29

「超~厳しい…」


 10月。

 アメリカに来て二ヶ月。

 聖子が答案用紙を前に眉をしかめた。


「陸ちゃんが教えてくれるのはいいんだけどさ、もう、超スパルタなのよー」


 英語のとびかうスタジオの廊下で、あたしと聖子は日本語で喋ってる。


「でも、そのおかげでいい点とれてるんでしょ?」


「そうだけどさー…まこちゃんなんて、半泣き状態よ」


「あはは、目に浮か…」


「知花?」


「ごめ…」


 突然の吐き気に、あたしはトイレに駆け込む。


「…はっ…」


 最近、食欲がなくて、吐く物なんてないのに。

 毎日のように気持ちが悪くて、こうやって吐き気が襲って来る。



「知花…まだ食事が合わない?こっちに来てから、しょっちゅう吐いてるよね」


「…あ、ごめん…」


 聖子がペーパータオルを差し出してくれた。


「だいたい和食系だったもんね」


「…確かに…食事に慣れない気がする…」


 そう言いながら…

 あたしはその原因を知っていた。


 弱さ、だ。



 千里と別れてアメリカに来て。

 夢を叶えるために…歌うって決めたのに。

 一人で眠る夜は、簡単にあたしを涙もろくする。


 小さな頃から一人で寝てたじゃない。

 そう言い聞かせても…

 あのわずかな甘い生活の中で覚えてしまった、優しい抱擁が。

 突然どこからともなく現れて、あたしの胸を締め付ける。



 …千里を信じられなかったのは、あたし。

 別れるって決めたのも…あたし。

 全部…弱いあたしがいけなかった。



「胃でもやられてたら大変だよ?病院行きなよ」


「そうだね…」


 鏡に映ったあたしの顔は、青い。

 貧血気味なのかも。

 弱さが原因としても、仕事に差し支えちゃいけない…

 ちゃんと病院には行こう…


 あたしがそう思ってると。


「まさかー…さ」


 聖子が腕組して首を傾げた。


「ん?」


「妊娠…ってことは、ない……よね?」


「……」


 聖子の言葉を、頭の中で繰り返す。


 妊娠…


 でも、ちゃんと避妊してたし…

 そんなわけ…


 あたしが黙ってると、不安になったのか。


「ちなみに、ちゃんと生理きてる?」


 聖子が顔をのぞきこんだ。


「…もともと不順だし、環境が変わったからかなって…」


「……」


 聖子は眉間にしわをよせて。


「あんまり食べてないわりにはさ…少し太ったよね?腰回りとかさ…」


「…お腹が張る感じは…ちょっとあるけど、食事が合わないせいかと…」


「病院、行こ」


 あたしの手を取った。



 * * *



「体調悪いのかなとは思ってたけど…」


 陸ちゃんが、絶句。


「ごめんなさい…」


 あたしは、みんなの前で、頭を下げる。


 聖子と病院に行って。

 その結果。

 妊娠4カ月が判明した。



「で?どうするつもりだ?」


 光史の問いかけに、みんなは一瞬息を飲んだ。


「…あたし…」


「……」


「産みたいの」


「知花…」


 聖子が、立ち上がった。


「みんなに迷惑かけるかもしれない。でも、唄うことは辞めないし休まない」


「でも、あんた神さんは…」


「千里には、言わない」


「……」


「あたし、勝手だけど、血を分けた肉親が欲しい」


「……」


 あたしの言葉に、みんなは何か考えてるようだったけど。


「知花がそこまで言うんなら、産ませてやろうぜ」


 そう言ってくれたのは、陸ちゃんだった。


「陸ちゃん…」


「迷惑かけないから、なんて言うな。俺ら、仲間だぜ?」


「一人でいい格好すんなよ」


 光史が陸ちゃんの肩に手をかけて言って、少し笑う。

 センは、目を伏せて何か考えているみたいだった。

 まこちゃんは、ニコニコしながら陸ちゃんを見てる。


「…あたし、ちょっと飲物買ってくる」


 聖子がそう言って立ち上がった。


「…聖子?」


 あたしは、聖子を追って外に出る。


「聖子、待って」


「……」


「聖子、どうし…聖子?」


 聖子は立ち止まって、肩を震わせて。


「あたし、ひどい女」


 低い声で言った。


「…聖子?」


「絶対、堕ろした方がいいって…そう思ってた。でも、知花の…」


「いいよ、そんな。そう思うのは当然だよ」


「ううん、知花が色々考えてる間も、あたしは…」


 あたしは聖子を後ろから抱きしめる。


「今あたしがここにいられるのも、聖子のおかげなんだよ?」


「……」


「だから、そんな悲しい顔しないで。あたしは大丈夫だから」


 あたしが笑ってみせると。


「…仕方ないな…おむつの替え方…勉強しとかなきゃ…」


 って、聖子は涙声で笑った。



 * * *



「悪かったな、休みの日に」


「ううん、ヒマだったから」



 オフの日。

 突然、センから電話があって『ちょっと俺とデートしないか?』なんて言われて。

 あたしは待ち合わせ場所のバーク公園に向かった。



「聖子は?」


「学校」


「あ、そっか」


「何か、話したいことがあるんでしょ?」


 ベンチに座ってそう問いかけると、センは目を細めてあたしを見た。


「…知花さ、本当に神さんに黙ってるつもりか?」


「そのこと?」


「ああ」


「…あたしが好きで勝手に産むんだもの…」


「いつか子供が父親を欲しがったら?」


「…その時は、ちゃんと考える」


「…俺は、辛いよ」


「え?」


「今の知花…見てるのが辛い」


「……」


 センは、長い髪の毛をかきあげて。


「…俺、子供いるんだ」


 って、つぶやいた。


「え?」


「子供…今三歳」


 あたしの頭の中は、少しだけパニック。

 センに、子供?


「今はもう…ちゃんと父親もいて、俺はただの知合いのお兄ちゃんって感じになってるけどさ。彼女が妊娠した時、俺は高校生で…その事実を知らされなかった」


「……」


「だけど、突然そのことを知って…」


 センが高校生の時の子供…

 今三歳…


「セン、その彼女って、もしかして…」


しきだよ」


 あたしが問いかけようとしたら、後ろから…


「…陸」


 陸ちゃんがいて。


「おまえんち電話したらさ、親父さんがここだって。いやー、びっくりした。本当に浅井晋なんだな、親父さん」


 口元笑いながらそう言ったけど…目が、笑ってない。



「織は、センの子供を産んだ。それが、海だよ」


 陸ちゃんは、あたしの隣に座ると、低い声でしゃべり始めた。



「織の妊娠を知って、俺は逆上したね。たぶん知らないはずのセンに言った。拳もそえて。ケリも入ってたかな」


「…ああ…」


「みんなは反対した。でも、織は産むってさ」


 ああ…

 初めて会った時、陸ちゃんとセンの間にあった雰囲気って…



「で、もう一生何があっても早乙女とは会わせないぞ。とか思ってたのにさ…センがバンドに入って身近になったからってわけでもないんだけど、今度はセンがかわいそうになってさ」


「かわいそう?」


 あたしは、問いかける。


「実際産まれるまで、いい気分じゃなかった。でも産まれてみたら…可愛いんだな、これが」


 それは…海君を可愛がる陸ちゃんを目の前で見たから、納得できる。


「こんなに可愛いのに、実の父親であるセンは半ばムリヤリ別れさせられて会えないなんて酷いよな、って思うようになったんだ」


「ムリヤリ…」


「ま、お互いの家柄とか…な」


 センは黙って…首を傾げて陸ちゃんの話を聞いてる。


「だから、俺もセンの気持ちはわかる。知花が神さんに内緒で子供を産むってのには…ちょっと抵抗あるんだ」


 あたしは、目を閉じる。


 そっか…

 あたしは、織さんと同じ立場なんだ。



「…俺は、本当なら何も知る事は出来なかったのかもしれない」


 ふいにセンが口を開いた。


「突然…喋った事もないが、殴りかかって来て」


「……」


 センの隣で、陸ちゃんは少し眉を上げた。


「俺は織から一方的に別れを告げられた後で、どうしてって思ったけど…妊娠した事をから聞かされて…」


「…どうしよう…って思ったの?」


 あたしの問いかけにセンは小さく笑って。


「…陸の前で、こんな事言う日が来るとは思わなかったけど」


 チラリと陸ちゃんを見た後。


「迎えに行こう。それしか…思わなかったよ」


 視線を…組んだ指に落とした。


 …迎えに行こう…


 その言葉を聞いて、陸ちゃんは目を伏せた。



「……」


 もし、千里は…

 あたしの妊娠を知ったらどうするだろう。


 …迎えには…来ない…よ。



「あたし…」


 あたしは、目を閉じてしゃべり始める。


「あたしの実の父親は、あたしの存在を知らないの」


「え?」


 あたしの言葉に、二人は同時に声を上げた。


「知らないの。母さんが桐生院にお嫁に行ってあたしを産んだことも、たぶん知らない」


「……」


「でも、あたしは幸せだった。愛されてるって気が付いた時にはもう 遅かったけど、桐生院の家族を、今でも愛してる」


「……」


「だから、あたしもそれでいいと思う。いつか、また誰かと恋をして…彼には、何も知らせないままでいようと思う」


 あたしは、立ち上がる。

 大きくのびをして。


「ごめんね、あたし、こんなんで」


「……」


「イヤな想いもさせちゃって…だけど、お願い」


 二人を見つめて頭を下げる。


「千里にだけは、秘密にさせて」


 あたしが頭を下げたままでいると。


「…そこまで神さんに秘密にする理由は?」


 センが言った。


「…彼といると…あたし、弱くなるの…」


「……」


「こんなの…理由にならないかもしれない。だけど、あたし…彼の事信じられなかった。だから、自分から離婚を申し出た。そんなあたしに、これから先の彼の人生に関わる資格なんて…ない」


 あたしの言葉を、二人は黙って聞いてくれて。


「…変な体勢してんなよ…腹に悪いから」


 陸ちゃんが立ち上がって、あたしの身体を起こした。


「わかった。知花がそこまで言うんなら…」


「セン…」


「目をつむっててやるか。な、陸」


「しゃーねぇなー、どいつもこいつも」


 センと陸ちゃんに笑顔が戻って、あたしはホッとする。



 陸ちゃんは、んーってのびをして。


「知花、センち行かないか?浅井晋がいるぜ」


 って笑った。


「あ、本当?行きたいー」


「何だよ、それ。普通のおっさんだぜ?」


「浅井晋っつったら、世界のスターだよな」


「ね。」


「衣装もいつもオシャレでさ」


「そうだよね。この前見た音楽雑誌の表紙、すごくカッコ良かった」


「…知らないぞ…?」


 あたしと陸ちゃんの満面の笑みに、センは頭を抱えた。



 そして、センの家にたどりついて。


「よ、いらっしゃい」


 ジャージ姿の「浅井晋」さんを見て、陸ちゃんは口を開けたままになった。

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