐る恐る振り向くと、満面の笑みを浮かべた小蘭が陶製の酒瓶を持って、すぐ側に立っていたのである。
小蘭と若荏は、ひとつの
片方はおどおどしており、もう片方はやさぐれつつ杯に乳酒を注いでいた。
このうちのひとりが新米宮女であり、もう一方が指導官だといえば、全員が小蘭を指導官だと指さすだろう。だが、事実はご存知の通り逆であった。
あの一件以降、若荏は小蘭に対して、苦手意識が芽生えてしまったのだ。
「指導官どのは……」
おもむろに小蘭が口を開けば、若荏は身を小さくしてびくっ! と震える。
「子宇のことが好きなんでありますね?」
「あわわわわわあ!」
いきなり秘中の想いを口に出された若荏は慌てた。
「ですが、前にも言った通り、あの男は駄目です」
わたわたと慌てていた若荏の動きが、ぴたりと止まる。
「……何が駄目なのよ」
さすがに想いの人のことを真っ向から否定されれば、若荏とて面白くない。小蘭に対してきつい声色で問い返してきた。小蘭はそれに答えて言う。
「あの朴念仁は、いくら指導官どのがさりげなく好意を表しても、全く気付きませんよ。このままでは、千年経っても変わらぬままです!」
「せ、千年?」
「仮に、勇気を出して告白しても、あいつは『興味ない』の一言でばっさり切って終わるでしょう」
「あああああ、それなのよっ! それが怖いから言えないのよっ!」
若荏は頭を抱えて円卓に突っ伏した。
「そんな冷血漢なのですよ、あの男は」
「……い、いいえ、それは違うわ。本当は優しい方なのよ、あのひとは――」
「優しい? はッ!」
若荏の言葉を小蘭は鼻で嗤う。
ぐびりと一気に杯をあおって、小蘭は言った。
「あんな
「乙女心?」
「あいつはよりによって、ひとのことを洗濯板と言いやがったのですぞ! 洗濯板とっ!」
「洗濯板? ぷっ」
「あ?」
思わず吹き出してしまった若荏は、小蘭に睨みつけられて慌てて口をつぐむ。
「以前にも竹簡やら石板やらと、言ってくれやがったやつはいましたけどね」
「竹簡……石板……ぷぷっ」
「まあ、そいつはきっちりと〆ときましたんでね。クフフフ……」
その小蘭の黒い笑いに、若荏は真顔になってぴしっと身をただした。
同時刻。
後宮の宿舎のある部屋では、ひとりの少女ががばっと寝台から跳ね起きた。彼女は自分が汗をびっしょりとかいているのに気が付いた。
「何ですの? なにやら凄まじい悪寒を感じて起きてしまいましたが、一体何が?」
さらに夜は更けて。
「だから~あの男はやめるのら~しろ~かんろろ~」
「うっう、子宇さまあ~、ぐすっううう」
小蘭はろれつが回らなくなり、若荏は鼻水をすすっていた。ふたりの円卓には酒瓶が五、六本転がっている。ちなみに若荏は泣き上戸らしかった。
そんなふたりに厨房の親父は、呆れたふうを隠さずに言った。
「そらお嬢さんたち、今日はもう看板だよ。さっさと宿舎に帰って寝てくんな!」
そうしてふたりは、無理矢理に食堂から追い出されたのである。
「鬼!
「はいはい、俺は親父だよ。元気があったらまた明日な」
小蘭が悪態をつくも、親父はさらりと流して食堂の扉を閉めた。
追い出されたふたりは、何を言うでもなく無言で別れた。若荏はぐずっていたが。
ふらふらと小蘭は自室に向かって歩いていく。
「う~、もう飲めないら~」
意識が飛びそうになりながら、小蘭は半死半生の態で部屋に到着する。
渾身の力を込めて戸を開けた。
部屋は二室に分かれていて、寝室は奥にあった。
小蘭はふらふらと千鳥足で奥に向かっていった。
丁度部屋の仕切りに差し掛かったところで、
「おい慶文、服を持ってきてくれ」
という知った声が聞こえたかと思うと同時に、小蘭は何かにぶつかった。
小蘭が閉じそうなまなこを無理矢理開いて前を見ると、茫然とした表情の子宇がいた。どうやら彼は風呂から出た直後らしかった。上気した頬と濡れ
小蘭と子宇は後ろ手に尻もちを着いて、向かい合っている。子宇は全裸だ。
と。
小蘭はある一点を凝視した。
そして彼女は吸いついたように、そこから目が離せなくなってしまった。
宦官であればあってはならない筈のものが、子宇の股間についていたからである。
子宇は、自分がぶつかったのが小蘭だと知るや、表情を消し、すっくと立ち上がった。そしてくるりと反転すると、自室の奥へと消えた。
小蘭はその体勢のまましばらく呆けていたが、酔った頭でわずかに状況を理解すると、びりっと電流を流されたかの如く、全身をがくがくと震えさせた。
思わず「はひぃ」と、間抜けな声が洩れ出た。
彼女は急いで立ち上がろうとしたものの、足腰が全く立たずに、生まれて初めて腰を抜かすということを体験した。
小蘭は自由の利かなくなった自分の身体を、必死になって四つん這いで出口まで引きずっていった。
その永劫とも思える苦行の末に、ようやく出入り口に手が届きかけた、まさにその瞬間に、がしっと何者かによって腰の帯紐が掴まれて、彼女はそれ以上進むことも退くことも出来なくなってしまった。
小蘭の顔面からは滝のように汗が滴り落ち、ごくりと喉が鳴り、唾を嚥下した。
そうして。
頭上から、冷厳な裁きの声が下りてきたのだった。
「おい、一体何処に行くつもりだ」
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