第2章 この世で一番会いたい奴 3


 俺はアマリアの帰りを、屋敷のアトリウムで待っていた。

 太陽はかなり西へ傾いてきている。アトリウムの天井から差し込む陽光が夕暮れの柔らかさを帯びてくる。


 奴隷がオリーブ油のランプを灯し、アトリウムや部屋の壁に掛けていく。裕福な家では、嫌な臭いが少なく、すすが出にくいオリーブ油のランプや、蜜蝋みつろうの蝋燭を使うが、普通の家庭では、魚油や松明を用いる。貧乏人が使う燃料は、動物の糞を乾燥させたものだ。風のない夕暮れに貧乏人達が暮らす界隈を通ると、夕食の支度の煙が霧のように辺りに満ち、目に浸みて痛くなる。


 アトリウムを囲む部屋の一つに調理場があるのだろう。ハーブや香辛料の食欲をそそる香りが漂ってくる。


 俺は、手持ち無沙汰にアトリウムの噴水や大理石の彫像を眺めていたが、待っている間に気づいた点があった。どうやら、この屋敷に暮らす主人家族は、アマリア一人だけらしい。後は、何人もの奴隷ばかりだ。

 冷静に考えれば、俺はアマリアについて、名前以外の何も知らない。奴隷に聞こうにも、俺の正体を知っているのか知らぬのか、奴隷達は俺を避けるように動いている。


 彫像や噴水の水の流れを見るのにも飽きた俺は、手遊てすさびに、革袋の中のデナリウス銀貨を指で弾いては受け止めていた。


 呼び鈴が鳴らされ、門番が玄関扉を開ける音がする。振り向いた俺は、アトリウムへ続く廊下を歩んでくるアマリアの姿を認めた。


「警備兵に見つかる危険を侵してまで探しにいった物は、お金なの? 逃亡資金にでもするつもりかしら?」

 俺を見たアマリアが、からかうような笑みを浮かべて、口を開く。


「本物の銀貨ならな」


 答えながら、銀貨を指で弾く。

 空に舞った銀貨は、夕陽を反射して鈍く輝いた。アマリアの目が、いぶかしげに、す、と細くなる。


「見せてちょうだい」

 手を出したアマリアに、俺は銀貨を放り投げた。両手で受け止めたアマリアが、しげしげと銀貨を観察する。

「セウェルス帝の横顔が刻まれているわ。三年以内に作られたのね」


 金貨と銀貨は皇帝が、青銅貨と銅貨は元老院が、発行権を持っている。

 貨幣ほど、ローマ帝国の隅々まで、皇帝の姿を伝えるものはない。金貨と銀貨の鋳造はガリアのルグドゥヌム(後のリヨン)で行われ、青銅貨と銅貨は、首都ローマのカピトリヌス丘の鋳造所で作られる。


 硬貨の片面には、皇帝の横顔が刻まれる。皇帝が替わると、すぐさま新しい硬貨が作られ、帝国中へ運ばれて、民衆に新皇帝の顔を知らしめるのだ。


 共和制から帝政に移り変わった帝政初期、アウグストゥス帝は、通貨改革を行った。

 現在、ローマ帝国に一般的に流通している貨幣は、アウレウス金貨、デナリウス銀貨、セステルティウス青銅貨、アス銅貨である。その中でも、デナリウス銀貨は、最も流通しており、官僚の給料も、軍団兵の給料も、すべてデナリウス銀貨で支払われる。


 庶民の日常の買物は、セルテルティウス青銅貨が使われる場合が多い。換算は、四セステルティウスで一デナリウスだ。

 アウレウス金貨とデナリウス銀貨は、純金と純銀で作られており、セステルティウス青銅貨は五分の四の銅と、五分の一の亜鉛で作られている。


 五代目皇帝ネロの通貨改革によって、デナリウス銀貨は純銀から、銀の割合が九割二分に落ちたが、他の通貨は変化していない。つまり、ネロの時代から百三十年以上もの間、刻まれる皇帝の顔は違えど、通貨の中身は全く変わってないのだ。


 アマリアが銀貨を引っくり返しながら呟く。

贋金にせがねにしては、かなり精巧なほうだけれど、端々の彫りが甘いわね。それに、打刻が弱くて、浮彫うきぼりがうまく出ていないわ」


 ローマ帝国の通貨は、一枚一枚が、職人の打刻によって作られる手作りだ。まず、一流の職人が図案を彫って、表と裏の型を作る。型の間に熱した平金を挟み、槌を打ちつけ、平金に通貨の図案を打刻していくのだ。


「秤で量ってみないと、正確にはわからないけれど、本物の銀貨よりも、軽いみたいね」

「当たり前だろう。色々混ぜて、銀の量を減らさなきゃ、儲けが出ない」

 神妙な顔のアマリアに、俺は、ふん、と鼻を鳴らした。


「あなたは、この銀貨を、どこで手に入れたの?」

 俺の目を真っ直ぐに見つめて、アマリアが尋ねる。


「ミュルテイアから、渡された」

 俺の一言だけで、アマリアは事情を理解したらしい。

「ミュルテイアが男から盗んだ革袋に入っていたのね」

 俺はゆっくりと頷く。


「そうだ。だから、男は警備兵に訴えられず、自分で取り戻そうとしたんだ」

 盗まれた革袋に詰まっていたのが贋金の銀貨では、間違っても警備兵に届け出るわけにはいかない。盗人よりも、訴え出た自分の身のほうが危うくなる。贋金作りは重罪だ。


 アマリアが小首を傾げる。

「革袋の中身は全部、贋金だったのかしら?」

 俺は残りのデナリウス銀貨を掌に載せた。

「俺がミュルテイアに渡された銀貨は、全部、贋金だった。図案も、同じだ」

「それなら、ミュルテイアが盗んだ革袋の中は、全て贋金だと考えるのが自然ね」


「おそらく、ミュルテイアは、口封じのために殺されたんだ」

 俺は拳を握り締めた。手の中で、銀貨が硬い音を立てる。

 革袋を盗まれたと気づいた男は、さぞ慌てたに違いない。革袋の中身を警備兵に届けられたら、身の破滅だ。急いでミュルテイアの元へ取り返しに戻り、贋金だと気づいた可能性があるミュルテイアとマルロスを、殺した。


「くそっ!」

 心の底から怒りが込み上げて、俺は銀貨を握り締めた拳を額に打ちつけた。

 ミュルテイアは、自分が盗んだ金が贋金だなんて、芥子粒ほども疑っちゃいなかった。本物の銀貨だと信じて、無邪気に喜んでいた。口封じに殺す必要なんて、なかったんだ。


「ミュルテイア達を殺した男が、贋金作りに関わっていたのなら、その男が今日、殺されたことにも、何か事情があったのでしょうね」

 怒りに震える俺の様子を窺いながら、アマリアが考え深げに口を開く。


「事情なんか知ったことか! 見知らぬ奴に殺されるくらいなら、俺が殺してやりたかった! そうすりゃ、せめて、仇を討ってやれたのに!」


 俺は激情の赴くままに吐き捨てた。アマリアが、呆れたように吐息する。

「仇討ちは結構だけれど、殺したら、あなたの無実が証明できないでしょう?」

「真犯人が死んだ時点で、冤罪を晴らすのは不可能さ」

 俺はやけっぱちに言い、アトリウムの噴水に唾を吐いた。


「確かに、無実を証明することは、不可能に近いでしょうね」

 アマリアは絹の装いに包まれた肩をすくめた。


「殺された男が、ミュルテイアとマルロス殺しの真犯人かもしれないと、警備兵の詰所で訴えてみたけれど、相手にされなかったわ」

 訴えた時のやり取りを思い出したのか、アマリアは腹立たしげに腕を組んだ。

 実らなかったとはいえ、俺の無実を信じて、アマリアが尽力してくれたのだと思うと、怒り続けてはいられない。俺は神妙に礼を言った。


「そいつは、手間を掛けさせて、悪かったな」

「私が正しいと思ったことをしただけだもの。礼なんて、要らないわ」

 アマリアは鷹揚おうようにかぶりを振る。


「殺した奴の顔は、見たのか?」

 俺が尋ねると、アマリアは「ええ」と頷いた。


「あなたの部屋にいた時、窓の下で叫び声が聞こえたの。外を覗いたら、ちょうど男が刺されるところで。犯人の顔は、はっきり見えたわ。右の頬に大きな刀傷のある顔は、一度でも見たら、決して忘れられないもの。濃い茶色の髪で、背の高い男だった」


 アマリアは自分が見た光景を脳裏に思い描くかのように、まぶたを閉じた。長い睫毛が扇のような影を落とす。

「日に焼けていたけれど、肌の色は白かったから、現地民ではないはずよ。もしかしたら、軍団兵崩れかもしれないわ。鍛えられた身体と、無駄のない動きをしていたし、何より、男の剣を奪って殺す動作に、全く躊躇ためらいがなかったもの」


 瞼を開けたアマリアは、悔しそうに唇を噛んだ。

「悔しいわ。もう少し早く男達に気づいていたら、どうにかできたかもしれないのに」


「おそらく、贋金作りの仲間だろうな。何の理由で殺したのかは知らないが」

 贋金作りなら、何人もの仲間が必要だろう。一人や二人で実行できる犯罪ではない。大規模な犯罪組織が関わっている可能性は高い。


「好奇心旺盛なのは結構だが、犯罪に関わってると、そのうち怪我するぞ」

 短い付き合いだが、アマリアの性格はわかっている。忠告すると、アマリアは胸を反らせて、鼻をつんと上げた。


「大丈夫よ。少なくとも、あなたみたいに、犯人に間違われて捕えられるような間抜けは、絶対しないわ」

「ふんっ。あんたなら、さぞかし巧くやるんだろうさ」

 へそを曲げた俺が、唇を歪めて毒づくと、アマリアはおかしそうに声を立てて笑った。


「この手で犯人を捕まえたいところだけれど、あいにく時間がないの。そろそろ、ローマへ帰らなくては」

「あんた、ローマから来たのか?」

 俺はアマリアをしげしげと見た。日に焼けていない白い肌といい、美しい発音のラテン語といい、訝しく思っていたが、ローマから来たのなら、得心がいく。


 俺の言葉に、アマリアは頷いた。

「そうよ。お父様の農園で、管理人の奴隷が急死したの。それで、後任を決める必要があって来たのよ」

 北アフリカ全体は、首都ローマで消費する小麦の三分の一を生産するほどの穀倉地帯である。だが、レプティス・マグナが属するトリポリタニアには、肥沃な土地が少ない。町々は沿岸の細長い土地に並んでおり、後ろの高い山で砂漠から守られている。おかげで、内陸の乾燥地帯より気候がよい。


 内陸部では灌漑かんがいが行われており、穀物の生育には適していないが、オリーブには適している。大規模な農園は、ほとんどがローマの金持ちの持ち物で、大勢の奴隷達が日々、働いている。農園を管理しているのは、主人の信用が厚い奴隷や、主人によって解放された解放奴隷だ。


 農園の問題の解決などは、普通、男が解決すべき領分だ。ローマは男社会だ。女は財産権はあるものの、裁判での発言権すらない。政治に参加する手段もない。

 にもかかわらず、アマリアが父の名代みょうだいとして、レプティス・マグナに来ている意味を考えるに、アマリアの父親は、娘の能力を高く買っているのだろう。


 今まで見てきたアマリアの強気な性格や、素早く的確な判断、大胆な行動力を思うと、アマリアの父の判断は、正しい気がする。


「トラトス。あなたは、どうするの?」

 アマリアに問われて、俺は黙り込んだ。


 ミュルテイア殺しの真犯人が殺された以上、たとえ犯人の男を捕えたとしても、俺の無実が証明できるわけではない。死刑執行の直前で逃亡した俺は、一生、犯罪者として追われ続ける。少なくとも、このままレプティス・マグナには留まれない。


 元々、貧しさ故に、故郷のパンノニアから北アフリカまで流れてきた身だ。迷惑を掛ける親類縁者はいないし、他の属州に移り住むのも、抵抗はない。むしろ、遠くへ行ったほうが、安全だろう。不幸中の幸いというべきか、荷造りして持っていくほどの財産もない。我が身一つで逃げればいいのだから、気軽なもんだ。


 頭の中で逃げる算段を練っていると、アマリアが俺を見つめて、小首を傾げた。仕草は愛らしいが、明るい茶色の瞳は、悪戯っぽく輝いている。


「もし、あなたさえ良ければ、私と一緒にローマへ来る?」

 思いがけない言葉に、俺は目を瞬いた。アマリアは言葉を続ける。

「レプティス・マグナには、もういられないでしょう? せっかく助けたのに、また捕まって死刑になっては、私も寝覚めが悪いもの。どこか行く当てがあるのなら、無理にとは言わないけれど」


 俺は素早く思考を巡らせた。ローマは、広大な帝国の首都だ。最終的にどこへ逃げるか決めるにしろ、ローマからなら、どこへだって行ける。何より、アマリアと一緒なら、船賃が浮くのが魅力的だ。なんせ、俺の現在の全財産は贋金のデナリウス銀貨が四枚と、本物のセステルティウス青銅貨が二十枚ほどしかない。これでは、船旅は不可能だ。


「ありがたく申し出を受けさせてもらおう」

 アマリアを見つめ返して頷いた俺は、アマリアが何か答えるより先に、急いで言葉を続けた。

「だが、ただってのはしゃくだ。闘技場の外で助けてもらっただけで、あんたにはすでに、十分な恩を返してもらってる。これ以上、一方的に厄介になるのは嫌だ。すまないが、何か仕事をくれないか?」


「いいわ。働きたいのなら、荷物運びなんて、どうかしら? ちょうど、旅の間のお供をどうしようかと思っていたところだし」

 アマリアはあっさり頷くと、腕を組んだ。

「力仕事なら、任せてくれ」

 体力には、かなりの自信がある。右手で左腕を叩いて答えると、アマリアは高慢そうに微笑んだ。

「大した自信ね。言っておくけれど、怠けたら承知しないわよ」

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