7.ʻPat trœbit

講義に来ている学生は少なかった。もともとそれほど人気のある科目ではなかったが、回数を追うごとに出席する学生の数も少なくなっていったように思う。

教授が教室に入り、気だるそうに講義の準備を始める。教室にはリクルートスーツを着た学生がちらほらいた。

俺は少し周りの様子を伺いながら、例の本を取り出した。

本を開くがどのページも白紙だ。ポケットから指輪を取り出して指にはめる。

その途端、本から文字がじわりと浮かび上がった。

『魔術行使に有効な呪文一覧』

題名の下に、発音記号とその発声の仕方がずらりと書かれている。ページをめくってみると、3ページ目くらいから呪文とその効果が一行ごとにびっしりと記載されていて、その調子で最後のページまで続いていた。

全て手書きだ。この膨大な量の文章を手書きで書くなんて、ものすごい執念を感じる。これを書いたのは誰なんだ。

しかし、そんなことを考えている時間はない。とりあえず発声の仕方だけでも覚えなくては。

俺は講義そっちのけで単位にもならない第三外国語の発音記号と格闘する。

説明を見ていると、自分が第二外国語で受けた中国語と英語が混ざったような印象を受けた。単位のための勉強しかしてこなかったのでよく理解しているわけではないが、これは少し助かった気がする。

読み進めていくと、発音のページの終わりに『コトダマの霊』の呼び出し方が書かれていた。

『目を瞑り、脚を広げ、右手を上に掲げてチャクラを解放する。コトダマの霊の姿を思い浮かべ、呪文を唱え、受け入れられるのを待つ』とのことだった。


Māsna myāśnaマースナミャーシュナsrakīkvastiスラキークヴァスティthamādamavaタマーダマヴァ miśpittamāya ミシュピッタマーヤ

Mūkna skarīnaムークナスカリーナ chakīkvastiチャキークヴァスティ yamīdamavaヤミーダマヴァ yapritamāyaヤプリタマーヤ

Thakāni amāniタカーニャマーニ khandmaritamauカンドゥマリタマウ thāmaターマ, kaskāmimāvasカスカーミマーヴァス

Bhārirā māsnaバーリラーマースナ khatadamāraniカタダマーラニ hapiryauハピリャウ

Khatnā havāstiカトゥナーハヴァースティ khatāva nastamauカターヴァナスタマウ thāmaターマ, dhyuyāstamāyaデュヤースタマーヤ

Bhārirā māsnaバーリラーマースナ khatadamāraniカタダマーラニ hapiryauハピリャウ


最初に覚えなきゃいけない呪文がこれか……。あまりの長さに戦意を喪失してしまいそうになる。というか、そもそも『コトダマの霊』の姿がわからない。

神様みたいな存在だから、髭を生やした老人だろうか?それとも悍ましい異形の姿をした怪物だろうか?『霊』と聞くと漫画で墓場に浮かんでるような火の塊のような気もしてくる。

そんなことを考えながら、紙に書かれた呪文を無音で唱えていると後ろから声がした、

「何やってんだ?白紙の本なんか読んで」

声の主は高橋だった。

「あ、ああ。なんか寝ぼけてて教科書とノートを間違えてたわ」

あはは、と笑いながら俺は誤魔化す。

「お前最近大丈夫か?いつも眠そうだしこの間なんか誰もいないところに話しかけてただろ」

この間……。

俺は午後からの授業があり、教室に向かっていた。すると初老の男に道を聞かれた。平日の大学の中で道を聞く男を少し怪しがりながら3号棟までの道のりを教えていたところを高橋に見られた。

「誰と話してんだ?」俺が再び男の方を見るとそこには誰もいない。その男は所謂『幽霊』の類であることは一瞬で理解した。

このところ、こういうことが多い。こうやって見えなくていいような存在が見えてしまう以外にも、一瞬先の光景がなぜか予想できてしまったりする。この間、競馬の中継を見て結果を予想したら全てのレースで予想が的中した。

もし自分が『裁き』なんてものに出場する必要がなければこれを生業にして生きていきたいところだ。まぁ、こんな俗なことにこの力を使い続けたらバチが当たって力を使えなくなってしまうかもしれないが。

あの街に出入りするようになってから、俺の目の前の景色は変わってしまった。

今目の前にいる高橋も、その他の人間も、動物も、最近では虫や植物のような生き物までもが、赤や青、黄色や緑などそれぞれの色に薄く光っているように見えるのだ。

いつかテレビで胡散臭さを全身に纏った『霊媒師』が「オーラが見える」などと言って芸能人の性格や日常の行動をズバズバ言い当てるのを、下らねえと思いながら見ていたことがあるが、いつしか自分がそちら側の人間になってしまっていたのだった。

しかし、そんなことを高橋に話して信じるはずがないばかりか、頭がおかしくなったのだと思われてしまうだろう。

「最近疲れてんのかなぁ」

このとぼけ方はあと何回通用するだろうか。そう思いながらため息をつく。

「就活がうまく行かなすぎて病んじまったのかと思ったよ」

「そんなわけないだろ」と言いながら、就活という言葉に心がぐりぐりと締められそうになるのを感じた。

そんな人生の岐路に立ちながら、俺は妙な宗教世界の異能バトルに出場しようとしてしまっている。

さっさと『裁き』を終わらせてしまおう。就活はその後だ。ダメだったら競馬かパチンコのプロにでもなればいい。そう自分へ言い聞かす。

「そういえばお前は英語のレポートの結果どうだった?」

英語のレポート……?記憶の奥底で眠っていた大事な出来事が、そのワードに反応して脳内に警鐘を鳴らしはじめる。

「どうしたんだよ急に青ざめて」

「俺、そのレポート提出し忘れたんだ」

俺が三島のへんちくりんな機械でアマガハラへ立ち入ったあの日、俺は自分が提出したはずのレポートが未提出扱いになっていたのを発見した。これを落としたら留年してしまうというのに、就活もすべて無駄になってしまうというのに、現実とあの世界を行き来している間に忘れてしまっていた。なんでこんな大事なことを忘れてしまっていたのか……

俺は慌ててレポート提出ページを開く。

しかし、目に飛び込んできたのは予想外のものだった。

『レポートは提出済みです』

俺は目を疑う。あの日開いた時には『未提出』となっていたはずだ。

「何言ってんだよ。この間レポート出したって自分で言ってたじゃねえか」

そんなことを言った覚えはない。ということは。

「あー、そう……だったな。この間見たら『未提出』になっててさ。何かの間違いだとは思ったんだけど、少し心配になったんだわ」

「あーそういうこと。不具合?」

「多分。他にそういう話聞いてない?」

「聞いたことねえな」

あの日、アマガハラに連れて行こうとするマナのせいでいくつもの不運に見舞われた。この英語のレポートもそうだ。でも、高橋の話を聞いていると英語のレポートが未提出になっていた一件そのものがこの世界では無かったことになっているように感じる。もしかして、マナの力を持ってすればこの現実世界を改変することすらできてしまうのか……?

授業が終わり、高橋とは適当な理由をつけて別れて、大学から一駅先のところにある公園まで来た。

周りを見回しながらベンチに座る。幸いここは誰もいなさそうだ。

目の前で鳩たちが首を揺らしながら歩いている。

俺は昼食に買ったパンをちぎって鳩の中に投げ込んでみた。

するとそのパンの切れ端を見るや否や鳩たちは一斉に集まってそれを奪い合いはじめた。

それを眺めながらあの街の雨の日を思い出す。

『おい、道を開けろ。雨を飲ませろ。俺を自由にさせろ!!』

あの男は自ら進んであの街に入ったのか。それとも。

少なくともあの街では単純に何もしないで幸せになれるようではないようだ。

できれば『裁き』が終わったらこの手の宗教沙汰からは身を引いて、こちらの世界で慎ましく暮らしたいんだけど。

まあ、とりあえず死にたくはない。俺は指輪を嵌め、あの本を開く。

そして本の呪文を一つ、そして一つ、ぶつぶつ呟きながら暗記する。

それから十数分後のことだった。外界に気をとられないようイヤホンをして集中モードに入っていた俺だったが、なにやら外が肌寒い。少しずつ気温が下がっていくのに比例して眠気がしてくるようになった。

ここまでか。少し休憩しようか。そう思って本から顔を上げる。

すると、公園の地面が霧に覆われている。そして、周りにあったビルやマンションは消え失せ、さっきまで昼時の太陽が照っていた空は薄明かりに包まれていた。

ここは……?

「ひっひっひっ……」

何者かの嗤い声。その方向を向くと、黒い仮面の人物がローブを着て立っていた。

「ボクちゃん何読んでたのかな?……いひひひっ」

「お前は誰だ!」

俺はベンチから立ち上がって相手を見据える。

「ちょっとね。ボクちゃんの運命、吸い取ろうかなと思って」

「は!?どういうことだよ」

Māna, rabaritamāyaマーナーラバリタマーヤ

仮面の脇にマナが現れる。

「なに?」

「『裁き』をしたい」

「なんの罪で?」

マナはその無垢な目をそいつに向ける。

「うーん、そうだな。じゃあ、『食べ物を投げ捨てた罪』でどうだ?」

「いいよ。琳乃介、聞いてる?」

俺のいないところで勝手に話がまとまってしまっている。

「いや、俺は戦いたくなんか……」

「ごめんね。そういう決まりなの」

「そんなこと言ったって、俺が何をしたって言うんだよ」

「さっきパン投げたでしょ。そういうことだから、準備はいい?」

「俺はいいぜ。ひひひ」仮面の男が鼻息を荒くする。

「それでは、『裁き』を開始します」

マナは声高らかにそう宣言し、すぐに姿を消してしまった。

俺の「待ってくれ」の声が虚しく響く。

「いひひひひ……」

仮面は卑しく笑う。やるしかないのか。どこからともなく風が吹き、地面の霧が揺れた。

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