2.Urbæ nîgrönta
「世田谷区の住宅で火事があり、焼け跡から女性の遺体が見つかりました。東京消防庁によりますと、今日午前6時30分ごろ『住宅から煙が出ている』と119番通報があり、およそ30分後に火は消し止められましたが、焼け跡から女性とみられる遺体が見つかったとのことです。この家は空き家になっていたということで、警視庁は遺体の身元の確認を進めるとともに出火原因を調べています。現場は……」
テレビのニュースを聞き流しながら、ズボンのポケットの中で複雑怪奇に編み上がってしまったイヤフォンのコードをほぐす。
イヤフォンのコードを解きながら今日一日のスケジュールを頭の中で確認する。いや、特に確認する必要はないのだが、重要なイベントが重なっていて、無意識に考えてしまう。
大学へ行き、英語の中間テスト。13時半からテストだから、12時半過ぎには行って過去問を眺めておこう。それが終わった後に電車で移動、駅前のカフェか何かで暇を潰しつつ、時間を見て面接会場へ入る。よし、完璧なスケジュールだ。
イヤフォンコードにできた最後の輪っかを攻略し、絡まないようにそっとポケットへ入れる。腕時計はちょうど正午のあたりを指している。出かけよう。ニュースキャスターは丁寧にお辞儀をした。
この日のイベントは順調に進んだ。まさかこんなにも順調に進むとは思わなかったが、全ては十分に準備を行ったおかげだ。と駅の階段を登りながら小さく自分を讃える。英語のテストは過去問の通りで、前半は昨年、後半は一昨年のものとほとんど同じだった。英語のテストだけは落とすことができないので、入念に勉強した甲斐があった。面接の質問も用意していたものばかりだった。まるで練習をしているかのように予定調和で進んでいった。今日はとてもうまくいった。が、その達成感と引き換えに代償として疲れがどっと体の芯に注ぎ込まれるのを感じる。階段を登りながら体がじわりじわりと重くなっていく。はぁ……、こんな時にちょっとだけ息抜きができたら。
そう思っていたとき、ふいに携帯が震えた。
高橋からだった。
「今日飲みに行こう」
いつもは断っていた飲み会に、今日はなぜだか行きたくなった。このハードな1日を乗り越えたのだ。少しぐらいご褒美が欲しいくらいだ。
俺は即座に了解のメッセージを送信し、家とは逆方向の電車に飛び乗る。
「パチンコが当たったからさ」
高橋は奢ると言った。高橋は同じ学科の同級生だ。テストでカンが当たったとか教授にうまく気に入られたとかで、今は一番人気の研究室に属している。俺はそういうのは好きではないが、周りの人間は『運が良い』などと言ってこいつを付け上がらせている。
「お前は相変わらずツいてるんだな」
「ははははは、俺は最強だからな」
高橋はそういってビールをゴクゴク飲み注いだ。まぁ、高橋のこういうところは正直嫌いじゃない。
「琳乃介はどうなんだよ。最近付き合い悪いのに、なんかいいことでもあったのか」
「いや、別にさ。ちょっと時間できただけだわ」
俺は笑いながらそう答えた。
「わかった。就活がうまくいったとか、テストがうまくいったとか。そのどっちかだろ」
「両方。」
俺はくだらなさを口元に込めながらニヤケ顔を見せた。高橋は庶民的〜などとほざきながら爆笑した。俺もつられて笑う。
それからは久しぶりに互いの変わりもしない近況を確認しあった。他愛もないことを取り上げては、良いだの悪いだの語り、誰が誰を好きだとか、嫌いだとか、流行りの珍しげなものを話題にあげて生半可にツッコミを入れ、飽きたら別の話に移る。多くの人がこんな場ではそうするように、周りの出来事が話題だけのために存在し、それを何も考えずに口から発する。そうして時間が来るまでここでだらだらと話しながら過ごす。そうした時間に何も得られるものはないが、何かを得るという呪縛から逃れるためにこの場を過ごしているのかもしれなかった。
そうこうしているうちにラストオーダーが終わり、店員が退店を促しに来たに来た。俺が「そろそろ出るか」と言い、二人で帰り支度を始めたときだった。
高橋が「そういえば」と話を切り出した。
「これ、この間もらったんだけどさ」
高橋は首にかけられた透明な球を手にとって見せた。
「なんだよこれ」
中に銀色の金属片が埋め込まれている。何かが書いてあるようだが小さくて読めない。
「もらったんだよな。知らない人に」
「もらった?」
「なんかパチンコ屋で隣の人に『その台好きなんですか?』って話しかけられてさ。そのまま話が盛り上がって一緒に飯食いに行ったんだけど、その時にこれ渡されて」
「なんか怪しいな」
「なあ、俺も最初に気づけばよかったんだけど。んでこれ見せてきて。『運気を上げる石』とか言ってたな。宇宙の奇跡だとか人生のレベルアップだとか変なことばっかり言うから話半分に聞いててよく覚えてないわ」
「うわ、それ危ないやつじゃん」
「で、これをタダでくれるとか言うんだよな。その代わりに別の人にもこれを渡したいとかで、誰か紹介してくれって頼まれてるんだよな」
「俺はごめんだよ」
「まぁ、そうだよな」
「そんなもの貰わなきゃよかったのに」
「連絡先は交換したけど、価値あるんならこれだけ貰ってバックれようかなって思ってさ。そしたらこの前大学の校門で会って『どう?紹介できる人見つかった?』って言われて」
「怖っ。なんで知られてんの?」
「わかんね」
「早くそれ返して謝ったほうがいいよ」
「かもなー。でもこれ貰ってからなんか運気上がった気もするんだよな」
「気のせいだろ。ガラス玉かもしれないし」
うなだれる高橋とともに会計を済ませ、店を出ると高橋がまだ飲み足りないと言うので、しかたなく近くのパブ風の居酒屋まで足を運ぶことになった。
店に入ったものの、人がごった返していて座れるような席も空いていなかったので俺らは机を見つけてそこで立ち飲みをすることとなった。飲み始めると、高橋は再び貰った石についての話を始めた。ガヤガヤと喧騒にまみれた酒場のなかで突っ立っていると酒の回りも早く感じる。次第に話の内容は「高橋が最近幸運だった話」に移って行き、俺はそれに対して「偶然だ」、「いつか代わりにバチが当たる」などと茶々を入れる。
そんなとき、俺の後ろの方から女の人の声がした。
「ねえ、その話もっとよく聞かせてくれない?」
その人は赤いドレスを着て、ブランドもののバッグを持ち、五百円玉くらいの大きさのイヤリングを耳からぶら下げている。
「え?ええ、いいですけど」
高橋は再び自慢話をしはじめる。前から行きたがっていたコンサートのチケットが当たったこと、財布を拾って届けたら持ち主が有名人でお礼にサイン入りのグッズをもらえたこと、試験で勘で答えた答案がことごとく当たっていたこと、自販機でエナジードリンクが当たったこと、その自販機で100円玉を拾ったこと、そして今日のパチンコの大当たりしたこと。俺はどれも聞いたことがある話ばかりだった。
見ず知らずの人に話しかけられてペラペラ自慢話を続けるのはさすがに不用心じゃないか?などと思いながら聞き流していた。俺はメニュー表にあった新発売の柑橘系の酒を眺めたりストローで氷をいじったりしていたが、赤ドレスの人はその間楽しそうに話を聞いているようだった。
高橋が話を終えるとその人は「いいなあ、私も運が良くなりたいな」と言った。
高橋の目尻が一瞬下がった。何かを企んでいる時の顔だ。
「よければお姉さんに紹介しましょうか?石の人」
こいつは自分に降りかかった面倒を見ず知らずの他人になすりつけて逃げようとしているらしい。高橋のこういうときの機転には時々尊敬してしまいそうになる。俺に良心というものがなければ危うくこいつの配下になっていたことだろう。
「えっ、いいの?」
お姉さん、乗ってはダメだ。そんな下らない誘いに。
「いいですよ。そもそもこの石をくれた人はパワーストーン?を人にあげる活動しているらしくて、だからお金も取らないんですよ」
「そうなの?すごいじゃんそれ!」
なにがすごいのだ。勝手に心の中でこの人を憂ってしまう。
「連絡先教えますよ。携帯あります?」
「うん、ちょっとまって」
俺の良心の叫びも虚しく彼女はこんな見るからに怪しい誘いを受けてしまった。
声にならない「やめとけ」が心の中でこだまする。
その後、なぜか俺まで一緒に連絡先を交換したあと、彼女と別れた。俺はメッセージアプリに出た文字を見て彼女の名前が「愛美」だということを知った。
駅前まで来た俺と高橋は、「最低だぞ」「しょうがない。あの人も興味持ってたし」を別れの挨拶にしてそれぞれの路線のホームへ向かった。
ホームはいつものようにたくさんの人々でごった返していた。
電光掲示板が一定時間の感覚で同じ情報を繰り返し表示していた。その更新が一周するたびに俺の後ろにできた列は伸びていく。
しばらくすると電車が来て、ホームと同じかそれより多い人間の塊を運んで来た。ドアの開いた間から電車は大量の人間を吐き出し、そこに空いた隙間に収まるように俺は流れ込んだ。
よく見ると、茶髪の大学生や酒臭い老人に混じって、スーツ姿の人が大量にいるのに意識が行った。
こんな時間まで仕事か……。
いつもはなんとも思わないのに、なぜか今日はその事実が自分に重くのしかかる気がした。それは今日の面接が思いの外うまくいったせいかもしれなかった。
このまま試験も就活もうまく行って、卒業して、それで行きたいところ、たった今やりたいと思っている仕事ができたとして、それに何時間も費やしてそれを何年も継続して、急に嫌になったりしてしまわないだろうか。
自分の選択は正しいのか。
決まってもいないのにそんなこと考えてもしょうがないだろ。
自分を諌める。最近はこうやって一人になるとそんなどうでもいいことに考えが巡ってしまって良くない。
こういうときは別の“どうでもいいこと”を考えよう。今日の飲み会、高橋は……正直羨ましい。ダメだ。石……全く興味が湧かない。ダメだ。うーん……
そういえば、あの女の人はなぜ俺たちに話しかけて来たんだろう。
見ず知らずの俺たちに話しかけて、高橋の自慢話を聞いて、「石の人」を紹介してもらって。何がしたかったんだ?
まあいいや、でも綺麗だったな、などと思っていると携帯が静かに震えた。
身をよじって携帯を取り出す。画面には「愛美:今から飲まない?」の文字。
『眠らない街』の異名に相応しく、駅前の大通りはこんな時間でも大勢の人が歩いている。暗闇に似つかわしくない喧騒と腐敗臭に似た街の香りを纏った風に煽られながら、俺はビルの谷間を歩いた。街に青白い灯りを添えるコンビニの脇を右折すると大通りとはうって変わってひっそりとしていて暗く、人はおろか街灯ひとつ無かった。
一階のシャッターが閉じている何かのオフィスらしい小汚いビルと、暗い窓を並べた怪しげなビルの間に挟まれて、目的地の建物はあった。
小さいビルで、窓一つ無い。暗くてよくわからないが、壁に落書きがあったりしていて、両脇に負けないほど怪しくて汚く見える。
入り口を入るとすぐ階段があり、1階と2階の間の踊り場のようなところにエレベーターがある。上行きのボタンを押すとすぐドアが開いた。
エレベーターに乗り込み黄ばんだ5階のボタンを押す。エレベーターはブルっと震えて発進した。俺はこのエレベーターが何かの弾みで下に落ちてしまわないか心配になったが、無事5階にたどり着いた。
エレベーターが開くとすぐ前に店のドアがあり、その中央に筆記体で「Twilight」と書かれている。
思いきってドアを開けると見たことのある顔がこちらを向いた。
「あー、遅いよー!」
愛美だった。
中は薄暗く、仄かに流行りの洋楽が流れていた。店員はバーテンダーが一人。客はほとんどおらず、カウンターに座る愛美の他には社会人っぽいスーツを着た数人のはグループが奥のテーブル席にいるだけだった。
「いや、すみません。電車混んでて」
これでいい?と愛美が手元のカクテルグラスに入った液体を指差して言った。淡い青が店の間接照明に照らされてキラキラと輝く。薄暗い店内に浮かび上がる愛美の姿はより一層綺麗に思えた。
「これはなんですか?」
「ダイメンションっていうお酒。レシピは秘密らしいんだけど、この店で一番美味しいんだよ」
「んーじゃあそれで」
「オッケー」
バーテンダーは愛美からの注文を受けると冷蔵庫から取り出した10種類ほどの液体を調合し、シェイカーをがしゃがしゃと振って出来上がった青色の液体を、カクテルグラスの中にドロドロと注ぎ込んだ。
俺が運ばれてきた酒を手に持つと、愛美が「かんぱーい」と空中で乾杯の動きをしたので、俺も真似て同じ動きをする。その流れで一口含んだ途端、かなり強めの刺激をまとった液体が口の中に侵入してきた。俺はあまりの刺激に咽せそうになるのを必死にこらえて飲み込む。
「あは、ちょっときつかったかな」
愛美はいたずらっぽく微笑みながら自分の酒を煽った。俺はそれを見ながら手元のふきんを口に当てた。
ちょっときつい、というどころではない。あまりのアルコールの強さに味を感じられなかった。
「はい……すごいですね、これ」
俺は少し息を荒らげながら答える。
「でも味は美味しいよ?もう一回チャレンジチャレンジ!」
愛美の言葉に乗せられて俺はさっきよりも少量の酒を口に含み、口に入り込んだその刺激物をおそるおそる舌に纏わせる。
「あ……」
うまい。確かにうまい。これは比喩でなく、これまでに飲んだ飲み物の中で一番美味いと思った。酸味と甘みの具合がちょうどよく、ひたすら嫌味のないさっぱりとした甘みが口いっぱいに広がり、その後やってきたアルコールが爽やかに口の中を洗い流した。甘酸っぱい風味が口の中に残る。思わずもう一口、また一口と少量ずつながら飲み進めてしまう。
「そんなに速く飲んだら酔っ払っちゃうよ?」
あははと笑いながら愛美が言った。
「そうですね。でも本当に美味しいです」
「よかった。気に入ってもらえて」
愛美は酒を口に含む。
「あのね、ちょっと聞きたいことがあって」
「なんですか?」
「あの『石』についてなんだけど」
「ああ、あれは断った方がいいですよ」
「そうなの?」
「あんなの、嘘に決まってるでしょ。高橋は面倒ごとを愛美さんに押し付けて逃げようとしているだけです」
「でもあれのおかげで運がいいことが続いてるって言ってたよ?」
「そんなの気のせいですよ。そもそもあいつはもともと運がいいっていうか」
「『運』は信じるんだ」
愛美はニヤリと笑みを浮かべる。
「いや、それも気のせいです。とにかく、あんな詐欺まがいのことに付き合っちゃダメです」
俺は心からの良心を込めて言った。
「そうかー」
愛美が何も考えてなさそうな声で言う。
「本当にダメですよ。第一、なんの見返りもないのに石を配ってる人なんて怪しさしかないじゃないですか。絶対ダメです」
「はいはい、わかったよ」
愛美が微笑みながら言う。俺は酔ったのか少し語気が強くなっていたのに気づいて「すみません、なんか熱くなっちゃって」と言って酒を口に含む。
「あの、俺もひとつ聞いていいですか」
「何?」
「なんで俺たちに話しかけたんですか」
俺は頭から離れなかった疑問を愛美にぶつけた。酔った勢いだ。
「あーちょっと人を探してて」
「そうなんですか。見つかりそうですか?」
俺はなんとなく話を続けた。
「うん、もう大丈夫かな」
「あ、もしかして『石』の人ですか?」
愛美はふふ、と笑って目をそらした。
「あのさ、さっき高橋くんの話は嘘っぱちだって言ったよね」
「はい、そうですけど」
「でも、もしそれが本当だったらどうする?」
結露の溜まったカクテルグラスを水滴が流れた。
「何を言って……」
「もしもこの世のどこかに幸運を操る中枢があって、あの石を通じてこの世界に幸福を撒いてるとしたら?」
俺は「は?」という顔を愛美に向けた。酔った頭を整理して言葉を選ぶ。
「……えっと、もし本当にそうなら『証拠を見せてくれ』って感じですね。そしたら信じるかもしれません」
「そっか、ありがとう。私の探していた人は君なんだ」
愛美は手首につけた腕時計を見た。
「見せてあげるね。証拠」
その瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。息が上がり、強烈な寒気と熱が全身を交互に襲う。意識が朦朧としはじめ、凄まじい眠気に包まれる。まるで重力が何倍にも増えるように感じられ、座っているのもやっとの状態になりながら俺は力を振り絞って声を出す。
「……ちょっと……この酒何か……変なもの入ってない?」
数秒後、遠のく意識の中で愛美の声が聞こえた。
「ごめんね、レシピは秘密なの」
びゅうびゅうと吹き流す風と大きな揺れの中で俺は起きた。
目を開くと、街路灯と光を灯した道路案内板がものすごい勢いで過ぎ去っているのが見えた。眼下ではタイヤのついた赤い乗り物の下を点状の白線が前から後ろに流れていく。
紐のような何かで縛り付けてあるようで身動きがしづらく、体をうねらせて辺りを見回そうとする。
「あ、起きた?」
前から女の声がした。紐は彼女に括り付けられているようだった。
「このバイクかっこいいでしょ」
俺は再び体を動かして前にいるのが誰なのか確認しようとしたが、ヘルメットを被っていて顔がよく見えない。
「あんまり動かないで。落ちたら死ぬよ。」
「ちょっとまって、君だれ」
「愛美だよ。さっきまで一緒に飲んでたじゃん。」
ふふと愛美は笑った。
「え?どういう状況?酒飲んで運転してるの?」
あはは、と再び笑う。
「もしかして本当にお酒飲んでると思ってた?」
彼女は「まあ、飲んでも酔わないけど」と言いながら小型のラジオのようなものをライダースーツのポケットから取り出し、ハンドルの横に取り付けた。
ラジオの電源が入りスピーカーからザーザーとノイズが流れる。
「どこに連れてく気?」
「もう一つの世界。見たいって言ったでしょ? 」
ツマミを弄りながら彼女が言う。
「もう一つの世界……?」
「そう。楽しいところだよ!」
そう言いながら、愛美はエンジンをふかし、バイクを急加速させる。
並走する車をぎりぎりのところで追い抜いていくので、俺は思わずうわっ、と声を上げた。
その時、ラジオからチャイムの音がした。
「午前0時ちょう……の…環状線……10キロ地点に……の影きょ……イワ……ジャンクションが発生……ています。」ところどころにノイズを挟みながら音声が何かを伝えている。
「通行に……23マ……ロびょ……」
愛美がラジオの電源を切った。
「じゃあいくよ」
速度メーターが130、140、160と上がっていく。エンジンが吹かされる振動が尻から伝わってくる。
そしてそれとともにゆっくりと下に落ちていく感覚がした。
下を見ると、水に浸かるように道路の中にバイクが沈んでいく。
道路の中に足が、体が、頭が入り込み、目の前は何も見えなくなった。
どうなっているのか愛美に尋ねたかったが、空気が水のように重く感じられ、声を出すことも出来ない。
少し進むと、目慣れしてきたのか辺りがうっすらと見えるようになった。
しばらくすると電光の標識が現れ、車線を跨いで左に進んだ。
「さっきから聞いてるんですけど、どこに連れて行く気なんですか?」
何度も繰り返した質問に対して、やっと愛美が口を開いた。
「アマガハラ」
「なにそれ」
「アセンションすると行ける世界」
「え?意味がわからないんだけど」
「もうすぐ着くよ。見た方が早い」
彼女はわけのわからないことを言っているのだが、さっきからわけのわからないことばかり起きているのでそれを信じるしかなさそうだ。
「で、そこに行って何をするの」
「生き残るの」
「生き残るって、それどういうこと?それって危険な場所なんじゃ……」
「ほら、トンネルを出るよ!」
俺の言葉を遮って愛美が叫んだ。
周りの視界が拓け、眩い光が俺たちを照らした。俺は辺りを見回す。薄暗い空と眼下に広がる闇と煌びやかな光の点模様、近未来的でありながら朽木のようにささくれ立った異様な高層ビル、その向こうに猛烈な光量をもって輝く巨大な柱のようなものが見えた。
「なんだよここ……」
見たこともない景色に圧倒され、思わず息を飲む。
「着いたよ。すごくない?」
「あれは何?」
目慣れしてくると、巨大な柱は塔のような形をしていることが分かった。空には太陽が見当たらず、まるでその巨塔が空を照らしているようだ。
「あれがアカシックレコード。この街のエネルギーの源ね。運命の変化がこの街を動かしているの」
おれは愛美が何を言っているのか全くわからずに困惑した表情を浮かべる。
さっきからまともな会話ができていない。
すると突然、周りのガードレールが黄色く点滅を始めた。
「注意。異常事態発生。管理者以外は速やかに退避せよ。繰り返す。異常事態発生。管理者以外は……」
けたたましい警報音と自動音声が道路に鳴り響いた。
「これ、なに?」
俺は愛美に尋ねるが返事がない。
すると、バイクの走るちょうど真横に何やら並走する物体が現れる。
「あななたちの身元が不明です。止まって調べさせてください」
その物体は人だった。それもまだ年端のいかないような子供に見える。
そんな子供がバイクの走る真横を飛んでいる……。
「なんで?」
愛美はエンジンをさらに吹かしながら答える。
「通報がありました。今すぐ調べて問題なければ、穏便に済ますよ」
「嫌。と言ったら?」
少女とも少年とも見分けがつかないその子供が悲しげな表情をした。
「残念だけど、『裁き』を受けないといけないの」
「いいよ」
「本当にいいの?」
「やるなら早くして」
「わかりました。『裁き』が行われます。準備をはじめてください」
その言葉を最後にその子供は姿を消した。
「あのさ……今の会話どういうこと?ていうか誰?『裁き』?って何?」
愛美と先ほどの子供との会話に不穏な空気を感じた俺は愛美に尋ねた。愛美は周りの警報音で気づかないのかまったく返事をしない。
「ねえ!聞いてんの!なんか変なことに巻き込まれて……」
「お前ら、ここに何をしに来た!悪意を持って街を乱そうとするならば私は容赦しない。聞いているのか!」
後ろから声がした。俺の声をかき消すように後ろから大声で怒鳴っている。ぎょっとして振り返ると、男もバイクのようなものに乗っているようだ。
「おい!動くな!ここの階層に侵入してきたのは何の理由だ!」
愛美は何も聞こえていないかのようにエンジンを吹かし続ける。
「愛美!なんか言われてるよ!」俺は不穏な空気を察して愛美に声をかける。
すると、男が手を前方に向けた。それとともに男の掌から青白い電光のようなものが放たれて、俺たちが乗る二輪の後ろのタイヤに命中した。一瞬だったが、タイヤは止まり、愛美はハンドルを切ったがバランスを崩してスリップした。俺はその弾みで道路の上に投げ出された。
道路の上はローションでも塗られたかのようにツルツルとしていて、投げ出された俺はそのまま道の端まで滑りガードレールに叩きつけられた。全身に疼痛が走る。
「おい!お前!何をしにきた!吐け!」
遠くから男の怒鳴り声が聞こえる。その声が身体に響いて痛みを増幅させた。目をゆっくりと開くと愛美が道路の真ん中でうずくまっているのが見えた。怒鳴り男は愛美に向かってのしのしと歩きながら喚きつづけている。
「おい!答えろ!」
男はしゃがんで愛美の胸ぐらを掴んだ。俺は立ち上がろうと試みるも地面が
「なに?」
愛美がうつむいたまま口を開く。
「何をしにここに来たかと聞いているんだ。迷い込んでしまったのなら素直に答えろ。追放で済ましてやる。ただし、ここの秩序を乱すようならこの場で罰を下す。どこから来た」
「どこからも来てないよ。私はどこにでもいるし、どこにも行かない」
そう言って愛美は顔を上げた。
それを見た男の顔に怒りと驚きの入り混じったような表情が巻き上がった。男は胸ぐらを掴んだまま手を振り上げ、愛美は数メートル先に飛んで仰向けのまま道路に叩きつけられた。男は手を愛美に向けて再び稲妻を放つ。放たれた白い電光が彼女の身体に纏わりつき、手と脚、胴、頭、首を縄のように地面に縛り付けた。
「また現れたか」男の語気に憎しみが込もっている。
「君と会った覚えはないんだけど」
愛美は挑発をしているようだった。
「黙れ。お前の顔は覚えている。だからあの時に始末しろと言ったんだ」
「怒ってるの?」
なにやら過去に何かがあったらしい。男が鋭い眼光を愛美に向けた。それに呼応するように稲妻の縄はさらにきつく愛美を締め上げるように見えたが、彼女は表情一つ崩さなかった。
「軽口を叩けるのも今のうちだな。前回は追放で済んだだろうが今回はそうはいかない。消えていく自らの運命に恐れをなすがいい」
男は手を天に上げると、蛍光灯のような光を放つ岩の塊が天から降りて来て、愛美の胸の数センチ上で止まった。先は鋭く尖り、今にも彼女の胸を突き刺そうとしている。
光に照らされた愛美の肌から白い欠片が湧き出てひらひらと上空に立ち上って消えていく。
「どうだ、苦しいだろう。これはお前の罪の痛みだ。じっくり味わえ」
「人が苦しんでるのを見て楽しむなんて、極悪」
愛美の四肢はもうほとんど消えかかっている。
「ふん、お前が招いたものだ。正義を軽んじたお前にふさわしい」
「なにいってるの?君は楽しんでるだけじゃん。『正義』の軽さが見てて恥ずかしいよ」
その言葉を聞いて男の顔に怒りがさらに湧き上がる。
「黙れ!」
男は手を振り下ろした。針のように尖った岩の先端は愛美の胸を貫き、青白い閃光とともに爆発した。辺りには蒸気のような煙が上がり、愛美の姿が消えてしまった。男はそれを見て表情を和らげた。
しかしそれも束の間、男はこちらに振り向くと鋭い眼光を向けた。視線を感じて這い蹲りながら必死にその場を離れようともがくが、摩擦がなくうまく進めない。そうこうしているうちに目の前に脚が現れた。どうみてもさっきの男のものだ。
「終わりだ」という直感が俺の脳裏を駆け巡る。考えを巡らそうにもこんな場所でどうすればいいのかなど思いつくこともできない。俺は無言で男を見上げる。
不意に体が持ち上がる感覚がした。男の手が俺の胸ぐらを掴んでいる。
「お前はどこから、どうやってここへ来た」
男の鋭い目が俺の目の前に現れた。怒りに満ちた視線に背筋が冷たく焼かれるのを感じた。どうすべきか。ここで言葉を誤れば愛美のように殺されてしまうかもしれない。その恐怖が俺の喉を締め上げるようでうまく言葉が出てこない。
「答えろ!」
男は大声を上げた。今までに聞いたことのないほど恐ろしい声だった。男の目は全てを見透かしているように感じられた。ここはむしろ正直に全て話した方が良いかもしれない。
「えと、ここがどこだかわからないんですが、普通に、あの」
「はっきり言え」
「飲み屋で飲んでいたんです。そしたら眠ってしまって、ここに連れてこられました」
「どうやって来た」
「高速を通って、そしたら道路の中に沈んで、気がついたらここに」
男は俺の話を怪訝な顔で聞きそれから考えるような顔をした。せめて生きてこの場所を出たい、そんな思いだけがあった。何かこの状況を脱するいい方法はないか。逃げる方法もない。それどころか歩くことすら不可能だ。
「あいつとはどういう関係だ」
「知りません。今日知り合ったばかりだし、誰なのかもよく知らないんです」
早くここから逃げ出したい。適当に話を合わせれば逃がしてくれるかもしれない。その時、男の背後に二輪の乗り物が見えた。
「そうか」
あれはおそらく男のバイクだ。今適当に話を合わせ、どうにかして奪えればここから逃げ出せるかもしれない。しかしうまくいかなかったら……。でもよく考えろ。この状況で逃げだす方法はあれしかない。男の後ろに停められている蛍光色のハンドルを見据える。あそこまで十数メートル、いやもう少し近いかもしれない。どのタイミングで行けば気づかれずにあそこまで……。
男は訝しげな表情を浮かべている。
「お前、今何を考えていた」
「えっ、いや何も考えてません」
「嘘をつくな!!」
男は俺の胸ぐらを掴んだ手を地面に振り下ろした。俺はそのまま背中から地面に叩きつけられる。
「今、
「いえ、そんなことありません!」
「黙れ!
そう言うと男は手を振り下ろす。指先から電流のようなものが流れ、俺の身体中を縛り付ける。電流は縛り付けた箇所を周回しながら肉を削り取るような痛みを俺に与えはじめた。
「うあああああああっ!!」
俺は激痛のあまり叫び声をあげた。痛みでもがこうにも体が縛り付けられて身動きが取れない。
「これが道に反することの痛みだ。わかるか?」
「……命だけは、助けてください」
男は高笑いを上げた。
「もしかして、死ぬだけで済むと思っているのか」
俺は全身を舐め回す苦痛に悶えながらもその言葉にとてつもない恐怖を感じた。死ぬこと以上の苦しみ。こんな人知を超えた力を持つやつがする拷問など想像したくもない。なにせ目の前で一人の大人が謎の力によって一瞬で吹っ飛ばされたのだ。肌という肌を焼き尽くされるのか。粉々に砕かれるような痛みを繰り返し味わわされるのか。それともこの電流が俺の肉を刻んで骨や内臓まで到達し……
考えるのを止めた。しかしその間も『縄』は四肢を這いずり回り切り刻むような痛みを与えるのを止めない。
「もう二度と現れるなよ」
男は人差し指を俺に向けた。
生きたい。助けてくれ。命だけでも、誰か。
助けてくれ。生きたい。誰か、誰か。祈るしかなかった。
『目を開いて 強く念じて』
どこかで聞いたことのある声が心の中に響いた。
愛美の声だ。彼女は生きている……?俺は目を見開く。
『心の目を開いて 命の力いっぱいに』
生きたい。死にたくない。生きたい。死にたくない。
電流の縄に縛り付けられながら必死にもがく。
「暴れても無駄だ」
男の指先から閃光が放たれる。
その瞬間、俺の手を巻いていた電流がちぎれる。
男が驚きの表情を浮かべた。
俺は顔の数センチ先に迫った閃光を右の掌で受け止めていた。
そして俺は何かに突き動かされるように自分に巻かれた電流を右手で一気にちぎる。手のひらの中で電流の渦がびりびりと
取り乱した男が再び閃光を放った。俺はそれが当然であるかのようにそれをも掴み取ると、手のひらの中で蠢く閃光を男に向かって放った。電流は矢のように空を駆け、男の腹部あたりに刺さる。電流を食らった男はそのまま十数メートル先まで飛ばされ、車道の中央に落ちた。すると、落ちた箇所からガラスが割れるような放射状のヒビが入り、そのヒビは割れた相場から白く輝きだした。
俺はいつしか飛んでいた。男を見下ろすと、まるで磁石に張り付くようにその場所から動けないでいるようだった。俺がそっと手を向けるとヒビのあらゆる場所から電光が噴出し、それは空を伝って俺の掌の中に吸い込まれていく。それと同時にヒビの模様は回転を始め、中心から外に向かって弧を描くような幾何学模様へと変化する。回転は少しづつ速度を増し、男は苦痛の表情を強めた。
男は苦しそうにしながらも天に手を仰いだ。すると、男の真上に先ほど愛美を突き刺したのと同じ白い石が現れた。男が手を振り下ろすと、男の少し横あたりに突き刺さり、回転と電流の放出が止まる。男はすかさず体勢を整えると力を込めて電撃を放った。放たれた稲妻は眩い閃光を上げながらこちらへ迫る。それを見てとっさに掌に溜めていた電流を放つ。二つの電光は直撃しそれとともに青白い光を上げて爆発する。白い爆煙が辺りを覆い、その風に押されて俺は体が道路の外へ吹き飛ぶのを感じた。それとともに体は揚力を失い、下へと真っ逆さまに落ちていく。そして落ちていく恐怖感を凌ぐように身体中を疲れと眠気が覆った。
遠のく意識。もうだめだ。ここまでか。
その時、声がした。
「お疲れさま。上出来。」
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