第3章 運命の女神は語らない 1


 港で使いを出していたおかげで、ローマ市内に通じる門の一つ、オスティア門には、アマリアの屋敷から遣わされた担ぎ手付きの臥輿レクティカと荷物運びの奴隷が待っていた。アマリアが臥輿に乗り込み、俺は奴隷達と一緒に荷物を担いで、臥輿の後ろにつく。


 アマリアの屋敷はローマ市内の北東部クィリナス丘に建っている。オスティア門からだと、市内をほぼ縦断しなければならない。

 世界の首都カプトゥ・ムンディと呼ばれる帝国の首都ローマだけあって、街路は、多種多様な人々で混み合っていた。


 主人の今夜の晩餐用だろうか。背の高いゲルマン系の奴隷が縛られた豚を抱えて道を急いでいるかと思うと、黒い髪の小柄な女奴隷が、水が入った甕を抱えてインスラへ入っていく。

 房飾りのついたテュニカを着た金持ちそうな東方系の男が二人、商談をしているのか、しきりに指を折り曲げて数字を示しながら、人混みに逆らわずに進んでいる。公衆浴場へ行くと見えて、自前の垢擦り器を持って歩いている男もいた。


 広大な地域を治める帝国の首都ローマには、帝国各地から人が集まってくる。ぐるりと周りを見回せば、肌や髪の色の違いだけではない、貧乏人から金持ちまで、ありとあらゆる人々が見えた。


 アマリアが乗った臥輿は、前に奴隷が一人立ち、通行人を押し退けるようにして、しずしずと進んでいく。臥輿の幕は開けられているため、中のアマリアの様子が、見てとれた。

 アマリアは、明るい茶色の瞳を煌めかせ、興味深そうに道行く人々を眺めている。まるで、不在の間にローマが少しでも変わっていないかどうか、確かめているかのようだ。優雅に首を左右に向けるたび、結い上げた髪の下で、銀の耳飾りが微かに揺れる。


 通りの両側には、道行く人々を威圧するように、インスラが立ち並んでいた。

 ローマのインスラは、大抵が七階建だ。トライアヌス帝が定めた法律によって、インスラの高さは十二パッスス(約十八メートル)までと決められているが、守っていないインスラも多い。中には、八階建のインスラもある。当然、高ければ高くなるほど上階は貧相で脆くなり、倒壊の危険も増す。ローマでは、時折、インスラの上部が倒壊する事故も起きていた。


 見上げれば、目が眩むほどの高さのインスラに挟まれた通りは、まるで峡谷のような趣だ。大通りは、まだ広さがあるため、陽光が降り注いで明るいが、網の目のように張り巡らされた路地や、山道のように曲がりくねった小路の中には、日の光すら差さない場所もあるに違いない。


 ただでさえ人通りが多いというのに、道の両側には、近隣で採れた果物や素焼きの壺、肉の串焼きなど、さまざまなものを売る露店が立ち並び、道幅をいっそう狭めていた。


 石畳で舗装された街路は、太陽に照らされて、鍋のように熱い。裸足で歩いたら火傷しそうだ。だが、道行く人々は、気にもしていないようだ。市内の中心部へ進むにつれて、更に人混みが増してくる。


 人々の頭の向こうに、巨大な建物が見えた。大競技場キルクス・マクシムスだ。大競技場は、縦の長さが四二十パッスス(約六二十メートル)、横幅が八十パッススもある巨大な建物で、二十万人を収容できる。


 あと三日で九月になる。九月の朔日カレンダエは、ローマの最高神ユピテルの祭日だ。祭日の三日後にはユピテルに捧げる競技会、ローマ競技会ルディエ・ロマーニが開催される。ローマ競技会は十五日間も開催される大規模な競技会で、演劇が行われる他に、フラウィウス円形競技場コロッセウムでは、剣闘士試合が、大競技場では戦車レースが行われる。庶民も騎士階級も元老院議員階級も、皆が熱中して観戦するのだ。


 大競技場の短い辺の横を通り過ぎると、右手に皇帝の住まいであるパラティヌスの丘が見えてくる。初代皇帝アウグストゥス以降、皇帝は代々、パラティヌスの丘の上の皇宮で暮らしていた。


 だが、現在の皇宮は、主が不在だ。セウェルス帝はニゲルを倒すべく、シリアへ遠征しており、共同皇帝のアルビヌス帝も、ルグドゥヌムに滞在しており、首都へは、一度も足を運んでいない。しかし、たとえ皇帝が不在であろうとも、皇宮では、お仕着せの白いテュニカを着た宮廷奴隷達が、せっせと働いているのだろう。


 ローマの中心ともいうべき中央広場フォルム・ロマヌムに近づくにつれ、更に人込みの密度が増してくる。臥輿は中央広場を避け、ユピテルやユピテルの妻である女神ユノーの神殿が丘の上に立つカピトリヌスの丘を右手に見ながら道を何度も曲がって、ローマから北へと伸びるフラミニア街道を目指して進んでいく。


 フラミニア街道へ出た後は、途中で右へ折れ、ウィルゴ水道の高架橋を辿るように北東へ進めば、クィリナリス丘へと着く。クィリナリスとは、神格化されたローマの祖ロムルスからとられた名だ。クィリナリス丘には、美食家で有名なルクルスの庭園をはじめ、幾つもの庭園が建てられており、ローマ市内だとは俄かに信じられないほど、緑が多い。裾野には、貧乏人が住む不衛生なインスラが立ち並んでいるが、丘の上には、別世界のように、立派な邸宅ドムスが並んでいる。


 クィリナリス丘の大通りはアルタ・セミタ通りだが、アマリアの屋敷は、アルタ・セミタ通りより西側を通る旧サラリア街道沿いに建っていた。堅牢そうな高い壁も、玄関扉のぴかぴか磨かれた飾り鋲も、いかにも金持ちの屋敷らしい。


 臥輿を先導していた奴隷が玄関扉に付けられた青銅製のノッカーを鳴らすと、門番の奴隷が扉を開け、臥輿から下りるアマリアのために、木の台を持ってきた。

 臥輿から軽やかに降りたアマリアは、

「お父様はどちらに?」と、門番に尋ねる。


「旦那様は、応接室タブラリウムにいらっしゃるかと思いますが……」

 門番の返事は歯切れが悪い。頷いたアマリアは屋敷の中へ入っていく。俺と荷物運びの奴隷達は、アマリアの後に従いて屋敷へ入った。


 白と黒のモザイクの床の短い廊下を進むと、光に満ちたアトリウムに出た。

 アトリウムの中央には、巨費を投じてクラウディア水道から引いた噴水が、泉の女神エゲリアが掲げる壺から、勢いよく流れ出ている。噴水の周りには、青銅や大理石の像が立ち並んでいた。猫足の青銅製の椅子も置かれている。


 物音を聞きつけたのか、アトリウムの奥にあるタブラリウムから男が一人、出てきた。手にパピルスの巻物を一本、持っている。


 濃い灰色の房飾りがついた白いテュニカを着ていたが、服装を見ずとも、五十歳ほどのこの男が、屋敷の主人であり、アマリアの父親だと、すぐにわかった。栗色の髪と明るい茶色の瞳が、アマリアと同じだ。


 アマリアから名前も聞いている、グナエウス・カルティウス・ログルスだ。アマリアが男性用のカツラを父親への土産に買っただけあって、アマリアと同じ栗色の髪は、頭頂部分がかなり寂しい。


 娘が帰ってきたというのに、ログルスの表情は暗く、瞳には沈痛な光が宿っている。

 主人の姿を見た荷物運びの奴隷達は、軽く一礼すると、アトリウムの奥にある階段のほうへと退いていった。おそらく、二階にアマリアの私室があるのだろう。


 俺は奴隷達に従いて行かずに、アトリウムへ留まった。尋常ではないログルスの様子が気に掛かる。俺よりも早く父親の異変に気づいたアマリアは、ストラの裾を翻して、父親へ駆け寄った。


「お父様、いったい何がありましたの? 奴隷達の様子も変ですし」

 娘の言葉に、ログルスは一瞬、アマリアに縋るような視線を向けた後、項垂れた。両手で顔を覆う。


「クィントゥスが……。クィントゥスが死んだという知らせが、今朝、来たのだ……」


「お兄様が、亡くなられたですって!」

 瞬時にアマリアの表情が凍りつく。


 アマリアの兄、クィントゥス・カルティウス・ウィリウスについて、俺は多少の知識があった。暇な航海の間に、アマリアから話を聞いたのだ。


 十六歳のアマリアより七つ年上のウィリウスは、アマリアの言葉をそのまま引用するなら、人当たりがよくて、見目麗しく、しかも、優秀な人物らしい。


「お兄様は、私の憧れなの。私も男に生まれたかったわ。そうしたら、どんな時にでも、お兄様の隣で、お役に立てるのに」

 船の上で、アマリアが悔しそうに言っていた言葉を思い出す。兄について話すアマリアは、生意気さが薄れ、表情は、年頃の娘らしい憧れに輝いていた。


 ウィリウスは、年の離れた妹を、とても可愛がっていたという。アマリアも兄が大好きで、ウィリウスの後を従いて回っては、勉学だろうと乗馬だろうと、兄の行動を何でも真似したがったそうだ。アマリアがお転婆に育った原因がわかる気がする。


 アマリアの話では、確かウィリウスは今、元老院議員である父親ログルスの伝手を頼って、属州統治の実地勉強のために、ヒスパニア・タラコネンシス属州の州都タラコ(後のタラゴーナ)で暮らしているはずだ。


「お父様、どういうことですか! お兄様の身に、いったい何が起こったのです?」

 衝撃のあまり、血の気の失せた顔で、アマリアが父親の腕を掴む。


「これが、知らせだ……」

 ログルスは震える手で、左手に握り締めていた巻物を差し出した。アマリアが奪うように巻物を取り、乱暴に開く。


 アマリアに巻物を渡したログルスは、悲しみに堪え切れなくなったかのように、力なく床に膝をついた。顔を覆った両手の間から、低い嗚咽が漏れ聞こえる。


 ログルスに握り締められていたパピルスは、変な皺が寄っていた。アマリアの茶色の瞳が、忙しなく左右に動く。

「そんな、お兄様が狩りの最中に、落馬して亡くなられたなんて……」

 ほとんど唇を動かさず、かすれた声で呟いたアマリアは、やおら、巻物をくしゃくしゃに両手で握り締めた。


「こんな知らせが、本当のはずがありません! 何かの間違いに決まっています! 私がヒスパニアへ行って、この目で、ちゃんと確かめてきます!」


 激しい口調で告げたアマリアは、ストラの裾を蹴散らすように身を翻し、アトリウムを出ていく。まるで、立ち止まれば死神に捕まってしまう、と思い込んでいるかのような、急ぎ足だ。


「アマリア!」

 俺は荷物を床に置くと、アマリアを追いかけた。

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