第10章 宿までは遠すぎる 2


「うちは、連れ込みはお断りだよ!」

 入口にいた客引きの婆さんが、アマリアを見て、大声でがなり立てる。


「裏口は、どっちだ!」

 俺は婆さんの声に覆い被せるように叫ぶと、財布から取り出した銀貨を一枚、婆さん目がけて放り投げた。勿論、贋金にせがねではなく、本物の銀貨だ。両手で銀貨を受け止めた婆さんの反応は素早かった。


「突き当たりの部屋の右手の壁をずらしな」

 顎をしゃくって、廊下の奥を指し示す。


 悪どい商売に勤しんでいる娼館には、役人の手入れが入った時や、歓迎すべからぬ客が来た時のために、裏口を設けている店が多いが、大当たりだ。


 俺はアマリアの手を引いたまま、薄暗く細い廊下を店の奥へ突き進んだ。廊下の両側には小部屋があり、入口には目隠し程度に布が垂れている。幾つかの小部屋は使用中らしい。中から、赤面せんばかりの物音や嬌声きょうせいが聞こえてくる。


 心配になって、手を繋いだアマリアを振り返った。だが、アマリアは恥ずかしがるどころか、生まれて初めて入った娼館に興味津々のていだ。


 ちょうど、事を終えた客が一人、ほうけた顔で小部屋から出てくる。男は走ってくるアマリアに気づくと、驚きに目をひん剥いた。


「な、なあなあ。あんたは……」

「悪いが、こいつは娼婦じゃない」

 舌舐めずりせんばかりの顔でアマリアに声をかけた男を、俺は冷たく遮った。


「先約が入っているの。ごめんあそばせ」

 アマリアは、ここぞとばかりに上品に笑うと、男を袖にする。振られたにもかかわらず、男は美酒にでも酔ったような顔でアマリアを見送る。


 婆さんに示された小部屋に飛び込んだところで、娼館の入口で、男の怒鳴り声が聞こえた。三人の百人隊長が、俺達を追って押し掛けてきたらしい。

 が、振り返っている暇はない。婆さんは三人の百人隊長を相手に何やらわめき散らしているが、あまり時間稼ぎにはならないだろう。


 婆さんが教えてくれた小部屋は、薄暗い上に、かなり汚かった。ただでさえ狭い部屋の壁際には、幾つか背の高い壺が並んでいる。中身が何かは知らないが、覗く気にもなれない。

 壺の上には微妙に傾いた棚があり、素焼きの食器やら、安物の装身具やらが、乱雑に置かれている。


 婆さんが言っていた壁には、釘が打ち付けられ、汚れたテュニカが何枚か、掛かっていた。テュニカを掻き分けると、すえた匂いが鼻に飛び込んできた。作りかけの巣を壊された蜘蛛が、怒って俺の頭に飛び乗ってくる。


 テュニカの裏に隠されていた箇所には、薄い板が立て掛けられていた。板の隙間から、降りしきる雨音と、冷たい外気が忍びこんでくる。乱暴に板をずらすと、雨の飛沫が入ってきた。ちょうど、大人が屈んで潜れるほどの穴が、壁に穿うがたれている。

 激しい雨の幕で、出た先がどうなっているのかは、よくわからない。


「アマリア、先に行け」

 廊下を走る百人隊長の靴音は、どんどん近づいている。ぐずぐずしている暇はない。


 アマリアは躊躇ためらう様子もなく身をかがめると、さっと外へ出た。俺もすぐに後を追う。抜け穴を使ったと、すぐにばれないように、板は元に戻しておいた。


 外に出た途端、滝のような雨が身体に打ちかかる。まるで、俺達を打ち砕き、地面の泥と一緒に押し流そうとするかのようだ。


 娼館の裏は、人がすれ違うのも難しそうな細い裏路地だった。ごちゃごちゃと家が建っていて、まるで迷路のように入り組んでいる。勿論、石畳の舗装なんて、ありはしない。主要な通りは、碁盤目状に整然と交差しているが、一歩でも裏道へ入れば、どこの町だって、こんなものだ。


 長く暮らしたレプティス・マグナなら、追っ手をくなど、わけない。だが、今日ここに着いたばかりで土地勘の全然ないイスカ・シルルムでは、方向を見失わないようにするだけで、精一杯だ。


 アマリアが先に立って、曲がりくねった裏路地を駆けていく。裏路地には、人っこ一人、犬一匹すらいない。


 三人の百人隊長は、まだ抜け穴に気づいていないようだが、気づくのは時間の問題だ。それまでに、少しでも距離を稼ぎたい。


 足を前に出すたび、ブーツの下で泥が跳ねる。外套なんて、何の役にも立たない。中のテュニカまで、冷たい雨でびしょ濡れだ。全身ぐっしょり濡れ鼠だというのに、何故か口の中だけが、緊張で、からからに乾いている。


 不意に、俺達を両側から押し潰すかのように建っていた建物が途切れ、視界が開けた。大通りへ出たのだ。


 俺は、三人の百人隊長がまだ追ってきているかどうか、振り返って確かめた。今のところ、姿は見えないが、裏路地は曲がりくねっているため、見通しは悪い。完全に撒けたかどうか、まだ油断ならない。


 左右を見回して、町を貫く大通りのどの辺りへ出たのか確認したアマリアは、宿の方向へと、再び走り出す。幸い、宿は近くだ。宿へ着いたら荷物を引っ掴んで、すぐさま、こんな危険な町とは、おさらばしよう。


 皆、雨を避けているのだろう、目抜き通りですら、人影はまばらだった。人がいないのを幸い、俺達は石畳の中央を駆け抜ける。


「もう! 邪魔だわ!」

 濡れたストラが足に絡みついて邪魔なのだろう。アマリアが苛立った声を上げて、泥が跳ねまくったストラの裾を乱暴にからげる。


「お嬢様がする行状じゃないぜ」

 父親のログルスが見たら、大いに嘆くだろう。俺が注意すると、アマリアは悪びれた様子もなく答えた。


「どうせ、あなたしか見ていないわ。あなたが、他言しなければいいのよ」

 もちろん俺は、他言する気なんて、芥子粒ほどもない。まあ、遠い未来に孫でも生まれたら、若い頃の冒険譚の彩として、話してやらなくもないが。


 そのためには、まずは生きて、イスカ・シルルムを脱出しなくては。

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