11

「おい、起きろ」


 ペシペシと頬を叩かれて、目が覚めた。


「あ…れ?三日月湖…?」


 目を開けると、結婚前に来た事のある湖。


「千里、明日仕事は?」


「あるぜ」


「大丈夫なの?こんな遠くまで…帰り遅くなるじゃない…」


「おまえ…人が運転してる時にグーグー寝てた奴が、んなこと言うか」


 …口元笑ってる。


「帰り、おまえが運転な」


「…勇気あるわね」


 めったに言わない冗談まで出てきてしまった。

 ご機嫌じゃない。



「ボート乗ろうぜ」


 千里がギシギシいってるボートを引っ張ってやって来て。

 あたしは、眉間にしわをよせる。


「それ、乗れるの?」


「大丈夫だろ。ほら」


 千里が手を差し伸べてくれて。

 あたしは、ゆっくりボートに乗り込む。

 ボートをこぎ始めた千里は空を見上げて。


「タイミングいいのな。三日月だぜ」


 って言った。


「ほんと。なんだかロマンチックだね」


「何が」


「だって、全部二人占めだよ?」


「…二人占め…」


 千里は小さく笑って繰り返した。


「二人占めかよ」


「…何よ」



 ボートは湖のまん中あたり。

 夜空には、くっきりとした三日月。

 小さな星の瞬きも…きれい。



「おまえさ、なんでシンガーになりたいんだ?」


「…え?」


 夜空に見とれてると、千里に問いかけられた。

 まさか、こんなこと聞かれるなんて。



「俺は、不純な動機だった」


「不純?」


「兄弟の中で、一番出来が悪かった。でも、どういうわけか音楽に関しては群を抜いて長けててさ」


 珍しく、自分のことを話す千里。


「兄貴たちは、それぞれ自分の頭の良さや器用さを生かしてる。それなら、俺も音楽で有名になってやる。みたいな感じだったんだ」


「別に、不純じゃないと思うけど…」


「そっか?純粋に唄が好きで好きでたまんねぇってのとは違うんだぜ?」


「でも、今は好きでしょ?」


「…さあ…わかんね」


 千里は髪の毛をかきあげて。


「でも、歌う事を辞めちゃいけないとは思ってる」


 少しだけ、照れくさそうに言った。

 …初めてだな…こんな顔してくれたの。


「あたしは…」


 小さく口を開くと、千里は首を傾げてあたしを直視した。



「物心ついた頃には、何となくだけど…シンガーにならなきゃって感じがあって…」


「ふん、生まれ持って…かよ」


「でも、本当は…」


 あたしはうつむいて、小さな声で。


「本当の両親を探そうと思って」


「おま…」


「だけど、だけどね。今は違うの。歌う事が楽しくて…親を探そうなんて二の次になってる」


「…おまえ、どこまで知ってんだ?」


 千里が真剣な顔で、あたしに言った。


「…全部知ってるよ」


「全部って」


「…父さんも知らないような事…」


「……」


 あたしは赤毛を触りながら。


「父さんは、あたしの母親はハーフだって言ってたけど…知ってるの。日本人だって」


 って、つぶやいた。


「それと、シンガーだったって事も」


「どうして知ってるんだ?」


「千里はどこまで父さんから聞いた?」


「おまえ、かまかけてんのかよ」


「違うよ。あたし…信じられないかもしれないけど…覚えてるの」


「……」


「母親の、お腹の中にいた時のこと…」


 千里は黙ってあたしの話を聞いてる。


「継母さんはあたしを嫌ってて、その継母さんから色々聞かされたけど、あたしはそれよりずっと前から全部知ってたの。あたしの…父親の事も…」


「父親の事も知ってんのか?」


「ん。」


「誰なんだ」


「名前とかは、わかんない。でも、歌がね…あるのよ」


「歌?」


「いつも母親があたしに歌ってくれてた。歌えって言われたらちょっと怪しいけど…英語の歌で…」


「それって、聞いたらわかんのか?」


「たぶん…」


 あたし、聖子にも言えなかったのに。

 どうして千里にしゃべっちゃってるんだろ…



「普通、お腹の中にいた時の記憶って生まれて来る時になくなるって聞いた。だからあたしも夢かなって思ってたの。でも、そうじゃないんだって確信が持てたのは、継母さんの話とあたしが夢だと思ってたことのつじつまが合ったからなの」


 千里は、あたしの嘘のような話を真面目に聞いてくれた。


 少し…見る目変わっちゃったな。



「知花」


「え?」


 突然。

 千里の優しいキス。

 乱暴きまわりないキスしか知らなかったから…少し驚き。


「…何だよ、その顔は」


 口唇が離れて、目を丸くしてると。

 千里は眉間にしわを寄せた。


「…優しいキスもできるんだなと思って…」


「失礼な奴だな」


「だって…」



 初めて…千里を感じることができたような気がする。


「寒くないか?」


「うん…」


 何だろ…


 千里と一緒にいるのが心地良くなってきた。



「…今日、何かあったの?」


 あたしがそう切り出すと。


「どうして」


 千里は、櫂を持ってボートをこぎ始めた。


「帰った時、機嫌悪かったじゃない」


「ああ…」


 千里は思い出したように少し天を仰いで、小さく笑った。


「別に、何でもねーよ」


「…聞いてもいい?」


「何」


「瞳さんて、高原さんの娘さんなんだってね」


「ああ」


「…どうなったの?」


 ついこの間、瞳さんのことを知ったばかりなのに。

 あたしの頭の中は、まだ見た事もない瞳さんでいっぱいになっている。


「何だよ、気になんのかよ」


 千里はいつものニヤニヤ顔で言ったけど。


「…気になる」


 あたしが真顔でそう言うと。


「…心配すんな。別れたから」


 って、視線を湖に落とした。


「…別れたの?」


「ああ」


「よかったの?」


「何だよ、おまえは。言ってること、むちゃくちゃだぜ?」


「そー…うだけど…」


 彼女の事、もっと考えてあげなさいよとか言った立場上…なんだか、とっても罪悪感。

 会った事ないけど…瞳さん、ごめんなさい。


「ま、正しく言えば、俺がそっけないからふられたんだけど」


「…本当?」


「ああ。それに俺も、おまえ一人でもいっかな、なんて思ってるし」



 視線は湖だけど、千里はいつになく真顔。

 あたしは、なぜか胸がいっぱいになってしまって。

 湖に映った三日月を、しばらく黙って見つめてた…。



 * * *



「ほ…本当に運転させる気?」


 千里が助手席に乗り込んだ。


「しろよ」


「じ…冗談よね…?」


「冗談。ほら」


「え?」


 千里はダッシュボードの奥深くにあったカセットを取り出して、あたしに渡した。


「……」


「俺らの」


 千里は普通にそう言いながら、運転席にまわった。


「…聴いていいの?」


「そのかわり寝るなよ」


「うん」


 あたしは助手席に乗り込むと、早速カセットをセットする。

 車が走り出して、カセットからはスタジオ…かな?

 何やら話し声が…


「スタジオ?」


「忘れた」


 もう。

 自分の作品に対して情が薄いって言うか…

 しばらく話し声が続いたあと、やっとカウントが入って。


「このサックス、キーボード?」


 あたしがイントロを聴いて問いかけると。


「いや、俺が吹いてる」


 千里が、さらっと言った。


「サックス吹けるの?」


「楽器はひととおりできるぜ?なんか、やんないと気がすまなくて」


 …分かるような気はするけど…

 それにしても、すごい。

 器用すぎる。

 …と、イントロが終わって…


「……」


 緊張してしまった。

 これが…千里の声?

 千里の顔を見ると。


「…なんだよ」


 思い通り、冷たい声。

 流れて来る曲の、その声は。

 あまり高くなくて…だけど、心地いい低音。

 そして、何よりインパクトの強い…しゃがれた声…



「…声、しゃべる時と違うね」


「おまえは同じなのか?」


「そー…じゃないけど…」


 初めての、千里の歌声…

 聖子の言う通り、見る目変わっちゃいそう。


「曲、千里が書いてるの?」


「ああ」


「…前に、あたしの譜に書き込んだでしょ」


「ああ…おまえ、DとかCとか、つまんねーコードばっか使ってっから。」


 つまんねー…

 ま、いっか。


「すごくね、かっこいい曲になったの」


「そりゃそうだ。俺が手を加えたんだから」


 あたしの言葉に、千里はご満悦の様子。


「でも、どうしてわかったの?あたしの声があのキーまで出るって」


「俺は曲を書くのが仕事なんだ。おまえのしゃべってる声とかずっと聞いてれば、だいたいは予想つくだろうが」


「……」


 驚いた。

 本当に、驚いた。

 聖子が千里を絶賛するのがわかる。


「…何だよ」


「ううん…すごいなと思って」


「何が」


「観察力っていうか、洞察力っていうか…」


「おまえ、俺を甘く見てたな?」


「だって、家じゃ全然音楽の話なんてしないし…楽器だって弾かないじゃない。」


「俺にとって家ってのはエネルギーを蓄えるとこなんだ。家帰ってまでチマチマやってられっかよ。」


「ふうん…」


「俺は短期集中型だしな」


「でも…」


「何」


「結婚する前とか?ほとんど待ち合わせに遅れずに来てたじゃない。あたし、てっきり暇人かと思ってたのよ」


「ルーズなのが嫌いなだけだ」


「よく言うわね」


「ふん」


 どうしよう。

 楽しくてたまんない。

 あたし、このままじゃ…千里を好きになっちゃうかもしれない。

 好きになってもいいのかもしれないけど…

 心のどこかで、やめといた方がいいって。

 そんな声が聞こえような気がしてるのよ。



「腹減ったな」


 千里がそう言って前方を指差した。

 そこには、ドーナツ屋さんのドライヴスルー。

 深夜一時だと言うのに、車が二台並んでる。

 千里はウインカーを出してそこに並ぶと、出て来た店員さんに渡されたメニューをあたしに見せた。


「ホットコーヒーと…このブランって甘くないか?」


「甘くないよ」


「じゃ、ブラン二つ。おまえは?」


 あたしは、メニューをのぞきこんで。


「ホットチョコレートとシュガーナッツとバニラにしよ」


 弾んだ声で言う。

 あたしは、甘い物大好き。

 すると。


「考えただけで気持ちわりぃ…どうにかなんねぇのかよ」


 甘い物が大嫌いな千里が、頭を抱えた。


「いいじゃない。あたしが食べるんだもん。あ、ほら、進んでるよ」


 前の車が動いて、あたしたちの番。


「ホットコーヒー一つと、ホットチョコレート一つ。それとー。ブラン二つにシュガーナッツとバニラを一つずつ」


 あたしがマイクに向かって言いきると。


「太ったって知らねぇぞ」


 千里が髪の毛をかきあげながらつぶやいた。


『ご注文を繰り返します』


 店員さんの声が聞こえてきたけど。


「太ったシンガーなんてのは、見苦しいからなあ」


 あたしの耳は、千里の声を拾っていた。


「…あたし、そんな、太ってないよね?」


「今はな」


「……」


「俺も、どっちかっつーと、太った女は苦手だな」


「……」


 別に…千里の好みなんて…

 でも…


『以上でよろしいでしょうか?』


 店員さんの声。

 あたしは、マイクに言い返す。


「すいません。訂正していいですか?」


『え?』


「ホットコーヒー二つと、ブラン三つにしてください。」


 そう言ったあたしの隣で。


「よしよし」


 千里は、満面の笑みで、あたしの頭をなでたのよ。



 …いや、違うから…!!

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