23.Klekat skelte

五百平米ほどあるかという大きな部屋の中にはライトタイルが敷き詰められ、床から白い光が部屋全体を照らし尽くしていた。

その部屋の中にはベッドのように大きな黒いソファが一つ置かれ、そしてその目の前に透明なアクリル板が一枚立っているだけで他には何もない。

物音一つしない静寂の中、アクリル板が青白く光り出した。すると、そのなかから一人の白衣を来た女が現れそのままソファの上に腰掛けた。彼女が足を組み、そのアクリル板に手をかざすと、アクリル板は光を失いもとの透明な姿に戻った。

白衣の女は銀色に光る液体の注がれたカクテルグラスに口をつけた。彼女は目を瞑り、ゆっくりと味わうようにそれを口の中で転がした。

突き抜けるようなメントールに似た香りが彼女の全身に染み渡っていった。

酒のような心地よさはあっても酩酊感はない。むしろ全身が冴え渡っていくようだった。

今日のこの世界での疲れも緩やかにほどけて消えていくような感覚が彼女の身体を包んだ。通常なら現実の人間が眠りふけている時間に彼女は主に活動している。いくら物質界から離された霊魂の世界を放浪しているとは言え、この場所に自分の肉体、特に神経系を使ってアクセスしている以上、この世界で生まれた疲労が彼女の物質界の身体に蓄積されてしまうのは仕方がないことなのだ。

だからこの瞬間、こうして数十種のエリクシル液を調合して作った銀のオルゴン剤ドリンクと戯れる時間を彼女は大事にしている。彼女は自分に『パッチ』が必要なことをよく理解し、常にそれを実行してきた。

また、これはこの世界で魔導師と呼ばれる彼女が、現実の世界へ戻る前に必ずやっている習慣でもあった。

物質界に染まり過ぎれば汚れが溜まる。それと同じようにこの世界で長く活動すればこの世界の強いエネルギーに感化され過ぎてしまう。彼女はそれを嫌い、現実世界に戻るときには必ずこうしている。


魔導師がソファの上で夢うつつの表情を浮かべ、微睡みに浸ろうかとなったその時、突然大きなベルの音が鳴った。床照明の敷き詰められた現代的な部屋には似つかわしくない黒電話の着信音のような音だ。魔導師は目を開けると、アクリル板の上に手のひらをかざした。


「やあ、陽子。久しぶりじゃないか」

「そうかしら?」

アクリル板に壮年の男の姿が映し出された。男は気さくな調子で魔導師に話しかける。

「そうだよ。僕がどれだけ待ったと思っているのさ」

「そう、それは嬉しいわ」

「そっけないな」

「ふふっ。あなたがはしゃぎすぎなのよ」

「そうかい?……それにしても、君と過ごしたこの間の夜は素晴らしかった。物憂げに車を走らせる僕らに宇宙が嫉妬していた。街の夜景はキラキラと輝いて、僕らを惑わすように流れていった。まるでその一瞬が惜しいように光の限りを尽くしながら、僕らを出迎えたのさ。あれが芸術でないとすれば何が芸術なのか。あの時ほど素晴らしい景色はなかった。そうは思わないかい?」

「そうね」

「その輝きは君の美しささえも否定しようとしたかに見えた。ここに一片の間違いがあれば天と地を全て塗り替えてしまおうとするかのように」

男は顔に悲しさを浮かべた。

「だから、もう一度君に会いたい。もし君が良ければだが……」

「ふふっ。そう言って、私の選択肢を奪うつもりね。私がもし『いや』と言ったらどうするつもりなの?」

「……僕の願いが叶わぬのなら、何度でも君の眼の前に現れるつもりさ。それが罪であっても、僕は君に認められるまで……」

「そう、じゃ、いつにするの」

「思いを伝える時刻は常に早い方がいい。日の明かりの口喧しさから逃れるためにはね」

「わかったわ。それならまだ、日の光が出ていないうちに済ましてしまいましょう」

「そんな。済ますだなんて。僕は君に忘れられない思い出を作るつもりなのに」

「派手なことは嫌いよ」

「はは、君の好き嫌いぐらいわかるさ」

「そうかしら。自分が好かれているかもわからないのに?」

「……悪いけど、君が好きじゃなかろうと、僕は君を好きにさせる」

「勝手ね」

「なにぶん、こういう性分で」

「なら楽しみにしているわ」

「君が思うより、エスコートは得意だよ」

そう言って、アクリル板に映る男の姿は消えた。

魔導師はソファの端にあった水晶玉をつかみ取って眼の前に置いた。

「三島、聞こえる?」

ノイズに混ざって、三島の声がした。

「……はい。……なんでしょう」

「二層より宣戦の布告があったわ。戦いの準備を」

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