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「…母さん?」


 事務所の廊下。

 見覚えある後ろ姿を見付けて声をかけると、その背中は驚いたように肩をすぼめて。


「え…あっ、あー、知花ー」


 って…ひきつった笑顔で振り向いた。


「…何してるの?こんな時間に、こんなところで」


 あたしたちは、早くもセカンドアルバムのレコーディングに入って、今夜は泊まり。

 この階には誰もいない。


「あ、の…なっちゃんにね。ちょっと…」


「ふうん…」


 高原さんは…先月、藤堂周子さんと入籍された。

 そのニュースを聞いた時、ホッとした半面…少し気持ちが曇ってしまった。

 おめでたい話なのに…なぜか、誰にともなく…申し訳ない気持ちが湧いた。


 だけど、こうして母さんが高原さんに会いに来るって。

 ちゃんと、友人関係のようなものは生まれてるのかな…?



「高原さんなら、一番上の階だよ?」


 あたしがエレベーターを指さして言うと。


「ちょっと見学とか」


 って、母さんはキョロキョロしてる。


「転んだりしないでよ」


「知花じゃないもん」


「何それ。あたし転ばないよ?」


「あたしだって」


 あたしたちがそんな会話をしてると。


「知花…と」


 光史が、譜面を持ってやって来た。


「あ、母さんなの」


「あ、はじめまして。ドラム叩いてます。朝霧です」


「知花がいつもお世話になります。朝霧さんて…真音さんの?」


 ん?って思ったけど…そっか。

 高原さんと暮らしてたなら、Deep Redの皆さんと母さんは顔見知りか。


 それにしても不思議な感じ。

 母さんが、あたしの知らない光史を知ってるなんて。



「息子です」


「あたしね、一度だけお会いしたことがあるのよ。あなたが、こーんなにちっちゃい時…」


 あたしは…

 アメリカで光史と暮らしてたことを、家族に打ち明けてない。

 光史が、気を使ってくれて…そう決めたんだけど…



「…あたし、帰るね」


 光史と話してた母さんが、突然無言になったと思うと…急に方向を変えて歩き出そうとした。


「え?高原さんに会いに来たんじゃなかったの?」


「うーん…面倒になっちゃった。じゃあねー」


 手をヒラヒラさせながら帰って行く母さんを見送ってると。


「若いなー」


 光史は腕組みをして笑顔になった。


「知花の話聞いて想像してたよりずっと若い。ビックリだな」


「…でしょ。時々、母親だって事忘れちゃいそうになるもの」


「納得。並んでる姿は姉妹だったな」


 二人で顔を見合わせて笑う。

 ああ…いつも光史だ。

 そう思うと嬉しくなった。



「あ、ところで何?」


 探されてた事を思い出して問いかける。


「あ、ああ、そうだ。この続きが見あたんないんだけどさ、この曲って最後まで書いたのか?」


「え」


 あたしは通路の真ん中で、光史と譜面をのぞき込む。

 レコーディングに向けて書き溜めた楽曲の譜面を、ここ数日で大量に書き上げた。

 …はずなんだけど。


「あっれー…おかしいなあ…」


 バサバサと譜面をめくりながら、続きのページが途中に紛れていないか探す。

 静かな通路に紙の音だけがやたらと響いてる気がした。


「…知花」


「んー?」


「この間の返事、いつ聞ける?」


「……」


 あたしは、光史を見上げる。


 優しい目をしてる…

 でも…


「…ね」


「ん?」


「あたし…光史のこと、好きよ」


 うつむいて話し出す。


「……」


「アメリカで一緒に暮らしたのだって…誰だってよかったわけじゃない。みんなのことは、同じぐらいに大切だし…大好きだけど、光史は…また少し離れたところで安心できる心地良さを持ってて…」


「…それは、男しか好きにならないから?」


「そうじゃないよ。あたしも、それが何かわかんなかった。でも…」


「……」


「光史は、どうして…あたしと一緒に暮らしたいの?」


「愚問だな。好きだからだよ」


「嘘」


「どうして」


「千里を好きなんでしょ?」


「……」


 気付いてしまった。

 光史は、ここ何年か…ずっと、千里を想ってる。


 同じ人を想ってる。

 だから…心地良かったんだ。



「光史は、あたしを見つめてても…あたしを見てなかったよ」


「…俺は…」


 光史は今まで見たこともないくらい動揺してしまって、手に持ってた譜面を床にばらまいてしまった。


「…無理しないで、正直に言って」


 あたしが、譜面を拾いながら言うと。


「…憧れてるだけさ…」


 小さく答えた。


「……」


「俺は、今まで女に本気になったことがなくて…だけど、知花と一緒にいると新しい自分が見えてきたっていうか…」


 光史が、あたしの前にしゃがみこんで譜面を拾い始めた。

 あたしは、光史を真っ直ぐに見て言う。


「あたし、どうしたらいいの?」


「……」


「千里のこと、忘れられない…かと言って、前にも進めないで…」


 あふれそうな涙を我慢すると、光史が両手で頬を触った。


「光史なら…こんなあたしをどうにかしてくれるの?」


「知花…」


 唇に…光史の感触。

 光史は強くあたしを抱きしめると。


「俺が、忘れさせてやるから…」


 って、耳元でつぶやいたのよ…。

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