3.Ka῾ptön

耳元でけたたましい音が鳴り響いた。目覚まし時計のアラームだった。

音が頭に響いて痛むのですぐに止めた。

夢を見ていた気がした。何かものすごく疲れる夢を。

目覚ましに手を伸ばして時間を見る。

「AM12:00」

おいおい嘘だろ。急いでベットから飛び降り、身支度を始める。服を着替えながら歯を磨く。

昨日のことはよく思い出せない。高橋と飲んで、電車で帰って。

帰っている途中から記憶があやふやだ。そんなに飲んだ覚えはないんだけどな。

まあいいや。急いで向かわないと遅刻してしまう。どうやって寝たのかもよく覚えてないけど、スヌーズをつけていたおかげでギリギリ間に合いそうだ。

家を飛び出し、道を走り、改札を抜け、電車に乗る。

電車に乗っても頭がガンガンする。ちょうど空いている席を見つけたので座ることにした。

ふと、隣に座っている人が気にかかった。30歳くらいの女性で、赤ん坊を抱えている。赤ん坊はその母親の胸の中でスヤスヤと眠っていた。

その時、自分の中の何かが警告を発したような気がした。

『何かが落ちてくる』

俺は反射的に両手を赤ん坊の頭上に差し出した。母親は驚いた表情を俺に向ける。一瞬の間が開いた後、俺の手の上に何かが落ちた。

茶色のビジネスバッグだった。母親の目と鼻の数センチ前、そして赤ん坊の頭の数センチ上に差し出された俺の手の上にちょうど乗っかっている。

「あっ、すみません。大丈夫でしたか」

頭上から声がする。前に立っていたスーツ姿の男からだった。

母親は俺の手に乗ったビジネスバッグを見てぎょっとした顔をしたが、男の方を向くと怒りのこもった目線で「ええ」とだけ答えた。

母親は次の駅につくと一瞬男に鋭い視線を投げかけたあと、俺に「ありがとうございました」と言って降りていった。

俺は座席に座りながらバクバクと高鳴る心臓の音を聞いていた。

それも、自分で何が起きたかをよく理解できていなかったからだった。

鞄が落ちそうなところを見たわけでもないのになんで落ちそうだと思ったのか。そしてなんで咄嗟に赤ん坊の前に手を差し出したのか。全てが無意識で考えもなく動いていた。

もし俺が気づかなかったら、と思うと寒気がした。

まあ、大事にはならなかったからよかったかと自分を宥める。

なんか今の一件で疲れが増してしまった。荷物は落ちないように置いとけよ。

ため息をつきながら目をつぶった。その時、電車がガクンと揺れて突然冷えた空気が体を包んだ。



異変を感じて目を開くと、誰もいない電車の中にいた。

さっきまでの乗客が一人もいない。

吊り革と中吊り広告だけが振動に合わせて揺れている。トンネルを通っていたわけでもないのに窓の外は薄暗闇で何も見えない。

俺はきょろきょろと辺りを見回す。車両の後ろから前まで見回したが誰もいない。車内灯が誰もいない車内を不気味に照らす。

「あなたをアマガハラへ呼ぶよう要請がありました」

急に子供の声がした。どこから現れたのか、俺の真横に座っている。

「これから手筈てはずを整えます。申し訳有りませんがあなたは来ることになります」

その子供は淡々と何かを説明している。

「ちょっと待って、ここはどこ?」

「ここはどこでもない場所」

目の前からの声だった。もう一人の子供が目の前にいた。俺はその子供をまじまじと見つめる。

この子供たちは何者なんだ。どこかで見覚えがあるような気もするが、思い出せない。

「ちょっと待って、どういうこと?」

「君たちの時間でいうと昨日の夜、こちら側の街にいたでしょ?」

こちら側の街……?昨日の夜……。

その瞬間、俺の脳裏に全てが蘇った。昨日の夜、知らない女。そう、愛美だとかいうのに連れられて奇妙な街に。そして……。

「あんな場所に行くのはもう嫌だ!」

「残念だけど、ここで拒否することはできないの」

拒否できない?何を言っているんだ。でもこいつら、手から変な電撃を飛ばしたり縛り付けたりめちゃくちゃなことができる。そんな魔法使いみたいなやつらが言うことは妙に説得力がある。

俺は絶望に苛まれた。

「昨日のところへ行けと?」

「そう」

念の為に確認したところ、どうやらそうらしい。

「嫌だと言ったらどうなるの」

「それでも来ることになるよ。でも、最後は君の意思次第だから安心して」

「は?どういうこと?」

言っている意味がわからない。

「今言ったことがすべて」

「いや、意思って。どうすれば行かなくて済むんだよ」

「それをここで説明しても意味ないよ?」

「どういうことだよ」

「すぐわかるから。あと何かあればあっちで」

子供はそう言い残すと姿を消した。

「ちょっと!おい!」

俺が声を出したのと同時に視界が明るくなった。俺が大声を上げているのを見て周りの乗客たちが一斉にこちらを見た。さっきまで昼の街中を走っていた電車は、駅で止まっていた。



居眠りをしていたらしい。どんな夢だったのかは思い出せないが、なにか変な夢を見ていた感じがした。寝言で大声を上げて見られてとても気まずい。次の駅まで何駅だろう。そう思ってドアの上の案内を見る。目的地だ。

条件反射のように俺は座席を飛び出した。が、何かに足が滑り、そのまま顔面から床に突っ込んでしまう。顔をあげるとドアが無情に閉じる。振り向くと転がった缶から液体が漏れているのが見えた。

畜生。あと少しでバイトに間に合ったのに。



「すみません、寝坊してしまって」

『電車の中で眠りこけて誰かの飲み残しのジュースで転んで遅刻した』とは恥ずかしくて言えない。

「どうしたんだその顔。いいから早く支度してくれ。今日は忙しいんだ」

急いで着替えホールに出る。店内は満席だった。

寝坊を取り返さなければ。ホール中をいつもの何倍の速さで飛び回る。

その時だった。

「ちょっとさ、注文したミートソース来てないんだけど」

料理を運んでいたところ、一人の客に呼び止められた。

「少々お待ちください」

俺は念のため手元のハンディで確かめる。

注文が見つからない。ここの席の注文を受けているのはバイト仲間の田中だった。ややこしいことに、そいつはもう上がってしまっている。

「……えっと、すみません。すぐお持ちしますね」

「ちょっと待てよ。注文入ってなかったんじゃねぇの?」

男のドスの効いた声が体に響く。

「いや、あの、すぐお持ちしますから」

「いや、注文が入ってなかったかどうか聞いてんの」

「えっと、ちょっと入ってなかったみたいなんですぐ用意しますね」

「は?どれだけ待ったと思ってんだよ。俺、あんたに頼んだよな」

小太りの男は声を荒げた。しまった、と思った。

「えっと、僕ではないかもしれませんが、すぐ持って来ますので」

「言い訳すんなよ!あんたくらいの歳のやつほかにいないのわかってんだぞ」

悔しいが謝るしかない。この場を収めることが先決だ。

「ええ、申し訳ございません。すぐ持って来るので。お待ちいただけますか?」

「早くしろよ」

その言葉を聞いて急いで注文を流し厨房に向かう。

「注文入ってなくて。急ぎで作れる?」

「はいよ」

助かった。幸い厨房は今余裕があるように見える。

料理はすぐに出てきた。

「助かる。ありがとう」

「おうよ」

料理を持って小太り男の元まで運ぶ。どうにかなりそうだ。熱々のミートソーススパゲティを持ちながら、早歩きで男の元へ向かう。

その時、急に背中に何か重いものがぶつかった。

「なにすんだよ!」後ろで男が怒号をあげた。

俺の背中に当たったのはその男のようだ。

「信じらんない!」

その向こうで女が叫ぶ。痴話喧嘩だろうか。バイト仲間が慌てた様子で仲裁に入る。

しかし、そんなことよりもっと悲惨な光景が俺の目の前にあった。

熱々のミートソーススパゲッティが、小太り男の白シャツにぶち撒けられている。

心の中に恐怖が湧き上がって来るのを感じる。

恐る恐る目線を上へやる。男は怒りからか少し震えているように見えた。

「店長呼べ。今すぐに」



もう6時か。シフトの時間をオーバーしてしまっている。「こう言う日もある」と自分を説得しながら皿洗いを進める。ちょうど一通り洗い物が終わったあとに店長が近くに来た。店長はかなりイライラしているようだった。それもそうだ。店内で喧嘩を始めた男女を仲裁に入ったと思ったら、今度はバイトのミスで小太りの男に怒鳴られた挙句、クリーニング代まで店に請求すると言われたのだ。

「あの……」

「もういい、今日は帰れ」

弁解はできなかった。自分に非があるとすれば、後ろから来る突き飛ばされた男に気がつかなかったことだろう。しかしそれも急なことでどう対処すればよかったかさえ分からない。でもそれを今言ってもイライラしているこの店長を逆上させることにしかならないことは目に見えていた。

「わかりました……」

肩を落としながらバイト着を着替え、帰り支度をする。ポケットを触ったときに、携帯電話がないことに気がついた。俺はカバンの中、店のロッカーを探してみるがどこにも無い。失くした……?俺はどす焦りが心の中に広がるのを感じた。もし失くしたとすれば……。

一つだけ心当たりがあった。電車の中で眠ってしまい、急いで駆け出したあの時だ。俺はその時に携帯を落としてしまったのかもしれない。

俺は店から出ると急いで駅へ向かった。途中、やたら赤信号で足止めをされ、苛々が募った。駅に着くと事務室に駆け込み、携帯の忘れ物がなかったか尋ねた。

駅員は電話をかけ、二言三言話し受話器を置いた。忘れ物は届いていないと言う。

「他に忘れ物はどこかに届いていたりしないですか?」

思わず語気が強くなってしまう。

「いいや、この路線の忘れ物センターはそこしかないからね。今すぐないとまずいの?」

「はい、就活の連絡とかもそれでやっていて、とにかく無いと困るんです」

「うーん、じゃあ早く警察に届けに行ったほうがいい」

駅員に教えられた交番へ走る。警官も特にそんな連絡は来ていないと言うので、とりあえず遺失物届けの手続きをした。

届けを書きながら「見つかりますか?」と思わず聞いた。

「うーん、見つかるよう動くけどね。そんなに大切な携帯なら落とさないように気をつけなきゃ」

その警察官は困ったような顔をしながら言った。警察官の言う通りだ。なんで電車で居眠りなんかしてしまったんだろう。

三十分ほど経って駅へ戻ると、駅員が携帯が見つかったとのことだった。どうやら俺が交番へ向かったすぐ後に見つかったらしい。

無駄な労力を使ってしまったけど、携帯がすぐ見つかってよかった、と安堵する。

忘れ物センターはここから十駅離れた終点にあると言う。俺は急いでホームに向かったが、電車は来ていないようだった。

時間の流れに焦らされながら電車を待ち、ぎゅうぎゅう詰めの車内に乗り込んで、人を押し込んで作られた押し寿司のような電車の中で終着駅に向かった。駅に着くと、外はもうすっかり暗くなっていた。

事務室に行くと、『佐藤琳乃介様』と付箋が貼られたスマートフォンを渡された。スクリーンの電源を入れ、パスコードを入れる。間違いなく、俺のものだった。

しかし、携帯を見た瞬間、安堵感を上回る焦燥感が上回った。画面の電源を入れたときにいくつかの不在着信が映し出されたのだった。どれも昨日面接を受けた会社からだった。嫌な予感がよぎる。

俺は携帯を受け取ると、改札の脇まで移動し、恐る恐る電話を折り返した。

自動音声が留守電の詳細を伝え、ピーという電子音が鳴る。

「佐藤様のお電話でしょうか?こちら経会商事の斎藤と申します。二次選考の結果、最終選考へのご案内をしたくご連絡させていただきました。この時間にはお電話が繋がるとのことでしたので、必ず今日中に折り返しご連絡をお願い致します。なお、本年度は応募者が多く、ご連絡が遅れた場合選考から外れてしまうことがあるかもしれません。申し訳ございませんが、ご了承ください」

留守電はそこで切れた。俺はメッセージを聞き終えるとすぐに電話をかけ直した。しかし、「もしもし」と言った俺の声に反応したのは、業務時間の終了を告げる自動音声だった。

俺は打ちひしがれた。こんな休日に電話してきているということは、他の就活生達はすぐに折り返しているはずだ。折り返していないようなのは俺だけかもしれない……。これでここまで準備して来たことの全てが無駄になってしまう。

絶望が未来を覆い隠すように感じた。まだ何も確認していないが、全てが終わったような気分になる。

俺はよろよろと改札の脇から這い出る。抑えていた辛い気持ちがどっと溢れ出てくるようだった。くそ、なんでこんなことに。体から力が抜けていくようだ。

あっ。手に持ったスマホを落としてしまった。咄嗟に拾おうと身をかがめた時、人に体が当たってしまう。

「おい、てめえどこ見て歩いてんだよ!」

見るからにイカつい男だった。

「すみません」

「すみませんだあ?」

「体が当たっただけでしょ」

「ああ?なんだとこの野郎!」

「だから当たっただけでしょって言ってるんだけど」

もう気持ちがぐちゃぐちゃで自分が何を言っているのかさえわからなくなってきた。

「てめえ」

男は殴る構えをする。俺は反射的に目をつぶってしまう。

「あれ、ミチさんじゃん」

聞いたことのある声がした。目を開けると、高橋だった。



どうやらその男と高橋はギャンブルつながりの知り合いらしかった。男は「なんだ、タカちゃんの知り合いか」と言うと俺を一瞥して帰っていった。

「ごめん、助かった」

「いいけどどうしたんだよ」

「ちょっと体がぶつかってさ」

「そうか、大丈夫か」

「ああ、なんか話してたら気が軽くなったわ」

正直、ここに友達が来てくれてよかった。心にのしかかったものが少し取れるような気がした。

「でさ」

「なに」

高橋の目尻が下がった。

「ちょっと頼みがあるんだけどさ」

また何か企んでいるらしかった。

「なにを?」

「あのさ、この間言ってた石の人、ちょうどこの辺に来てるらしくて。ちょっと一緒に話聞いてくんね?」

うわ面倒くさいやつだ。

俺が「いやだよ」というと、高橋は「頼むよー。誰も見つからないんだよー助けてやったじゃんかよー」と言いながら俺の肩を叩き、わざとらしく手をパンと叩いて「一生のお願いだ。頼む」と言った。

「何回目だよ」

まあ、正直助けられた恩はある。それにその詐欺師がどんな胡散臭いことを言うのか興味がないと言えば嘘になる。

「いやもうほんと頼む。俺も同席するし、なんかあったら止めるからさ!」高橋は懇願する。

まあ、気分転換に行ってもいいか。

「行って話聞くだけだからな」



待ち合わせ場所は駅近のビルの一階にあるファミレスだった。店に入るやいなやテーブルが並ぶ向こうから茶髪の男が手を振った。

茶髪の男は緑の灰色のスーツに黒のネクタイをしていた。席に着くと男はメニューを見せながら「何頼む?」と聞いた。

「んじゃあ、コーラで」と高橋が不用心に言うので、釣られて「じゃ俺も」と答える。

「いやあほんと、今日はこんな時間に来てくれちゃって悪いね」

男は眉間に皺を寄せて謝罪の表情を作りながら笑顔を崩さずに言った。

「あっ、自己紹介まだだったね。俺の名前は三島、三島賢吾。君は?」

「佐藤、ですけど」

「そう、佐藤くん。よろしく」

三島と名乗る男は爽やかに挨拶すると握手を求めた。俺はそれに渋々応じる。

「高橋くんの友達?」

「ええ、そうですけど」

「そっか、いいねいいね」

「で、まあ少しは聞いてると思うんだけど」

そう言いながらカバンを漁る。

「これ、わかる?」

「『運気の上がる宝石』?」

三島の顔がさらに明るくなる。

「そう!正解。もしかして、そういうのに興味あったりする?」

「いや、高橋がそう言ってたので。僕はそういうのには興味ないです」

「あー、そうだよねー」

三島は「まあ、そんなもんか」みたいな顔をした。

「第一、そんなので運気が上がるなら誰も苦労しないと思いますし、信じろって言われても無理です」

「だよねだよね。わかる。俺もそうだったから」

三島は頷きながら笑ったあと、俺に鋭い目を向けた。

「でもさ、これが本当だったら試して見る価値あると思わない?」

「うーん」

怯むな、そう自分に言い聞かせる。

「例えばね、これは僕が前にこの石をあげた人だったんだけど、その人いつも落ち込んでてね。理由を聞いたら、毎日仕事で失敗してばっかりでよく上司の人に怒られてたんだって」

「はぁ」

早く終わらないかな。俺はコーラを手にとって飲みながら答える。

「で、どうすればいいのかって僕に相談して来たんだよ。だからね、この石を紹介してあげたんだ。そしたらどうなったと思う?」

三島は大げさに手を開いて質問を投げかける。

「急に仕事ができるようになったとか?」

「惜しいね。実はその人急に転職するって言い出してさ。僕もびっくりだったよ。そんな行動的な人に見えなかったからね。んで、そっちの仕事で大成功。今じゃ独立して自分の事業やってるよ」

「はぁ」

「んーなんかあんまり響いてないかな。バイトとかやってる?」

今は正直バイトの話はしたくない。

「まぁ、やってますけど」

「そう、今のバイトとかどう?大変じゃない?」

話を変えようと質問を投げる。

「特に。仕事に効果があるものなんですか?」

「仕事だけじゃないよ。もちろん、これで就職がうまくいったとかいう話もよくあるけど、よく物を失くしてた人がこれのおかげで失くさなくなったってのも聞いたことあるなあ。他の人からすればそんなちっぽけなことに思えるかもしれないけど、本人にとってはとても大きなことだったみたいだね」

「ふーん」

どうでもいい。そんなこと自分で決める。

「うーん、あんまり信じてないみたいだね」

「だって、そんなこと言われても本当かどうか分からないし。いい話だけされても嘘っぽいだけだし」

俺はその場で思いつく限りの正論をぶつけた。

「おー鋭いね、君」

三島は、やられたな、というような顔を作ってから、ニヤけ顔を浮かべた。

「でもね、そんなのはこっちも承知なんだ。だからいつもこう言ってる。『効果がなければ捨ててもらって構わない』ってね」

「そうなんですか……」

そう言われて信じる奴なんかいるのかよ、と心の中で呟く。

「そう。自信があるから勧めてる」

「でも仮にそれが本当だとして、本人がたまたま能力があっただけでしょ。転職した人だってそうだし、失くし物も自分で気をつけるようにしたとか」

早く諦めてほしいな。俺は早く帰って今日を終わりにしたいんだ。

「いやあ、本当に君は鋭い。そうなんだよ。人はみんな違った能力を持ってる。これはそれがなんなのか、それを生かすにはどうすればいいのかを指し示してくれるんだ。これは目先の運なんかよりずっと大事なことなんだよね」

「そうなんですね」

飽き飽きする。パッケージ化された善意の匂いがしてうんざりした。

「そういえば君、今日良くないことがあった?」

思いがけない発言に心臓がどきりと響くのを感じる。

「……いや、特に」

「そう?結構暗い顔してるよ」

「そうですか?」

黙っててくれ。あんたには関係ないことだ。と心の中で言う。

「バイトでなんかあったりしたとか」

「あったらなんなんですか」

今日のバイトのことは思い出したくもない。

「それをこの石に委ねてみないってこと」

「いや、特にそういうことはないので」

「そう」

三島はコーヒーを一口飲むと再び話しはじめる。

「例えば、こういうことない?バイトで理不尽に怒られたりとかさ」

ズキンと心臓が鳴った。今日のことを思い出して悔しい気持ちがこみ上げてくる。

「図星かな?どう?この石で人生変えてみない?」

「いいです」

「そう?そんなことがあってこう思ったんじゃない?『自分の人生こんなことばっかだな』って」

「いや別にそんな」

「損してるって思わない?正直になりなよ」

「いや……」

もうやめてくれ。

「これで変えてみようよ」

三島は俺の目の前に石をふらつかせる。

「いいですって」

目の前で今日の悔しさを掘り返されて惨めな気持ちがこみ上げるのを感じる。

「でも何やっても運良く切り抜けてる人見てずるいって思ったりしないの?」

「ありません!」

俺は三島を睨んだ。

「本当に?一度も?悔しくない?」

「そういう時くらい誰でもあると思います!」

語気が荒くなった。俺は辺りを見回す。その時、幾人かの客と目が合ってしまった。隣を見るとつまらなそうな顔をして高橋がコーラ片手にこっちを見ている。飲み屋で高橋が自慢話をしていたときの俺のようだった。

「まあ貰うだけ貰ってよ。それでどうなるかは君次第だからさ」

「じゃあ、貰うだけですからね。僕、人とか紹介しませんから」

俺はそう吐き捨ててコーラを啜った。

三島はわかったわかったと言いながら再びカバンから画面のない白いタブレットのようなものを取り出し、机の上に置いた。

「ちょっと検査するね。手を乗せて」

俺は言われたままに手を置いた。三島は手元のスマートフォンで何かを弄り、その数秒後、目を見開いて驚きの表情を浮かべた。

「……これはすごい」

「なにがですか」

三島はスマートフォンを見せてきた。『チャクラ値:高』と表示されている。

「これ、チャクラを測る機械なんだ」

「チャクラってなんですか」

三島は少し考える表情をしたあと、まあいいやと言ってまたカバンをゴソゴソ漁った。

「佐藤くんにはこれあげよう」

三島に渡されたのは手のひらサイズの茶色い段ボール箱だった。外にはシールや包装が無く、中に何が入っているのか全く分からないが、ずっしりとした重さを感じた。

「なんですかこれ」

「まあ、家に帰ったら開けてみてよ。怪しいものじゃないからさ」

「君、素質あるよ。もし興味あったら今日の夜やってみて」

「やるって何を」

「中に説明書あるから。絶対に後悔させない。人生変わるよ」



俺たちは三島と軽く挨拶をして別れた。

三島は「会えてよかったよ。ありがとう」とかなんとか言っていた。

渡された謎の箱が詰め込まれたカバンを見てため息をついていると、高橋が後ろから声をかけてきた。

「飯食うか?奢るぞ」

「いや、今日は疲れたから帰って寝るわ」

「そうか。今日はすまなかったな」

「いいよ別に。じゃあな」

「おう」

そう言って俺たちは別れた。電車に揺られながら、体にのしかかった重みに心が押しつぶされるようだった。思った以上に疲れを溜めていたようだ。

気を紛らわそうと携帯を見る。今日は色々あってちゃんと通知を見ていなかったが、大学からメールが来ているようだった。

通知をスワイプしてアプリを開いた。予想外の件名が目に飛び込んでくる。

【英語Ⅲ】レポート未提出のお知らせ

すぐには状況が掴めなかった。レポートは昨日出したはずだ。ちゃんと書いたし、学生の個人ページにログインして提出もした。過去の行動を反芻しながら鼓動が高まるのを感じる。出してないことになっている?嘘だ。そんなはずは……

メールの本文からレポート提出ページのリンクに飛び、提出状況を確認する。目に飛び込んで来たのは『未提出』の文字。必修科目の単位を落とすことは留年を意味する。学費のこと、就活のこと、将来への恐怖が頭を駆け巡り、それと同時に就活の電話のことが思い出される。

自分が積み上げて来たものが今日一日で全て崩れ去っていくようだった。

もしすぐに気づいていれば。もし今日のバイトであんなことがなければ。

その時、あの男の声が脳内に反響する。

「こう思ったんじゃない?『自分の人生こんなことばっかだな』って」



家についてよろよろと部屋に入る。ベッドに座ってテレビをつけると宝くじが当たった人がインタビューを受けていた。

「いやーまさか当たるとはね」とかなんとか言っている。服装と似つかわしくないブランド物の時計を腕に嵌めて、ニヤニヤと自分の成功体験を語っている。

『自分の人生こんなことばっか』

あんまり振り返ってそんなことを考えたこともなかった。いや、考えないようにしていた。過去を思い出してもしょうがない、そんな変えられないものを考えたところで意味はない。しかし。

隣のカバンを見つめる。カバンに手をかけて、ジッパーを引いてゆっくりと口を開ける。

茶色の箱が顔を覗かせた。手を出そうとして一度躊躇する。

いや、中身だけでも確認しよう。

カバンに手を伸ばし、箱を手に取る。ずっしりと重い。振ってみても音はしない。

意を決して箱を開けると、中から出て来たのはプラスチックで出来た白い立方体の機械だった。前面と思われる面にはボタンと液晶がついていて、上面と思われれる面には金属でできたプロペラがついている。

箱の底に紙が入っている。「上級者向けヒーリングマシン 取扱説明書」と書いてあった。

「上級者向け……?ヒーリング……?」

紙の裏面には次のように手順が書いてあった。

1、 電源を入れ、スイッチを入れます

2、 リラックスした状態で椅子に座ります

3、 音声に従って瞑想をしてください

4、 うまくいけば別世界への転移も可能と言われています

「それだけかよ」と思わず突っ込んでしまった。他には「水につけないように」といった警告や電池の交換方法が載っているだけだった。

別世界とかヒーリングとか何を言ってるのかもよくわからないが、「言われています」とは何だ。お前が作ったものじゃないのかと言いたくなる。

少し期待をしてしまった自分に嫌気がさした。こんなインチキ機械を渡されるくらいなら、あの石のほうが、多少気分の紛らわしにもなっただろう。

ベッドに倒れこんでその白い立方体を掲げる。なんで三島はこんなものを俺に渡して来たんだろう。説明書はとても雑だったがこの機械自体は精密そうな見た目をしている。

『絶対に後悔させない。人生変わるよ』

三島の声が再び脳内に響いた。

物は試し、何も起きないだろうが話のネタにでもなるかな。そう思い机の上にそれを置いてスイッチを入れる。

「明かりを消してください。明かりを消してください」

機械がいきなり喋り出したのでびっくりした。部屋の明かりを消すと音声は止んだ。光を検知して音声を出していたようだ。

確か、座るんだっけか。俺はベッドに座って機械を見つめる。暗闇の中で黄色い光がしばらく点滅したあと、再び音声が流れ始めた。

「背筋を正し、ランプを見つめてください」

言われるがまま、背筋を正して光を見つめる。

「目を薄目にして、深呼吸をしてください。息を吸います。1、2、3。息を吐いてください。1、2、3、4、5……」

どうやら3数えて息を吸い、5数えて息を吐けということらしい。人に呼吸の指図を受けるのはモヤモヤするが、とりあえず言われたように呼吸を繰り返す。

機械の案内に従って深呼吸を繰り返していると、ぶうんとモーターが回るような音がした。

プロペラが回り始めたらしい。それとともに吸い込む空気が甘い香りに変化した。その香りを吸っているとなぜかだんだんと体が軽くなるような心地がしてくる。頭の中が蕩ける感じがして、ふわふわとした感覚が全身を包んだ。

音が聞こえる。バチバチと何かが弾けるような音。目線を少しずらすと機械の上部あたりから電光のようなものが出ていた。「光ってるな」と思いながら目線をランプへ戻した。ランプの色は青色に変わっていた。もう焦点が合わない、白色の機械は火を吹き出して燃えてしまっている、動く気力が起きないな、などとぼんやり思っていると、

「久しぶりね」

子供の声だった。俺は驚いて仰け反った。

どこかで見覚えのある顔。何回か見た顔。

「お前、なんでここに」

周りを見回すと辺りの壁は真っ白だった。薄暗い明かりが部屋を包む。

「ここはどこだ」

子供はそれを聞いて「あははは」と笑った。

「何回も聞くのね。どこでもない場所だよ」

「どこでもない場所ってなんなんだよ」

「どこでもない場所はどこでもない場所だよ」

言っている意味がわからない。

「……戻って来たのか」

「おお察しがいいね。助かります」

何が『助かります』なんだ。

「早く元の場所に戻してくれ」

「それはできないよ。君の意思で来たんでしょ」

意思……?

『最後は君の意思次第だから安心して』

いつかの声が蘇った。

「もしかして、お前たちがそうなるように仕向けたのか。今日のバイトも就活も、あの三島とかいうやつも!」

「うーん。だとしても、君が選んでここへ来たわけなので」

否定しないのか。

「頼むから全部元どおりにしてくれ。それにあんなところへ行くのはもう嫌だ」

「まぁまぁ、そう怒んないでよ」

真後ろから声がして振り返る。もう一人の子供だった。

「急に変なところから出てこないでくれよ」

「ごめんね。でも私、そういう存在だから」

「そうそう、みんなすぐに慣れるから大丈夫」

今度は目の前からだった。気がつくと10人ほどの子供たちに取り囲まれていた。

「あっちでは自由だから。行ってもすぐ帰れるし」

別の子供が手を挙げた。

「受け入れの準備が整いました。準備はいい?」

「ダメって言っても連れて行くんだろ」

「まあね」

俺は肩を落とした。

さっきまで白い機械のあった場所には子供がいて、その手元から青色の火が出ている。その子供は手に息を吹きかけて火を消すと、火の中から現れた透明な棒を差し出してきた。

「はい」

「なにこれ」

「これはこっちの世界に来るための鍵。失くすと戻れなくなるから、気をつけてね」

「は?なんだよそれ」

「そのうちわかるから。じゃあこっち来て」

子供たちは俺の手を引っ張って部屋の隅へ連れて行こうとする。

地獄まがいの世界へ強引に連れて行こうとするこいつらに従うのは癪だったが、従わないと何されるかわからないので渋々付いていく。

部屋の奥の壁に立つと、不思議なことに自分の身長くらいの大きさの長方形の形に沿うように壁の中に溝ができた。

「それをドアの前へ」

『ドア』というのはこの溝に囲まれた壁だったものか。俺は恐る恐る棒を目の前へ差し出す。

すると、手に持っていた半透明の棒は鍵の形に変形し、『ドア』の内部から白い取っ手のようなものが現れ、その少し上あたりに小さな穴が空いた。

「鍵穴に鍵を挿して」

言われるがまま、俺は棒を差し込んで回すとがちゃりと音がした。

「さあ、どうぞ」

あんな場所に戻る、考えたくもなかったが、どうせ今逃げたところで連れ戻されてしまう。

「行ってすぐ帰ってこよう」

そう思いながら俺はドアを捻る。



ドアの外に広がっていたのは夜明け前のような薄暗い明かりに覆われた街だった。見回すと、辺りには氷でできたように透き通った高い塔のようなものが、幾つも立ち並んでいた。

地面はまるで鏡のようで、空の青さをそのまま映し出している。足はその少し上を浮遊しているような感じで、歩くと少しだけ弾力があるように感じた。

「自由、か……」

なんの目的もなく不思議の街に来て「あとは自由だから」と放置されてもどうしようもない。周りを見渡すと動物や骸骨の顔をした人間が普通に歩いている。

頭がおかしくなってしまったのか。と自分に問いかけても仕方ないので取り合えず戻る方法を探すことにした。

しかし俺の"帰り道"探しは難航した。道には通行人がひっきりなしに行き来していたので、とりあえず勇気を出して話しかけてみることにしたが、話しかけて嫌な顔をされたり無視されるのはいいほうで、敵意の目つきで見てくるものや逆にニヤニヤしながら俺の身体に触ろうとしてくる奴もいて気が気でなかった。俺の中の何かが「こいつには関わるな」と叫び続けるような心持ちがして、俺は逃げるように歩き続けた。ビルのような氷の塔が立ち並ぶ中をあてもなく歩いていると、ある塔の中から賑やかな音が聞こえてきた。

見ると、その塔の道に面しているところに人だかりができていた。その中の一人がその壁に手を当てると、俺がこの世界に来た時と同じように背の高さほどの扉が現れ、取っ手を捻ってその中に入っていった。周りのものも同じようにして一人や数人ずつ中に入っていく。上を見ると透明のアクリル板のようなものに「営業中」という文字が光っていた。このまま歩き続けていても埒が開かなそうなので、俺も真似して中に入れるか試してみることにした。

巨大な宝石のような壁に手を近づけると、一瞬、差し出した手の形に光が現れて消えた。再び試したが同じように光は消え、元の透明な姿に戻ってしまう。このままではどこにも行けない。その恐怖で俺は「頼むから開いてくれ」との一心で再び手を近づける。すると、その気持ちに呼応するかのように目の前の壁が切り出され、扉が現れた。俺は戸惑いながらも取っ手を持ち、捻る。

扉を開けると大きな部屋に出た。ここは店なのだろうか。椅子と机が並ぶ中に人がごった返し、カウンターと思しき仕切りの奥にはバーテンダーを思わせる人間がいた。俺は空いている席を見つけたのでとりあえずそこに座って店の中を眺めることにした。見回すと少し洒落たフードコートのようで、現実に帰って来たかのような雰囲気に心を落ち着かせた。少し気になるのはバーテンダー含め人間の姿をしていないということだ。皆、顔が動物だったり骸骨だったり、中には顔がなかったりと、まあ通行人もそんな感じだったのだが、こうして店に集まっているのを見るとまるで新手のコスプレパーティーを見ているようだ。

早く帰ろう、そう思った。

俺が初めてここに来たのならこの状況を楽しむ気持ちにもなれるだろうが、俺はこの場所そのものが自分に危害を加えるところだということを嫌でも知ってしまっている。

誰かに聞いて帰り方を聞き出したいが、この場所に信じられるよう者はいない。どうすればいいんだ。

そんなことを考えていると、遠くの方からサイレンとも鐘の音とも聞き分けがつかない音が鳴り響く。

その音は二回鳴り響く、その共鳴で机を揺らした。ふと、窓から外を見ると、さっきまで自分のいた地面が今いる場所から数メートル下の底になっていて、自分が建物の2〜3階くらいの位置にいることに気がついた。俺はただドアをくぐっただけなのに。

三回目の音は長く鳴り響いた。音はだんだんと高くなり、建物の中ながらまるで巨大なブザーが町全体に響き渡っているような感じだった。周りを見渡すとそこら中の客が酔っ払いのように盛り上がっていた。

続いて、何やら町全体に響き渡るような声でアナウンスがなされた。

「あなたがたに今日の恵みです。ありがたく受け取りなさい」

突然のことに何が起きるのか身構えていると、外からザーッという音が鳴り始めた。

雨だった。

そして、その途端、店の客が奇声をあげて一斉に外に飛び出しはじめた。

何事か理解できずに、俺は机の前で硬直する。外を見ると不思議なことに、空は晴れている。

雨粒は、遠くの光の柱に反射して、虹色に光る。いや、光り方が尋常じゃない。オーロラ色とでもいうべきか。

下を見ると、飛び出した人々が空に向かってグラスを掲げる。グラスに溜まった

液体はそれこそ液状化した虹のようで、グラスがいっぱいになると人々は七色かそれ以上に螢光するその液体を次々に口にした。

何が起きているのかわからないが、気になってくる。空から降っているあれはなんなんだ。

戸惑っていると、どこかから口論の声が聞こえた。

「おい、道を開けろ。雨を飲ませろ。俺を自由にさせろ!!」

「何言ってんだ俺が先だ」

「ふざけるな!!」

争う声を聞いたのか二人の人物を周りの人たちが取り押さえている。

しかし、俺はそれどころではなかった。

自由……雨を飲むと……自由……。

ということは、もしかして帰れるんじゃないのか。

確証はないけど、もしかしたら。

「おい、あの力をお前らだけで味わうのか!!俺は一生ここに閉じ込められたままか!」

「だから、順番を守ればお前も飲める」

「俺にも一口飲ませてくれ」

「話の通じないやつだな……」

その一言に反応するように体が動いた。閉じ込められたまま……。俺は気が気でなかった。

気付いたときには走り出していた。

早くここから出たい。帰りたい。

俺は人ごみをかき分けて出口に進もうとする。なかなか人の量が多くて前に進まない。早く帰してくれ。もうこんなわけのわからない場所に居たくない。助けてくれ。早く、雨が止む前に。俺は溺れながら海の中を掻くようにもがいた。もがいてもがいて進んでは押し返される。だめだ。もうここから出られないのか。そんな。

そんな時。

「やめな」

声がした。

「帰れなくなるよ」

振り向くと、そこには純白のワンピースを着た同い年くらいの女がいた。

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