第2章 この世で一番会いたい奴 2
一歩、インスラに足を踏み入れると、眩しい陽光が降り注ぐ外から急に屋内へ入ったせいで、視界が闇に閉ざされた。
暗い廊下を進むと、進むに連れ、闇の奥から鼻が曲がるような悪臭が漂ってきた。匂いの元は、階段の下に置かれた、大きな
目が暗さに慣れてくると、インスラの汚れた壁の様子がよく見えてくる。壁は剥がれ、手垢や油などで染みだらけだ。落書きもある。大家の悪口の落書きは、二か月前、俺が書いた落書きだ。
木製の軋む階段を三階まで上がれば、俺の部屋だ。
薄い粗悪な木の板を開けると、まず、部屋の中央に渡された荒縄に掛けられた大きな布が目に入った。どうやら、俺の後の入居者は、部屋を半分に仕切って、又貸ししているらしい。私生活など、あったものではないが、家賃は半分で済む。
窓を締め切った部屋の中は暗く、むっとする空気が淀んでいた。裕福な家では、窓にガラスや鉱石の小片を入れるが、そんな高級品は、俺の部屋には存在しない。窓は採光のためには必要だが、冬は、日光と一緒に入ってくる冷たい風も我慢しなければならない。薄く伸ばした皮を窓に張る奴もいるが、俺の部屋の窓は、両開きの板戸だった。
「汚いわね。それに、変な匂いがするわ」
部屋の中を見回したアマリアが、鼻の頭に皺を寄せる。
室内は雑然としていた。床の上には、調理用の小さな火鉢や、直接、床に敷いた
机の上には、調理用の小さなナイフと、素焼きの壺、縁の欠けた素焼きの器が載っている。おそらく、壺の中には葡萄酒が入っていたのだろう。
「俺が住んでいた時は、まだマシだった」
俺はアマリアに言い返しながら、部屋の中に入った。見栄を張った嘘じゃない。今の住人よりは、もう少し、まともな部屋だった。多分。
臭気の元は、火鉢に掛けられたままの鍋だ。
あそこには、古着屋で買った、俺の一張羅のテュニカを掛けていたはずだが、消えている。越してきた奴が盗ったに違いない。
住人の姿はない。こんな薄汚い部屋にいるより、外に出て、市場をうろついたり、神殿の日陰で涼んでいるほうが、よっぽどいい。
アマリアは部屋の奥へと進むと、窓の板戸を開け放った。眩い陽光が差し込み、部屋の惨状を更に明らかにする。
何年も掃除されていないせいで、床も壁も汚れに汚れている。元の色がわからないほどだ。俺がこの部屋に住んだ期間は三年ほどだが、俺が越してくる前から、汚かった。勿論、俺も床を磨いた覚えなど、これっぽっちもない。
町には公共の給水場があり、遠い泉から引いてきた水道から、常に水が流れている。しかし、インスラの三階まで汲んだ水を運んでくる作業は、骨だ。アクアリウスと呼ばれる水運び屋もいるが、労力さえ掛ければ、ただで手に入る水に金を払う奴は、裕福な家の奴だけだ。本当の大金持ちなら、邸宅のアトリウムに直接、水道を引く。アマリアの屋敷のように。
わざわざ苦労して運んできた水を、掃除に使う酔狂な奴なんていない。そのため、インスラは、年を経るごとに汚れが積もっていく、という構図だ。
アマリアは部屋の汚さに呆れ果てたように、窓から外を眺めている。周りも、ここと変わらないインスラが立ち並んでいるだけだが、青空が見える分だけ、ましだと思っているのか。
俺としても、汚い古巣でぐずぐすしている気はない。俺は、机の上に置いてあったナイフを手に取ると、床に直に敷いてある藁布団を、足で蹴って除けた。軽い音を立てて藁が散る。
藁布団を敷いていたため、床の汚れは少しはましだ。俺は床の木と木の間に刃を入れると、そっと木を持ち上げた。隙間から指を突っ込んで、小さな革袋を引っ張り出す。
中身もちゃんと入っているようだ。新しい住人は、俺の金の隠し場所までは気づかなかったらしい。
安心に、ふと、気を抜いた瞬間。
「やめなさい!」
突然、アマリアが窓の外に放った鋭い叫びに、俺は思わず身体を強張らせた。だが、アマリアは俺に構わず部屋を飛び出すと、階段を駆け下りていく。表情は凍りついたように固い。
俺は革袋の中身を確かめる暇もなく、アマリアの後を追った。軋む階段を一段飛ばしに駆け下りる。
アマリアは、既にインスラの外へ出ていた。外へ飛び出すと、視界の左端でアマリアのストラが翻るのが見えた。迷わず左へ曲がる。アマリアが入っていった場所は、インスラとインスラの間の細い路地だった。
近づくに連れ、いくら嗅いでも慣れない異臭が、漂ってきた。血の匂いだ。
「アマリア!」
全速力で角を曲がる。最初に目に飛び込んできた光景は、地面に仰向けに倒れた男だった。胸に、柄近くまでグラディウスが刺さっている。
見開いた目は、男の魂が、すでに冥府へ旅立った事実を示していた。ただ、命の名残のように、男の身体の下に、今もじわりじわりと血の海が広がっている。
視線を上げると、アマリアは、少し先の角にいた。何かを探すように、しばし左右を見回した後、諦めたように
俺は、男が息を吹き返さないかと、儚い望みを懸けて、男の身体を揺さ振った。
だが、無駄だった。男は完全に事切れている。
「くそっ!」
低く罵声を洩らし、唇をきつく噛む。
「知り合いなの?」
戻ってきたアマリアが、俺の顔と男を見比べて、興味津々といった顔で尋ねる。
「知り合いじゃない。だが、こいつは、この世で一番、会いたかった奴だ」
俺は吐き捨てるように告げた。会えたと思ったら、死体になっているなんて、
アマリアは血溜まりに触れないように気をつけながら、俺の隣に屈んだ。
「つまり、この男が、ミュルテイアの最後の客で、ミュルテイア達を殺した男だと?」
「ああ、間違いない」
俺は血で汚れた男の顔を見つめた。俺がマルロスの軽食堂で見た男だ。顔は俺とは似ても似つかないが、男も俺と同じ北方系で、明るい髪の色や背格好は俺とよく似ている。
「自分のグラディウスで刺されたようね」
アマリアが、男が腰から下げた空の鞘を示す。
「らしいな」
俺は素っ気なく返事した。心の中では、絶望が渦巻いている。
無実を証明するためには、こいつを捕まえて、自白させる必要があった。
なのに、この男はもう、死んでいる。死体は、何も語らない。俺が罪を晴らす機会は、永遠に失われたのだ。
「
じんじんと左頬が痛みだす。容赦のない平手だ。文句を言おうとした瞬間、別の声が割り込んだ。
先ほど、路地を走り回っていた子供達だ。俺達を指差して、口々に大声を上げている。
「あなたは、先に屋敷へ帰ってなさい」
男に視線を落としたまま、アマリアが命じる。
「私は、ここに留まって、警備兵を待つわ。すぐに子供達が連れてくるでしょうし。でも、あなたは、警備兵に会うわけにはいかないでしょう?」
「それはそうだが」
こんな裏路地に、身なりの良いアマリアを一人で放っておくわけにはいかない。警備兵が来るまでに、死体がもう一つ増えている可能性だってある。
俺の心配を知ってか知らずか、アマリアはからかうような笑みを浮かべて、俺を見た。
「もしかして、帰り道がわからないの?」
「ふざけるな。子供じゃないだぞ」
憤然と言い返したが、アマリアは動じた様子もない。
「なら、早く行きなさい。邪魔よ」
野良犬でも追い払うように右手を振る。口も態度も悪いが、俺が警備兵に見つからないように気を遣ってくれているのだけは、わかる。
「気を、つけろよ」
注意を言い残して立ち去ろうとすると、背中にアマリアの声が飛んできた。
「要らぬ心配よ。あなたは、自分の身だけ、案じてなさい」
俺は、続けて言おうとしていた礼の言葉を飲み込み、舌打ちしたい気持ちを押さえつけた。くそ。可愛くない娘だ。
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