第2章 この世で一番会いたい奴 1
「やめておけ! インスラなんざ、あんたみたいなお嬢様が行くところじゃないぜ。そんな高そうな格好をして行ってみろ。あっという間に身ぐるみ
一緒にインスラへ行くと言い張るアマリアを前に、俺はほとほと手を焼いていた。俺がどれほど怒鳴ったり
アトリウムで大声で言い争う俺達を、屋敷の奴隷達が、困り顔で遠巻きに眺めている。下々が住むインスラなどに行かれて、お嬢様の身に万が一の危険があっては、大いに困る。だが、面と向かって意見して、お嬢様の不興を買う事態も避けたいらしい。奴隷達の表情は、歯に衣着せずお嬢様とやり合う俺への期待半分、怒りが半分というところだ。
「大丈夫よ。自分の身くらい、自分で守れるわ」
アマリアは胸を反らして高慢に告げると、俺を押し退けてアトリウムを出て行こうとする。
「ちょっと待て。俺のインスラの場所も知らないくせに、どこへ行くつもりだ」
アマリアの肩を掴んで引き止めようとすると、アマリアは俺の手を右手でぱんと払って振り返った。
「あなたが住んでいたインスラの場所くらい、知っているわ。あなたについては、一通り調べさせたから」
「そいつは、つまらないことを調べさせちまったな」
嫌味のつもりで言ったが、アマリアには通じなかった。
「構わないわ。おかげで、あなたが殺人犯ではないと、自信が持てたもの」
アマリアは華やかに微笑む。己の判断に、確固たる自信を持っているらしい。
「俺の無実を信じてもらえて、何よりだ。助けてもらったことには、礼を言う」
「あら、いいのよ。恩返しだと、さっき言ったでしょう」
俺の言葉を遮って、アマリアが
「だが、これ以上は、あんたには関係ないだろう? 真犯人を捕まえて無実を証明するまで、俺はお尋ね者だ。一緒にいるところを見られたら、あんただって、ただじゃ済まないぞ」
何故、アマリアが従いて来ようとするのか、俺には、理由がさっぱりわからない。
お嬢様の暇潰しだとすれば、危険すぎる火遊びだ。犯罪者と馴れ合っていると世間に知られれば、金持ちのお嬢様といえど、ただでは済まないだろう。縁談だって遠退く。
何より、こちらは今後の人生が懸かっているのだ。遊び気分で首を突っ込んで掻き回されては、迷惑だ。
俺の言葉に、アマリアは勢いよく顔を上げた。俺を見上げる明るい茶色の瞳は、怒りで煌めいている。
「もう関係ないですって! あなたが警備兵に捕まれば、困るのは、あなたを逃がした私も同じよ。それに」
アマリアは腰に手を当てて胸を反らせると、傲然と告げた。
「殺人犯が罪を逃れてのうのうと暮らしているなんて、許せないわ」
アマリアは、本気で真犯人を捕える気でいるようだ。強い光を宿した瞳が、決意に輝いている。俺は咄嗟に言い返す言葉が見つからず、唇を噛んだ。
アマリアは俺達を遠巻きに眺めている奴隷達の一人を振り返ると、右手を出した。奴隷が進み出て、アマリアに何やら黒い塊を渡す。アマリアは俺に向き直ると、背伸びをして、黒い塊を俺の頭に乗せた。
「何を載せたんだ?」
慌てて頭の上の物を手にとると、黒髪のカツラだった。
一般的に、カツラは女性用が多い。宴に出る際に、流行の髪型に結ったカツラを被るのだ。地毛とは異なる髪の色を楽しめるカツラは、女性のお洒落の一つだ。
但し、本物の人毛で作られるため、非常に高い。庶民には縁のない代物だ。赤毛や金髪はゲルマニアから、黒髪はオリエントから輸入される。
数は少ないが、若くして禿げてしまった男性のために、男性用のカツラもある。
大抵の男は、高価なカツラは諦めて、頭皮に炭を塗って誤魔化すのだが。炭を塗れば、少なくとも遠目には、髪が生えているように見える。
俺の髪は金に近い茶色だが、もちろん、ふさふさと豊かだ。カツラなんかお呼びじゃない。このカツラは、変装用だろう。確かに、真新しいテュニカを着て髭を剃り、髪の色を変えれば、たとえ知り合いだって、すぐには俺だとわからないに違いない。
「わざわざ、カツラを用意したのか?」
いったい幾ら掛かったのだろう。呆れ混じりに呟くと、アマリアは悪戯っぽく笑った。
「違うわ。お父様のために買ったの。だから、万が一にでも、あなたが警備兵に捕まって没収されては、困るのよ」
一方的に言うと、今度こそ、アトリウムを出て行こうとする。
アマリアを説得するのは不可能のようだ。諦めの吐息をついて、俺はカツラを被ると、アマリアの後を追った。
◇ ◇ ◇
屋敷の外へ出ると、まだ陽は、かなり高かった。涼と潮の香りを運ぶ海風が身体を撫で、微かな潮騒が耳に届く。
アマリアの屋敷は、レプティス・マグナの旧フォルムに近いようだった。
レプティス・マグナは、ローマ建国に遡るほど古い歴史を持つ町だ。レプティス・マグナの西にあるサブラタ、オエアの町と合わせて、トリポリタニアと呼ばれる。
レプティス・マグナは、トリポリタニアの三都市の中で最も古く、八百年以上の昔に、フェニキア人によって建設された。同じフェニキア人によって建設されたカルタゴが、勢力を伸ばして以後は、トリポリタニアはカルタゴに従属したが、第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡した後は、ローマの支配を受け入れた。結果、ローマ暦八六一年(紀元一〇九年)には、レプティス・マグナは、ローマの植民市となっている。
建設当初のレプティス・マグナは、海に迫り出すような海岸添いに造られた。そのため、旧フォルム付近は、常に潮の香りと波音に包まれている。
アマリアと並んで通りを進むと、すぐに初代皇帝アウグストゥスと、ローマを擬人化した女神ローマを祀る神殿と、豊穣の神リベル・パーテルを祀る神殿の間に出た。
元々は、フェニキア人が信じる神、シャドラパとミルカシュタルトへ捧げた神殿だったが、ローマの支配が進むうちに、祀る神を変えていた。
旧フォルムは、閑散としていた。普段なら賑わいで聞こえない潮騒が、今日はよく聞こえる。列柱回廊に囲まれた
ローマ帝国中どこでも、円形闘技場の見世物の順番は、同じだ。最初に、闘獣士と野獣との闘いである
俺が住んでいたインスラは、町の南西にある
市場へと進むに連れ、少しずつ人が多くなっていく。
トリポリタニアは、北アフリカの中でも通商が盛んだ。最も大きな取引は、ライオンや
通りには、ローマ帝国のさまざまな地域から来た商人がうろついていた。俺と同じ北方系の商人もいるが、身なりが決定的に異なる。レプティス・マグナに来る商人は、皆、絹や綿など、金の掛かった服を着、指にも金や貴石のついた指輪をはめている。
人混みの中でも、アマリアの美貌は目立った。今日は日傘を差していないため、気の強そうな美貌が、明るい日差しにさらされている。隣を歩く俺に視線を向ける奴など、滅多にいない。他人から見れば、俺はアマリアのお供の奴隷のように見えるのだろう。
日傘がなくてもいいのかと、俺が指摘すると、アマリアは、馬鹿にしたように俺を見つめた。
「あなたのインスラが、日傘が邪魔にならないような場所なら、差していくわよ?」
「盗まれるか、壊されるのがオチだな。置いていってくれ」
動物の骨で骨組みを作り、布を張った日傘は、上流階級の女性が日差しの強い中、外出するための必需品といえる。女性の白い肌は、戸外で働く必要のない財力を示す証の一つだ。だが、生憎なことに、日傘は閉じられない。狭い階段を上がらねばならないインスラでは、この上なく邪魔だ。
人混みを押し退けるように、通りには何台もの荷車が行き来していた。豆や穀物を積んだ荷車や、オリーブ油を入れたアンフォラを積んだ荷車もある。一番多いのは、木材や大理石の板など、建築資材を積んだ荷車だ。
三年前、ローマ暦九四五年(紀元一九三年)の六月、ローマ帝国の歴史上、初めて北アフリカ出身の皇帝が即位した。名は、ルキウス・セプティミウス・セウェルス。もちろん、今までの皇帝の血など、一滴も引いていない。
賢帝と謳われたマルクス・アウレリウス帝が、治世中、ローマ帝国に侵入してくる蛮族の撃退に奔走し、最期はウィンドボーナ(後のウィーン)で病没した後、皇帝には、マルクス・アウレリウス帝の実子コモドゥス帝が即位した。
コモドゥス帝の治世は十二年間に亘って続いたが、ローマ暦九四四年(紀元一九二年)、コモドゥス帝は側近に暗殺された。
コモドゥスが暗殺された後、近衛軍団と元老院の支持を受けて皇帝に即位した人物は、ローマ軍団の叩き上げの軍人であったペルティナクスだった。しかし、ペルティナクス帝も、僅か四ヶ月もしないうちに、近衛軍団の兵士に暗殺される。
その後に起こった事態は、ローマ帝国中を唖然とさせた。
なんと、近衛軍団によって、帝位の競売が行われたのだ。皇帝に立候補したのは、ディディウス・ユリアヌスとフラウィウス・スルピチアヌスという二人の元老院議員。競売の結果は、ユリアヌスが帝位を競り落とした。
元老院議員達は、勿論、近衛軍団の横暴を快く思わなかった。とはいえ、表立って反対の声を上げる者は、誰一人いなかった。イタリア本国唯一の軍事力であり、首都郊外の兵舎に駐屯する近衛軍団は、政治的にも大きな影響力を持っていたのだ。
近衛軍団と元老院議員の双方から、皇帝即位の承認を取りつけたユリアヌスだが、ユリアヌスの即位に納得しなかった者達がいた。ローマ帝国の辺境の防衛線を守る軍団兵達である。
皇帝は、建前上はローマ市民と元老院から、統治を託された存在である。そのため、毎年、一月一日には各地の軍団駐屯基地で、軍団兵による皇帝への忠誠の宣誓が行われる。
ローマ軍団の総指揮権を持つ者は、当然ながら皇帝だが、普段、蛮族を撃退するために指揮を執るのは、属州総督である。
ユリアヌスの即位を不服とする軍団兵達は、自分達の指揮官を皇帝に推挙した。軍団兵達の後押しを受け、皇帝に名乗りを上げた属州総督は三人。
パンノニア・スペリオール属州の総督であるセプティミウス・セウェルス。
ブリタニア属州総督であるクロディウス・アルビヌス。
シリア属州総督であるペシェンニウス・ニゲル。
皇帝と、皇帝候補達による帝位争奪の内乱が幕を開けたのである。
四人の中で、最も素早く動いた人物は、セウェルスだった。セウェルスは、まず、ブリタニアから、首都ローマに近いガリアへと移動してきたアルビヌスに使者を送り、
元々、指揮下の兵士の数でセウェルスに劣っていたアルビヌスは、共闘を受け入れる。
背後の心配をひとまず取り除いたセウェルスは、直属の部下であるパンノニア・スペリオールの二個軍団を率いて、皇帝ユリアヌスのいる首都ローマへと進軍を始めた。
予想以上に早く南下してくるセウェルスの進軍速度に、ユリアヌスは満足に対応できないまま、寝返った近衛軍団の兵士によって暗殺される。
元老院議員は、掌を返したように、セウェルスを迎え、セウェルスに帝位に就いてくれるように要請した。
ローマに入ったセウェルスは、元老院の承認を受け、アルビヌスと共に共同皇帝に就任した。
向かう先は、シリア属州の州都アンティオキア。豊かなオリエントを支持基盤とするニゲルを倒すためである。
自分の支持基盤であるダヌビウス川沿いの軍団基地を経由し、軍勢を整えたセウェルスは、ローマ暦九四六年、ニゲルの軍を打ち破り、アンティオキアから逃亡したニゲルを始末した。ニゲルに勝ったセウェルスは、更に軍勢を東へ進め、ニゲルに協力的だったパルティア国内にも攻め入った。パルティアがローマへ攻め入らないよう、機先を制したのである。
その後、一年を費やして、オリエントの防衛線の再構成を成したセウェルス帝は、今年の夏、オリエントへ向かった道を今度は逆に辿って、ダヌビウス川沿いの防衛線を視察しながら、首都へ戻るという噂だった。
レプティス・マグナは、そのセウェルス帝の生まれ故郷である。
皇帝となったセウェルス帝は、レプティス・マグナに大規模な公共工事を行おうとしていた。通りに建築資材を積んだ荷車が目立つ理由は、公共工事のためである。
木材や石材を積んだ荷車は、いかにも重たげに車輪を軋ませている。不満そうな顔の
碁盤目状の通りの両側には、露店やインスラが並んでいる。市場に近づくに連れ、ざわめきが耳に届く。円形闘技場で見世物が催されていて、普段より多少は人が少ないとはいえ、やはり市場は活気があった。
食料市場は、二棟の会堂に収まっており、片方は円形で、もう一棟は、コリント式の円柱に囲まれた八角形だった。市場には、皇帝崇拝を謳った碑が立てられており、ラテン語と新カルタゴ語で碑文が刻まれている。北アフリカでは、民衆の間では、未だに新カルタゴ語が使用される場合が多い。
セウェルス帝が、アレクサンドリアのムセイオンと並ぶローマ帝国の最高学府、アテネのアカデメイアに留学し、学問を修めたのに対し、セウェルス帝の母親も、二人の妹も、ラテン語をあまり解さないという噂だ。
会堂の中では、平らな石の台の上に、さまざまな食料品が売られていた。
えんどうやレンズ豆、棗椰子の実や、オリーブの実。
食料市場の向こうには、
俺とアマリアは足早に市場を抜け、細い路地へ入った。大通りを外れると、途端に道が雑然となる。とりわけ、俺が住んでいる界隈は、貧乏人が多い地域だ。細い路地には、割れた素焼きの壺の欠片や、犬の糞、元が何なのかもわからないボロ布が転がっていた。
北アフリカは今は乾季だ。空気は熱く乾いている。俺が踏んづけた野菜屑は、からからに乾いて萎びていた。舗装されていない土の道は、歩くたびに土埃が舞う。
ガラスのビーズで飾られた洒落たサンダルを履いたアマリアは、迷いのない足取りで歩いていた。アマリアのような金持ちのお嬢さんは、こんな荒れた界隈など、足を踏み入れた経験もないだろうが、アマリアの表情に臆した様子はない。
どこかのインスラから、赤ん坊の泣き声が降ってきた。別のインスラからは、男女が言い争う声も聞こえる。痴話喧嘩か、はたまた大家と住人が家賃の交渉をしているのか。
この辺りのインスラは、大抵、三階くらいまでの高さだ。首都ローマには、六階や七階に及ぶインスラが立ち並び、空も見えないほどだというが、理由は、人口が密集するローマでは、十分な住空間を得るのが至難の業だからだ。ローマを離れれば、大抵の建物は二階、高くて三階建だ。
インスラの前に警備兵がいるかと危惧していたが、杞憂だった。警備兵の代わりに、近所の子供達が数人、男の子も女の子も入り混じって、追いかけっこをして遊んでいる。
住人が出入りしやすいように、インスラには通りに面して入口があり、入口の突き当たりに階段が設けられている。
喚声を上げて走り回る子供達の間を縫って、俺とアマリアはインスラへ入った。
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